宇多丸・ZEEBRA『今日は一日”RAP”三昧』対談書き起こし

宇多丸・BOSE『今日は一日”RAP”三昧』対談書き起こし 今日は一日RAP三昧

ZEEBRAさんがNHF FM『今日は一日”RAP”三昧』にゲスト出演。宇多丸さんと1990年代中盤のキングギドラが登場した日本のヒップホップの状況について話していました。

今日は一日"RAP"三昧、始まった! よいしょー! #nhkfm #zanmai

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(宇多丸)はい。ということでスチャダラパーの『スチャダラパーのテーマ Pt.2』。もう、あれじゃないですか。ヤナタケさん、全部歌えるじゃないですか。

(DJ YANATAKE)歌えますね(笑)。もう本当に大好きだったし。でも、いま聞いてもこの時からBOSEくん、クソラップ上手え!

(高橋芳朗)アハハハハッ!

(宇多丸)やっぱりね、この時のたとえばラキムのフロウの感じ……わかんないけど、流行っているラップのフロウの感じが片鱗があるんですよ。洋楽の感じの。だからこの感じが新世代感なんだよね。

(DJ YANATAKE)さっきアメリカのへんで「ニュースクール期」みたいに言いましたけども。本当にデ・ラ・ソウルが出てきたような感じで日本でスチャダラパーが出てきたっていうことですよね。

(宇多丸)その日本語ラップというか、そのアプローチということに関して本当にね、スチャダラパーをはじめて見た時、「あっ! 考え方が近いやつが俺より先に成功している!……チクショーッ!」っていうね。

(高橋・ヤナタケ)アハハハハッ!

(宇多丸)ということで、スチャダラパーはいち早くメジャーフィールドというか。すごくいいところで成功していきましたが。さっきBOSEくんも言っていたけど、売れようと思って売れたというよりは好きな……ナイス&スムースみたいなことをやろうぜってやっているうちにああいう『ブギー・バック』みたいな大ヒットが生まれた。たとえば似たような立場で同じ時期に『DA.YO.NE』という大ヒットが出ますよね。1994年。紅白にまで出てしまうわけですけども。それをやったEAST END×YURIというグループですけども。もともとEAST ENDというグループで。これは僕ら、ライムスターも仲間としてずっと一緒にやってきたグループです。本当、同じアンダーグラウンドのシーンからずっと切磋琢磨してやってきたグループが、たまたま、売れるつもりじゃないので売れちゃった感じっていうか。

(DJ YANATAKE)そうなんですよ。別にわざわざこういうキャッチーな風にして、それが結果的に売れたとかじゃなくて、いままで通りのことをやって、彼らのスタイルのままやってそれがたまたま売れちゃったっていう。

(宇多丸)『DA.YO.NE』なんかは市井由理ちゃんという当時、東京パフォーマンスドールだった子とやった企画盤のアルバムの中の1曲で、シングルカットすらしていなかったんだよね。

(DJ YANATAKE)そうですよ。しかも、アルバムのいちばん最後に入っていたみたいな。

(宇多丸)そうそう。ただ僕はこれ、録った当時からこの曲がすごい好きで。「ああ、これはいいな」と思って。結構珍しく家に帰ってテープで何度もこれを聞いたりするぐらい好きで。そうこうするうち、あれはたしか『笑っていいとも!』の中でタモリさんが「ラジオで『DA.YO.NE』っていうのを聞いたけど、あれいいよね。日本語への置き換え方が知的だ」みたいな言い方をして褒めてくれたりとかして。

(DJ YANATAKE)で、これは本当にラジオ発のヒットみたいな感じで。最初はジワジワジワジワ行くんですね。

(宇多丸)北海道のノースウェーブという局で最初に火がついて……というのもあったりして。

(DJ YANATAKE)で、結果紅白歌合戦に出場までするんだけど、紅白に出たのは95年の年末なんですよね。だから1年ヒットみたいな。……なんなら2年ヒットみたいな。

(宇多丸)1年かけてゆっくり。しかもその途中で、日本におけるサンプリング問題っていうか。ジョージ・ベンソンさんがね、(サンプリングの)ネタを作ったジョージ・ベンソンさんがたまたま来日した時にラジオで聞いてしまい。「なぬっ!?」ってなったという歴史を繰り返すようなことをやっている。

(DJ YANATAKE)フフフ(笑)。

(宇多丸)ということで、これはやっぱりかけないわけにはいかないでしょう。1994年から95年。1年を通して売れました。EAST END×YURI『DA.YO.NE』!

EAST END×YURI『DA.YO.NE』

(宇多丸)はい。本当にね、一緒にちっちゃなクラブで。全然お客がいない中から一緒にやっていた仲間がみるみる売れてしまっていったというね。その後、私のキャリアにおいて全然珍しくなくなった光景(笑)。知っているやつがバカみたいに売れちゃうみたいな。そういう現象の最初でしたね。EAST END×YURIで『DA.YO.NE』をお聞きいただいております。94年。

(DJ YANATAKE)そういう時、自分たちのイベントとかどうだったんですか? 『FG Night』とか。

(高橋芳朗)客層が変わったりとか?

(宇多丸)いや、FGはもうイーストはこれなくなっちゃったね。クラブイベントをやっていたんだけど、イーストはしばらく来れないことになっちゃったという感じですね。なんですが、みなさん……『ブギー・バック』『DA.YO.NE』という二大国民的というか、誰もが知るヒップホップ、ラップヒットが飛んだ94年なんですけども、実はその頃アンダーグラウンドシーンで、非常に重要な動きが起こっていたわけです。それこそいまの『フリースタイル・ダンジョン』とかに至るような全ての始まり、爆発が起こるわけですね。要は、地下には異常なまでに不満を溜め込んだ若者たちが……(笑)。

(高橋・ヤナタケ)フハハハハッ!

(宇多丸)ただ、面白いのはそのスチャダラパーにしろEAST ENDにしろ、怒りを溜め込んだ連中と全くシーンとしては同じところにいるというところが面白いんですけどね。ということで、ちょっと説明は後にしましょう。僕はこれは時代を変えた1曲だと思っていますね。最初に僕はこのデモテープを聞いたのは1992年の暮れですけども、衝撃を受けました。お聞きください。マイクロフォン・ペイジャーで『MICROPHONE PAGER』。

MICROPHONE PAGER『MICROPHONE PAGER』

(宇多丸)いやー、どうです? 怒りの熱量がもうさ、ただ事じゃないわけじゃないですか。あと、当然マイクパスのスリリングさもあるし。ということで、マイクロフォン・ペイジャーのセリフタイトル曲というか。『MICROPHONE PAGER』をお聞きいただきました。これ、後にやっぱり日本のヒップホップシーンがいまの盛り上がりに至る、最大の起爆剤は僕はマイクロフォン・ペイジャーの登場だと思っています。もちろんライムスターも結成して活動もがんばってやっていましたけども、ペイジャーの登場の何が革命的か?っていうとやっぱり正しいヒップホップ。だからアメリカのヒップホップにおける91年、92年にハードコア化の揺り戻しがあったと言いましたよね? ほとんど同時期に日本でも正しきヒップホップ像というのをいったん確立しないでどうするんだ?っていうか。

(高橋芳朗)うんうん。

(宇多丸)「ふざけんじゃねえよ! そんなの、ヒップホップじゃねえ!」っていうことをガツンと言う動きがあって。それに対して、もちろん同調してもいいし、反発をしてもいいんだけど。とにかくペイジャーに対してどう回答するんだ?っていうところでいろんなことが活性化したし。それまで全然違うところでやっていたそれぞれが一緒にイベントとかをやって。ピリピリしながらも、あいつらには負けないようなライブをやるとか、パフォーマンスをするとか、曲を作るっていうコンペティションの世界に入ってきたのは完全にペイジャーの登場のおかげだし。

(高橋芳朗)うん。

(宇多丸)たとえば、いまの『フリースタイル・ダンジョン』に至るような即興でラップでバトルというか、客がいる前で対話をするというか。それを始めたのがメロー・イエローというグループのK.I.Nちゃんという人なんですけど。K.I.Nちゃんもやっぱりペイジャーになんとかして対抗するには……っていうんで、まあ一緒にイベントに出ていたんで、最後にフリーでマイクを持つオープンマイクの時間帯ではじめてその即興での日本語ラップっていうのをトライして。もちろんいまの技術と比べたら全然話にならないんだけど、やっぱりそれさえもペイジャーにどうしたら対抗できるんだ? とか、あの熱量にどうやったら応えられるんだ?っていう。やっぱりペイジャーへの回答だと僕は思っているんで。

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(DJ YANATAKE)うんうん。

(宇多丸)で、後の、あとで聞いていただきますけども。たとえば雷の登場であるとか、いろんな諸々のシーンの土壌というか、いまにつながるシーンの直接のビッグバンというか、巨大隕石というか。これはやっぱりね、マイクロフォン・ペイジャーだと思いますね。

(DJ YANATAKE)そうっすね。やっぱりファッションから何から、影響された人は多いですからね。

(宇多丸)やっぱりヒップホップ像というか、割とその時の現行USスタイルとかトレンドをきっちりそのまま直輸入するスタイルというか。

(DJ YANATAKE)彼らがニューヨークから戻ってきたら、ニューヨークで杖をつくのが流行っていたらしくて。マイクロフォン・ペイジャーが全員杖をついていたりとか(笑)。

(高橋芳朗)アハハハハッ!

(宇多丸)杖とかさ、味付きの黄色い枝とか。

(高橋芳朗)ああ、噛んでた、噛んでた!

(DJ YANATAKE)でも、そういうのも全部かっこよかったんですよね。

(宇多丸)で、ですね、もちろんペイジャー。こうやって土壌を作って、そこに影響された若者が次々に出てきます。一方で、全く違うところから、どんどん出てくるわけです。まあ、後ほど紹介するブッダブランドもいますし、やはりキングギドラでしょうね。ということで、キングギドラよりZEEBRA。電話がつながっていると思います。もしもし?

(ZEEBRA)もしもし?

(宇多丸)あ、どうもー。

(ZEEBRA)どうもどうも。すいませんね。今日はそちらに行こうと思ってたのにね。

(宇多丸)っていうか、インフル?

(ZEEBRA)インフルだよー。

(宇多丸)アハハハハッ!

(ZEEBRA)もうさ、なんかインフルってあれなんだね。初日はもう本当に熱がハンパなくて大変なんだけど、次の日ぐらいから人に会えないだけで。

(宇多丸)一気に薬が聞いて、熱が超下がるんですよね。いまね。

(ZEEBRA)そうなんですよ。だからもうね、暇みたいになっちゃって(笑)。

(宇多丸)アハハハハッ! だからさ、あれでしょう? いまこんな、『”RAP”三昧』をずーっとやっていてジブさん、悶々としているでしょう?

(ZEEBRA)いやー、もう聞きながら悶々として。大変ですよ。

(宇多丸)いろいろと混ざりたいし。「これ、かけろ! あれ、かけろ!」って言いたいし。

(ZEEBRA)もう本当に、ねえ。

(宇多丸)でも、電話出演という形であれなんですけども。ジブさんにお話をうかがわないと始まらない。まず、ジブさんはヒップホップ、ラップとの出会いっていうのはどこのあたりだったんですか?

(ZEEBRA)ヒップホップ、ラップとの出会いは83年、4年? ハービー・ハンコックの『Rockit』がグラミー賞で……っていうところかな?

(宇多丸)じゃあ洋楽として、もちろん入ってきているわけですね。

(ZEEBRA)そうだね。いちばんはじめはそうやって入ってきた。

(宇多丸)ジブさん、最初の頃は英語でラップをしていたなんて聞きますけども。

(ZEEBRA)はいはい。そうなんですよ。

(宇多丸)それはやっぱり日本語でラップをするという方法論にちょっと懐疑的だったっていうことですか? 当時は。

(ZEEBRA)そう、ですね。まず俺もたとえばメジャーフォースのはじめの『LAST ORGY
』とか。あのへんとかゲットしてみたりしたし。で、「おお、そうか」ってなって、まずはその当時もうDJもやっていたから、たとえばMTRとかでピンポン録音みたいな。マスターミックスみたいなのを作るのとかも好きだったんで。そういうDJ的観点で曲を作るっていうことに関しては「うわっ、すげえな」って。もうレコーディングまでできていて。で、またやっぱりみんないろいろと知識がいっぱいあるから面白いなという風に思っていたんですけども。

(宇多丸)うんうん。

(ZEEBRA)ラップ的には、それこそタイクーン・トッシュが英語だったじゃないですか。

(宇多丸)中西俊夫さん。

(ZEEBRA)で、「ああ、こっちの方がでも聞きやすいな」って俺は思っちゃって。

(宇多丸)これはわかります。実はね、いま日本人でラップをやるって言ったら日本語でやるのが当然みたいになっていますけど、80年代後半ぐらいまでは英語でやるか日本語でやるかは結構五分五分でしたよね。割とね。

最初は英語でラップを始める

(ZEEBRA)そうだったですね。で、やっぱりあれ、メジャフォースが3枚ぐらい出たじゃない? あの時にその2曲を聞いて、「うーん、やっぱり俺は英語でやっておこう」ってなったって感じかな。

(宇多丸)まあ、ジブさん英語もできますからね。で、英語でしばらくやって。それがキングギドラとしての前ですよね。日本語でやってみようかなってなった転換点は何でしょう?

(ZEEBRA)そこはね、ケーダブなんですよね。

(宇多丸)相方のK DUB SHINE。

(ZEEBRA)そうそう。ケーダブがアメリカに留学していて。で、留学する前からそういうヒップホップとかブラックミュージックとかをいろいろ情報交換する先輩だったんで、ちょいちょい連絡を取っていたんだけど、なんか向こうにいたら突然、「日本語でラップを書いてみた」とかって言って。

(宇多丸)逆にアメリカにいて、日本語でラップを書いてみた。

(ZEEBRA)なんか英語のラップを向こうのブラザーにやったら、「まあいいけど、お前は日本人なんだったら日本語デラップを書けば?」って言われたらしくて。んで、「ああ、そうか」っていうことになって、「日本語で書いてみたよ」っていうのを聞かせてもらったら、なんかすごく韻が固くて。ライミングがだいたい3文字ぐらいのライミングで、しかも単語単位のライミングで。

(宇多丸)あ、「韻が固い」っていうのは説明が必要ですね。要するに、韻を長い言葉できっちり、音として踏んでいくっていう。

(ZEEBRA)そうそう。音韻がすごく合っている、揃っているっていうことですね。で、いちばん最後の文字だけ揃うとかっていうのは結構それまでの日本語でもあったと思うんだけど、なんかそれってすごく簡単だったがゆえに、なんか英語で言うところのいわゆる韻の特別な感じっていうか。あれを俺はあんまり感じていなくて。

(宇多丸)いや、これはね、先ほどちょっといとうせいこうさんに出ていただいた時も、やっぱり日本語は音素が貧弱なので、長くライムをしないと韻をしている感じに聞こえないんだよね。

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(ZEEBRA)ああ、まあそれもあるかもね。

(宇多丸)韻の気持ちよさが出ないんですよね。まあでも、そういうところを工夫しているケーダブのラップがあったと。

(ZEEBRA)そうそうそう。それを聞いて、これだったらなんか、それまでの英語のラップを聞く時に「次はなんて韻を踏んでくるのかな?」っていう風に楽しみながら聞こうとする感じでこれは聞けるな、みたいな。

(宇多丸)向こうのアメリカのラップを聞く楽しみ方に近いものが作れるんじゃないかっていう感じがした?

(ZEEBRA)うんうん。そう思ってやってみたっていうのがはじめかな? そしたら、それまで英語で書いてみているわけじゃないですか。言うても俺、英語は全然日本語よりは得意じゃないわけで。だから、1バースを書くのに英語だとすげー時間がかかるわけよ。だけどこれ、日本語で書いたら……。

(宇多丸)書けるじゃん!って(笑)。

(ZEEBRA)もう2秒でできちゃって。「なんだ、これは!?」と。で、いちばんはじめ、自分も韻の踏み方がよくわからなかったからね、それこそローマ字で書いてみたりして。

(宇多丸)ああ、その母音を合わせたり。はいはい。

日本語ならスラスラとリリックが書ける

(ZEEBRA)そんで、「ああ、できる、できる……」ってなって、2バース目からは日本語で書いたんですけど。とにかくあまりにもスイスイ簡単に書けちゃって、「あらっ?」ってなったっていうか。で、実際にやってみたら、フロウとかもなかなか、「こんな感じの日本語ラップのフロウをしているやつ、いないんじゃね?」みたいになっちゃって。「よしっ!」ってなったっていうところですかね。

(宇多丸)で、キングギドラを「ちょっとデモテープでも作ろうか」って作ってみた感じですかね?

(ZEEBRA)そういうことですかね。

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