オークラさんが2021年7月30日放送のTBSラジオ『バナナマンのバナナムーンGOLD』の中で「この夏、見た方がいいバナナマンコント10選」と題して、おすすめバナナマンコントを紹介。バナナマンの2回目の単独ライブで披露されたネタ「留守電」やバナナマンライブを手伝うようになったきっかけなどについて話していました。
【バナナマンのバナナムーンGOLD】
バナナマンがワクチンの副反応のためお休み!急遽、東京03の飯塚さんが来て下さいました。伝説と言われたあのバナナマンコントについて語っております。
7月30日(金)放送後記#bananamoon #tbsradio #飯塚悟志 https://t.co/Jzq2zmrT7e— JUNK(TBSラジオ) (@JUNK_TBSR) August 2, 2021
(オークラ)せっかくなんで。みんなに見てもらいたいんで。今のオサムクラブっていうのも20年以上前のネタなんだけども。天才・設楽統の片鱗が……若い時に度肝を抜かれたのが感じられると思うんで。
(飯塚悟志)はい。
(オークラ)じゃあ、続いてのコントに行きます。続いては……「留守電」。
(飯塚悟志)ああ、出た! これも初期ですね。
(オークラ)これも初期ですね。そのオサムクラブから1年後。
(飯塚悟志)へー! あれもそんな若いんだ。
(オークラ)一応、知らない人のために言いますが。日村さんが1人暮らしをしていて、家に帰ってきたら……まだその時は先ほども言いましたけども。携帯のない時代なので。家に留守電が入っていて。留守電ボタンを押したら30何件とか40何件とか、すごい数の留守電が入っていて。それを聞いていったら、近くまで自分の友達である設楽さんが遊びに来ていて。「ああ、留守かー。じゃあ、また電話する」っていうような電話がどんどん入ってくるんだけど。その設楽さんの留守電が、話を聞いていくとどんどんヤバい事件に巻き込まれていって。
最終的に、もう本当に命を奪われるんじゃないか?っていうところまで行っちゃう。それを聞きながら、でもその聞いてる内容は全部過去に起きたことだから。留守電に入っているっていうことは。それによって、日村さんがどんどん追い詰められいって。「ヤバいよ! このままじゃ!」っていうのを演じていくっていう、もう20分ぐらいの尺で。それを日村さんがたった1人でそれを演じていくんですけども。
(飯塚悟志)これも伝説だよ。
(オークラ)あの22、3とかの年齢であの恐怖感というか、追い詰められる人間を演じ切った日村さんっていうのが俺、ちょっと鳥肌が立ったんだよね。あれで。
(飯塚悟志)もうほぼほぼ舞台には日村さんしかいない感じだもんね。
(オークラ)これ、見たことあります?
(飯塚悟志)あります。
(オークラ)後の傑作選みたいなやつでやったやつとか、そういうことですか?
(飯塚悟志)ええとね、たぶんどこかのライブで見てるはずだけど。でも、こんな長いネタ、やらないか?
(オークラ)やらないと思います。
(飯塚悟志)じゃあ、傑作選なのかな?
(オークラ)これは1997年の1月とかだからほとんど1996年なので。まさしく、そのさっきの単独ライブから1年経った2回目の『処女2』という単独ライブで行なったネタなんですけどね。この時、当時その渋谷ジァン・ジァンっていうライブハウスでやったんですけど。ジァン・ジァンっていうのは昔から、泉谷しげるさんとかRCサクセションとか、その1970年代にフォークミュージックをやってる人たちがよくやっていた、もう有名な伝説的なライブハウスなんですけども。そこでバナナマンがやったのは単独で、要するにいろんな人たちが集まってやるライブじゃなくて、単独でやるライブっていうのの最年少記録をそこで塗り替えたらしいんですよ。
(飯塚悟志)へー! そうなの? そんな記録を持ってるの?
(オークラ)そう。バナナマン、持っていて。バナナマン、いろんなお笑いには貸してくれないと言われた伝説の小屋。そういうところをバナナマンがまず最初に開けているっていう歴史みたいなのがあって。で、そのジァン・ジァンっていうのは先ほど言いましたイッセー尾形さんがよくやっていたりとか。シティボーイズライブもやったことがあったりして。そこの最年少記録を作ったのがバナナマンで。
(飯塚悟志)俳優座だって、今ずっとやってるけども。めちゃめちゃ敷居、高いもんね。あそこ。
(オークラ)お笑いになんて貸さないっていうのだったんだけども、バナナマンだったから最初、貸してくれたのよ。
(飯塚悟志)そうなんだよね。
バナナマンがお笑いライブの小屋を切り開く
(オークラ)あと、新宿にあったシアタートップス。それも本当はお笑いには貸さないっていう。三谷幸喜さん率いる東京サンシャインボーイズがよくやっていた場所なんですけども。そこもお笑いには貸さないって言っていたんですけども、バナナマンはチェックでOKになって。「バナナマンだったら貸しましょう」って貸してくれたりして。
(飯塚悟志)だからそこから芸人が使うようになるんだよね。だから、バナナマンが切り開いてるんだよね。
(オークラ)そういうね、1個の伝説もあるんですよ。で、そのジァン・ジァンで1997年にやった2回目の単独『処女2』の中のネタが留守電ですね。それでその時に俺、生では見てなかったんです。そもそも、1日しかやってないから。
(飯塚悟志)その時はまだ、手伝ってなかったの?
(オークラ)まだ手伝ってなかった。俺、この年から手伝い始めるんですけども。その2回目の単独ライブの時はまだ手伝ってなかった。で、その時に、その当時僕にいろんなサブカル情報を教えてくれるお姉さんがいたんですよ。
(飯塚悟志)うん。ちょこちょこ女の人、出てくんだよな(笑)。
(オークラ)そういうもんでしょう? 若い頃って。
(飯塚悟志)いや、まあわかるけどさ。
(オークラ)シティボーイズとかを俺に教えてくれた1個年上のお姉さんがいたんですけど。その人もやっぱりサブカルが大好きだから、バナナマンライブを見に行ってたの。それで俺のところに来て、「バナナマンライブを見に行ってきたけど、ちょっとレベルが違うよ」って言われて(笑)。
(飯塚悟志)フハハハハハハハハッ! なんかさ、別々の女の人なんだけど、みんな口調が一緒なんだよね(笑)。
(オークラ)そう。いろいろ俺に教えてくれるの(笑)。でも、その今、言ってる人はすごい長年、いろんなことを教えてくれて。シティボーイズも三谷幸喜とかも全部教えてくれた人で。その人が、もちろん俺が芸人をやっているのも知っていたし。まあ、それはもう芸人から作家になろうって言っていた時期なんだけど。その人がそのバナナマンライブ、2回目のを見に行って。その2回目のバナナマンライブを見た人なんて、たぶん日本に200人もいないんだろうけど。生で見た人なんて。それを見に行ってきて。ちょっとものが違ったっていう。「お前とは違う」みたいなことを言われたわけですよ。「向こうがプロだったら、お前は素人だ」ぐらいのことを。
(飯塚悟志)そんな言い方されたの?
(オークラ)俺、今のはちょっと強めに言っているけどね。でも、そのぐらいに感じて。で、1997年1月ということは、覚えてますか? 飯塚さん、ここ。
(飯塚悟志)1997年1月? えっ、なんかあった?
(オークラ)俺、その当時、組んでいた細雪が人力舎に入った年ですよ。
(飯塚悟志)ちょっと覚えてねえわ!
(オークラ)だから飯塚さんとはじめて会った年ですよ。
(飯塚悟志)そうかー。いや、そのへんはちょっと覚えてないな。
(オークラ)で、この後、その2月ぐらいに俺、人力舎に入るんですよ。入って、当時俺は他所のライブには出ていたから、アンタッチャブルとかとはすごい仲がよかったんだけど。アルファルファって全然他所のライブ、出ていなかったじゃないですか。
(飯塚悟志)ネタ見せ、通らなかったんだよね。
(オークラ)だから、ここではじめて僕が飯塚さんと出会うわけですよ。人力舎の『バカ爆走!』で。それで俺、新参者で来て飯塚さんとかに挨拶したら「おめえなんかに興味ねえんだよ!」ってオラつかれたっていう(笑)。
(飯塚悟志)ごめんなさいね、その節は(笑)。
(オークラ)スーパー尖っていたっていう。
(オークラ)でね、たぶん俺が2月ぐらいに入って、その年の3月、4月ぐらいにバナナマンがその『バカ爆走!』にゲストに来ているんですよ。
(飯塚悟志)それ、なんとなく覚えてるんだよな。
(オークラ)で、その時にバナナマンがまさしくその単独ライブでやったネタを『バカ爆走!』でやるんですけど。それが、いわゆる「怖い話」。
(飯塚悟志)ああ、「怖い話」をそこでやっているんだ。
(オークラ)そう。『バカ爆走!』で。要は怖い話をするんだけど、設楽さんが下手クソっていう。あれ、面白いでしょう?
(飯塚悟志)あれってもう、その時期にできてたんだ?
(オークラ)そのけどその2回目のその「留守電」と同じ時の単独ライブで。
(飯塚悟志)いやー、早いね、それも。あれもやっぱり演技だもんね。
(オークラ)あれも芝居力で。要するに怖い話をただ下手クソにしゃべって。で、「怖くねえよ!」っていうだけのネタなんだけども。そんなシンプルなネタなのに、あれができるのってすごいでしょう?
(飯塚悟志)下手にしゃべるのがいかに難しいかだよね。
(オークラ)そう。で、俺はその当時、イッセー尾形さんとかシティボーイズとか、そういう芝居系のコントを知った時期だから。もう自分でもそういうのがやりたくてしょうがないんだけど、まるでできないから。結局、そういう笑いの構造に落とし込むネタ。さっきも言ったけど、そんなのばっかりになってる時に、バナナマンはさらりとそれをやってのけるから。俺はもうバカ爆でそのネタを見ながら……その時はまだ、単独を見ていなかったから。「なんだ? あのオサムクラブをやった人たちはこんなネタもできるのか! こんなシンプルな構造でも……」って。
(飯塚悟志)そうなんだよね。ぜんぜん違うんだよね。作風というか。
(オークラ)でも、実はその時って、そんなにウケてなかったんですよ。
(飯塚悟志)ああ、そうなの?
(オークラ)なんでか?っていうと、実はこの年ってボキャブラブームが始まっているの。1997年って『ボキャブラ天国』の芸人が人気が出始めてきていて。バナナマンがネタをやってる時、ボキャブラに出てないバナナマンに興味を示さないの。客が。
(飯塚悟志)もう、すごい人気だったもんね。
バナナマンに興味を示さないお客
(オークラ)結局、その後に出てくるボキャブラに出てる人にしか興味がないから。バナナマンがあの伝説の「怖い話」をやってる時に、一番前にいた客がジュースを飲んでいたそのペットボトルをバナナマンがネタをやっているそのステージの上にボーンって置いて。その横で話をしていて。
(飯塚悟志)新宿Fu-?
(オークラ)新宿Fu-。すごいよね、これが。で、俺はその日、ある作戦を決行するわけよ。要は「もうバナナマンには勝てない」と思ったので。「勝てないなら、取り入ろう」って思って(笑)。それで日に設楽さんのところに行って。それこそ、さっきのお姉さんからシティボーイズとかいろいろ聞いていて、いろいろと教わえてもらっていたから。もう自分の中で演出プランとか、めちゃくちゃできていたの。「こういうライブがやりたいな」っていうのがあって。それをバナナマンに「僕と一緒にやりませんか?」っていうプレゼンをしに行ったの。で、その時に金がねえくせにマックを買って。「マックでこういうことができるんだ」っていうのをいろいろ、その勉強をする手前で。マックを買って、それでこういうことができるだっていうことはわかってるだけど、でもそれをやる力はないまま設楽さんに「僕、こういうことできますから」って全部言って。
(飯塚悟志)「こういうこと」ってのはちなみに?
(オークラ)チラシを作ったりとか。
(飯塚悟志)ああ、チラシのデザイン?
(オークラ)あとは「映像も作れますよ」って。「だから一緒にコントライブ、やりませんか?」って。1997年ってたしか、あれなんだよ。俺がシティボーイズライブの最高傑作だと思っている『丈夫な足場』をやってる年で。
(飯塚悟志)ムヒのネタ?
(オークラ)ムヒのネタのやつ。あれをやっていた年で。あれ、めちゃめちゃかっこよかった。
(飯塚悟志)かっこよかったよ。『丈夫な足場』はね。
(オークラ)もうずっぽし影響を受けて。「そこにたどり着くためには、バナナマンの力が必要だ」って思って。で、バカ爆の時に俺、設楽さんと話して。そしたら設楽さんがよくわかんないけどちっちゃい男が媚びてきたから。「じゃあ、ちょっとメシでも食いに行くか」ってメシを食いに行って。その後、設楽さんの家に泊まりに行ったのよ。たしか。
(飯塚悟志)ああ、もうすぐに?
(オークラ)それから2日後ぐらいかもしれないけど。千歳烏山に設楽さんがまだ住んでた頃で。で、その時に「この間やった単独のあれ、見る?」っつって。VHS、ビデオで。昔の裏ビデオぐらい画像の荒いやつでその単独ライブを見せてもらったの。で、その時に初めて「留守電」を俺は見て。もう本当、設楽さんと2人で見て。本当にもう、震えて。俺、笑いが1個も出なかったの。衝撃すぎちゃって。で、そこから「一緒にやりましょう」って言って、その年の7月にユニットコントを設楽さんと俺と長井さんで。「ピンクマニュアルズ」っていう。それをやって。
(飯塚悟志)ああ、それも名前は聞いたことがある。それはオークラも出ていたの?
(オークラ)作家でもあり、演者でもあるっていうか。それで出て。
(飯塚悟志)その4人で、どういうネタをやるの?
(オークラ)あともう1人、ラブタンっていう女優さんも入っていたの。舞台女優さん。その5人でやって。結構ね、今に通じるようなネタをやっていたんだけど。ちょっとその時のネタはあんまり覚えてないんだけども。で、俺は自分の書いたネタでが下手すぎて設楽さんに超怒られるという経験をして(笑)。
(飯塚悟志)その時に?
(オークラ)自分で書いたコントなのに、演じていてダメ出しされるっていう(笑)。「これ、違うだろ? そうじゃねえだろ?」っていう(笑)。
(飯塚悟志)オークラが書いて、オークラが演じているのに?(笑)。
(オークラ)もういよいよ才能がねえなって自分でもわかってきていたんだけどね。その時に。
(飯塚悟志)いや、でも昔から設楽さんはもう「これが面白い」っていうのが明確だよね。
(オークラ)明確。だから明確だったお笑いをそのままやったらウケちゃうから。それをずらす必要がないんだよね。みんな、明確なんだけど、やってみたらウケないから……。
(飯塚悟志)だからいろいろと、手を変え品を変えやるんだよ。
(オークラ)それをしていないから、あの人の笑いはすっごいピュアなんだよね。
(飯塚悟志)バナナマンってずっと、純度100でやってるよね。
(オークラ)で、その「留守電」というネタを見た時に「じゃあ、一緒にやろう」ということで。それでユニットライブをやらせてもらって。ちょうどそのユニットライブをやった時に、それを俺の当時の相方が見に来ていたの。で、見に来ていたから俺、その相方に「今後は俺、作家をやりながら応芸人も一応やる。でもメインは作家でやらせてくれ」って言ったの。そしたら、その次の月のライブに俺の相方、来なくなっちゃったの。
(飯塚悟志)ああ、そういう経緯があったんだ! 俺、それ知らなかった。いきなり、その相方さんがライブに来ない日があって。そのまま飛んじゃったんだっていうイメージだったんだけど。オークラ、それ言ってるんだ。
(オークラ)一応、だから「俺はコントが好きだけど、今の自分で演じられない。だからベースとしてコント作家になりたい」って言ったというのがあって。
(飯塚悟志)それ、じゃあ原因としてまあまあデカいんじゃないの? 俺、知らなかったわ、それ。
細雪がなくなる
(オークラ)で、その相方がいなくなったその月に、俺1人ではできないから。さっきも言った通り、芝居が下手だから。で、その時にたまたまバカリズムがいて。「だったら一緒にやりましょうか」ってその日、2人で速攻で一緒に作って。それでやったっていうのがあって。それで細雪がなくなったんですよ。で、細雪がなくなって。「どうしよう?」って。とはいえ、作家としても全然、そんな仕事があるわけでもないから。「どうしよう?」って言っている時に設楽さんが「そんなにやることがないんだったら、じゃあ俺らのを手伝えよ」って。それでバナナマンを手伝うようになったんですよ。
(飯塚悟志)そこから。なるほど。
(オークラ)で、時を同じくしてちょうど人力舎で渋谷で……『バカ爆走!』って新宿でやっていたライブだったんだけども、渋谷でもやったりして。
(飯塚悟志)そう。なんか組数も増えてきて。もう1個、ライブを立ち上げようかってことで同じ『バカ爆走!』っていう名前で別の場所でやったんだよね。
(オークラ)それでその時、それを仕切っていたハギノさんっていう女性の……当時、アンタッチャブルのマネージャーをやっていた人が「オークラさん、ここのライブで好きなことをやっていいですよ」って。作家になったばっかりの俺に「好きなことをやっていいよ」って言ってくれて。それで「オークラ企画」っていう、ザキヤマと俺と豊本。俺、当時豊本との方が仲がよかったから。それをやるコント企画を立ち上げたっていう。その時、飯塚さんはまだ全然仲が悪いから。口も聞かないっていう(笑)。
(飯塚悟志)フハハハハハハハハッ! いや、そうよ。俺、実は羨ましかったんだから。そのユニット。
(オークラ)楽しかったですよ。コントを好きなだけ作って、みんなで楽しんでやっている時、飯塚さんは児嶋さんと一緒に帰って。ずっとなんか……本当にマジでヤバいヤンキーみたいな目をしていたもんね(笑)。
(飯塚悟志)腐っていて?(笑)。
(オークラ)腐っていて。
(飯塚悟志)いいんだよ、そんな話は! バナナマンのコントの話をしようよ。
(オークラ)っていう時期があったっていう。で、その年の1997年のケツに初めて、バナナマンライブに参加するの。そこから。
(飯塚悟志)そこからなんだ。ピンクマニュアルズを経て。
(オークラ)で、『日本人は人に物を頼むとき土下座をすると聞いたのだが。』っていう単独ライブ。3回目のバナナマンライブから参加するようになったっていう。
(飯塚悟志)渋いタイトルだね!
(オークラ)じゃあ、1回CMです(笑)。
(中略)
(飯塚悟志)メール、来てますよ。「飯塚さん、まゆみっくす、こんばんは」。いや、まゆみっくすは来てないんだけども(笑)。「……僕も『留守電』は大好きです。設楽さんの脚本もそうですが、1人で演じてしまう日村さんも本当にすごいなと思いました。ちなみに『留守電』は傑作選の『BANANAMAN KICK』に収録されてます。おい、オークラ。この夏、見てほしいならDVD名、言えや! 俺たち、どうやって見るんだよ?」。
(オークラ)いや、そんなもんね、パソコンがあればねすぐ探せるから。多少、それは探してくださいよ。
(飯塚悟志)ねえ。こうやってメールが来てますよ。
「留守電」収録作品
<書き起こしおわり>