山下達郎『CIRCUS TOWN』を語る

山下達郎『CIRCUS TOWN』を語る NHK FM

山下達郎さんが2023年5月4日放送のNHK FM『今日は一日“山下達郎”三昧 レコード特集2023』の中でレコード・カセットが再販売されることになったRCA/AIR時代の8作品についてトーク。『CIRCUS TOWN』について話していました。

(杉浦友紀)ここからは、今回リリースが決まっているRCA/AIR時代のアルバム8作品を中心に作品の解説と、その時代に焦点を当ててお話を伺っていきます。

(山下達郎)全部、20代ですからね。23の時から29の時までの仕事ですから。30の時は『MELODIES』っていう、『クリスマス・イブ』を作った時ですからね。その前までのあれなので。奇妙だね。自分の20代(笑)。

(杉浦友紀)まずですね、達郎さんの長いキャリアでこの8作品が生まれた70年代後半から80年代前半。これ、達郎さんにとってはどんな時期だったんでしょうか?

(山下達郎)ようやく食えるようになったという感じですかね? だからバンドをやってる時は、バンド自体もあんまり、バンドだけじゃ全く食えないんで。しょうがないんで、だからそうやってコーラスのスタジオミュージシャンとか、CMとか、人に曲書いたりとか、編曲とか、やれることは全部やったんですよ。でも、バンドが成り立たないっていうのはなかなかね、やっぱり場がないし。あと音楽があんまり、その当時の要するに日本の歌謡曲全盛の風土だと、なかなか認められないし。逆にサブカルチャーの、要するに日本のフォークとかロックというところでも、居場所がなかったんですよね。

だから、そういう意味でバンドが瓦解して、1人になっちゃって。それまでだから2年半……73年の暮れに作って、76年に解散したんで。だいたい2年半ぐらいの実質活動期間だったんですけどね。だけど、なかなかやっぱり挫折の歴史だったんで。音楽的にどうたらこうたらというよりも、やっぱり生活がね、成り立たないっていうのが一番つらくて。ソロになって、どうしようかな?って。だから自分の立ち位置が見えなくなっちゃったっていう。自分が音楽をやるっていうことにはどういう意味があるのか?っていう。特に、どういう音楽を作ればいいのか、わかんなくなっちゃってきて。

それを解決する方法をいろいろ考えたんですけどね、やっぱり23の子供なので。妄想を抱いて。海外レコーディングをして、自分の曲をそこに置いて、自分が指定したミュージシャンで演奏してもらって、その曲を自分が歌ったらどういうことになるか? そこのギャップ。それが全然、あんまりにも自分の思っていたものとかけ離れていたら、やっぱり自分がやっていたことがあんまり正しくないんだなって。

でも、結果から申し上げると『CIRCUS TOWN』って、ニューヨークとLAで2つ、やってみて。だいたい自分の思っていた通りの音だったんですよね。だから「これでいいんだ」ってなって。「これでいいんだから、先に進める」っていう、そういう自己確認っていうか。そういうものの1枚ですね。

(杉浦友紀)じゃあ、その自己確認という意味も含めて、海外でのレコーディングを、しかもこれソロデビューアルバムで?

(山下達郎)そうですね。

(杉浦友紀)当時、海外でレコーディングするっていうこと自体、あまりない?

(山下達郎)なかなか特別ですよね。

(杉浦友紀)ですよね。それをしかもソロのデビューアルバムでやってしまうという?

(山下達郎)鈴木茂さんがその前の年に『BAND WAGON』っていうアルバムを出されて。サンフランシスコに自分で行って、ミュージシャンと直接交渉して作ってきたアルバムで。それはなかなかその優れたアルバムなんですけども。そういう例はひとつ、ふたつあったんで。その前にサディスティック・ミカ・バンドとか、そういう活動もありますからね。

でも、僕の場合は基本的に初めからミュージシャンを指定していったんで。それがちょっと違いますかね。だからどっちかいうと非常に作家的な……その後、ずっとそうなんですけど。シンガー・ソングライターというよりかは、作曲家的な視点で物事を作ってるので。作家の自分が歌手の自分に「こういう曲を歌え」みたいな、そういう発想はこの時からずっと変わらないで始まってるんですよ。

(杉浦友紀)まあ作家であり、プロデューサーであるっていう感覚が自分の中にあって?

(山下達郎)そうですね。将来、どっちにしろそっちの方向へ行くんだと思ってたんで。僕みたいな活動のやり方だったら、それこそ紅白歌合戦には出られないという。そういう考え方は初めからあったんで。サブカルチャーなんだけど、やってる音楽はそうじゃないんですよね。ここが一番、僕のね、ギャップっていうか。自分の中で分裂してるところなんで。それは今でも変わってないんですよ。だから全面的に日本のメインストリームの中で生きていくっていうことができない。だけど、そのいわゆるサブカルチャーのところの空気にも合わない。そのギャップ……それはずっと、音楽生活を50年近くやってるけど、それはずっと同じですね。

(杉浦友紀)そのギャップに苦しむ時もあるんですか?

(山下達郎)あります。はい。

(杉浦友紀)でも、どっちかに振り切ることはないっていうことですね。

(山下達郎)できませんね。だからまあ、それはしょうがないです。始めた、とっかかりがそういうところなんで。

(杉浦友紀)1976年にソロデビューとして『CIRCUS TOWN』がリリースされます。これ、チャーリー・カレロさんとのレコーディングでしたけれど。終了後に楽譜を持ち帰ることができたそうですね?

チャーリー・カレロとのレコーディング

(山下達郎)だいたいアレンジャーの人はスコアをくれないんですよ。やっぱり企業秘密っていうか、そういうのがありますから。チャーリー・カレロっていうのは元々、フォー・シーズンズの関係の人で。フォー・シーズンズの仕事を大部分、やっていて。その後はたくさん、ローラ・ニーロとか、フランキー・ヴァリがソロになってからとか、エリック・カルメンとか、名作がたくさんありますけど。2、3人、候補を挙げて。チャーリー・カレロが第1候補だったんだけど。その彼がやってくれるってことになったんで。5曲、録ったんですけど。それのリズム隊の譜面と、ストリングスの譜面と、ブラスの譜面っていう3種類があるんですけど。それを全部、僕にくれて。「お前、これで勉強しろ」っつってね(笑)。

(杉浦友紀)へー! 第1候補の方、チャーリー・カレロさんにやってもらうっていう時は、やはり達郎さんなりに緊張とかもされたんですか?

(山下達郎)それは緊張しますよ。23ですからね。海外なんか1回も行ったこと、ありませんし。

(杉浦友紀)初めての海外。

(山下達郎)生まれて初めて飛行機に乗ったのが前の年ですからね。75年ですから。北海道のポプコンのゲストに行った時に飛行機に乗ったのが生まれて初めてですから。そんな時代ですから。ドルはまだ200円? 300円? ぐらいの時代ですから。

(杉浦友紀)パスポートもこの時に?

(山下達郎)そうですね。初めてとって。だからもうちょっと準備期間というか……たとえば英語に関しての知識とか。でも、僕らの時代はね、留学とかいうような発想すら、まだない時代で。

(杉浦友紀)ああ、そうなんですね。

(山下達郎)そうなんです。今、本当にそういうところが楽になりましたよね。だから結局、妄想なんですよ。「アメリカでやる」っていうのはね。で、アメリカに住むとか、そんなことも考えたことないし。だからそういう、あくまで音楽の、そのニューヨークなり、LAなりのフィールドの中で、どういう音楽が行われてるか?っていう。で、そういう音楽を聞いて育った人間なんで。歌謡曲というものとほとんど接点がなく育ってきた人間なので。どうしても、やっぱりそういうところで本当に音がどう鳴っているのかっていうのを見たかったっていうね。

で、日本のスタジオミュージックっていうのは散々、僕はコーラスのスタジオミュージシャンでしたから、そういうのは見聞きしてますけど。そういうものと、どれがどう違って、どう同じなのか?っていうね。そういうのが知りたかったんですよ。だから。現実を知りたかったんです。

(杉浦友紀)でも、その現実を知りたくても、なかなか踏み出せないものが……。

(山下達郎)だから妄想ですよ。怖いもの知らずっていうかね。

(杉浦友紀)では、この『CIRCUS TOWN』から。せっかくなんでニューヨークサイド、LAサイドと1曲ずつと思っておりまして。まずはタイトル曲でもある『CIRCUS TOWN』を選びました。

(山下達郎)杉浦さんの選曲です。

(杉浦友紀)はい。杉浦とスタッフで考えました。

(山下達郎)よろしくお願いします。

(杉浦友紀)今回、このRCA/AIR時代のアルバム8作品からかける音源は、今年順次リリースされる最新リマスターのレコードをそれぞれ1枚だけ入手しまして、そのレコードの音をそのまま……そのままですね、放送に乗せています。そこにも注目してお楽しみください。では、『CIRCUS TOWN』をお聞きいただきましょう。

山下達郎『CIRCUS TOWN』

(杉浦友紀)声が変わらないですね。

(山下達郎)この時は緊張しているんでね(笑)。この『CIRCUS TOWN』っていうのはイントロがピッコロで始まるんですけど。「『CIRCUS TOWN』だからサーカスにしてやった」っていうので、『わらの中の七面鳥』のフレーズをチャーリー・カレロが引用して。だけどね、今考えるとこの『CIRCUS TOWN』っていうのは変な曲で。コーラスから始まるんですよね。これ、ソロシンガーの曲でしょう? A面の1曲目で、女性コーラスから始まって、歌は後から出てくるっていうね。そんな曲、普通は1曲目にしませんよ。ある日、そう思って。「変なレコードだな」って。

(杉浦友紀)ある日、ふと(笑)。

(山下達郎)シンガーをフィーチャーしてないんですよ。あくまでトラックというか。自分の中で鳴るトラックを想定してるっていうか。そういうレコードなんですよね(笑)。

(杉浦友紀)そういうアレンジをしたっていうことですね。

(山下達郎)したっていうか、そういう曲を書いたんです。

(杉浦友紀)達郎さん自身が。なんでそれを?

(山下達郎)いや、だからそういう曲にしたかったっていうか。

(杉浦友紀)でもニューヨークをイメージして作った曲なんですよね?

(山下達郎)ええ。ニューヨークでやるんだから、こういう曲にしようと。

(杉浦友紀)達郎さん、その当時のニューヨークってのどういうイメージだったんですか?

(山下達郎)うーん。こういう16ビートの世界です。このドラムを叩いたアラン・シュワルツバーグっていう人はすごくオールマイティーな人で。こういう16ビートがうまいんですけど。たとえばマウンテンなんていうバンドで来日もしてますし。南部のレコーディングもしてますし。そういうシンガー・ソングライターの人……結構、B・J・トーマスとかね。そういうような、カントリー系の人もうまいですし。そういうドラマーがいいなって。そうすると、どんな曲を書いてもやってくれるだろうと思って。そういう発想です(笑)。

(杉浦友紀)いや、本当に豊かな曲だなって思います。で、『CIRCUS TOWN』。続いてはLAサイドから1曲、私たちが選んだのが『LAST STEP』です。『LAST STEP』はLAサイドで……これ、予算の都合でニューヨークからLAに移らざるを得なかったということなんですね?

(山下達郎)そうです。だいたい7:3ぐらいの予算で。ニューヨークの方が7で。本当は全部、ニューヨークでやりたかったんすけど。全く予算が、その頃の僕のステータスでは「無理だ」って言われて。で、僕のビジネスパートナーで小杉理宇造っていうのがいるんですけど。僕のディレクターですけども。彼がその前に、音楽出版社にいた時にLAで何回か仕事をして。まあ、アラン・オデイなんかはそれの関係なんですけど。その時の、一緒に仕事したメンバーを引っ張ってきて。それだと安い値段で。で、RCA所属なんで、RCAのスタジオも割引で使わせてくれて。

なんですけど、セッションの最初の日に連れてきたギターとベースが全然ダメで。それでもう「これじゃできないな。やめて帰ろうかな」と思っていたら、コーラスに誰と誰を呼ぶって言われて。それの1人がケニー・アルトマンっていうベーシストなんですけど。僕もすごく大好きなベーシストなんですけど。「コーラスでケニー・アルトマンが来るんだったら、ベースをやってもらって」って言って。それでベースをケニー・アルトマンにして。翌日、5曲録れたっていう。

(杉浦友紀)ああー。初めからベースで来たわけじゃなかったんですね。

(山下達郎)なかったんです。だから「ケニー・アルトマンでいいのか?」「いや、いいもなにも、彼にしてくれ」っつって。それで、コーラスもちゃんとできる人なので。まあ、『LAST STEP』なんていうのはドゥー・ワップっぽくやろうって言って。それで、コーラスに来てくれたジェリー・イエスターっていう、この人はラヴィン・スプーンフルとかアソシエイションとか、そのへんの関係の人なんですけど。

この人と僕と、それからジョン・サイターっていうドラマーなんですけども。この人はタートルズとか、スパンキー&アワ・ギャングとかのメンバーで。その4人で、僕を入れて。それでドゥー・ワップっぽい感じで。ケニー・アルトマンがベースをやるっつって。「ベンベベン……♪」って。あれ、ケニー・アルトマンがやっているんですけども。そういうようなあれで。割と、だから日本でやってるような感じのレコーディングで。

(杉浦友紀)しかも、バンドメンバーにはカタカナでコーラスをしてもらったという?

(山下達郎)そうなんですね。

(杉浦友紀)もうカタカナを書いて?

(山下達郎)「ダンシング、リズムに乗り……♪ 恋を忘れるため……♪」って。

(杉浦友紀)でもやっぱり、そのケニー・アルトマン、自分の大好きなベーシストだからっていう、達郎さんの中に知識があったから、コーラスで来ていた人をベースにっていうことができたってことですよね?

(山下達郎)まあ、初めのラインナップは決まってるんで、あれしてるんで。ベースは知らなかったんだけど、ギターリストは知ってるんですけど。その人、全然ダメだったんですよ。で、ギターはそのピアノのジョン・ホッブスっていう、この人はすごいうまい人なんですけども。その人がバンドのギタリストを連れてきてくれて。この人、全く無名なんですけど、とってもうまい人でね。それで無事にレコーディングしました。

(杉浦友紀)では聞いていただきましょう。『LAST STEP』。

山下達郎『LAST STEP』

(杉浦友紀)アルバム『CIRCUS TOWN』から『LAST STEP』、聞いていただきました。ちなみにこの現実を見に行って、どうだったんですか? 達郎さんが目指していたもの、現実、海外っていうものに行ってみて、その中で達郎さんがやってきたことって、どれぐらい差があったり、なかったり?

(山下達郎)だからあまりギャップはなかったです。ニューヨークに関してはもうちょっと、だから準備期間があったらよかったなっていう。少し、やっぱりアメリカというものの空気を感じてあれしたら、ちょっとこう主張ができたかなっていう。なんてったって、生まれて初めて行って、翌日かその翌日のレコーディングでしょう? だから海外というものの空気の違いに、もうただただ圧倒されるっていう。で、LAは少し慣れてきたんで。ニューヨークに1週間いてね。慣れてきたで。それで、人間関係がフレンドリーだったから、少しやっぱり日本の感じに近づきましたね。だからそういうところは、今からはちょっと後悔ししてるんですけど。まあ、しょうがないですね。若気の至りで(笑)。

(杉浦友紀)でも、目指してるものは間違っていなかったという?

(山下達郎)そうですね。それは大きいです。それがもう、本当に明後日だったら形も何もなかったら、これはやっぱり考えますから。

(杉浦友紀)さあそして、続いて参りましょう。1977年リリースの『SPACY』です。

<書き起こしおわり>

山下達郎『SPACY』を語る
山下達郎さんが2023年5月4日放送のNHK FM『今日は一日“山下達郎”三昧 レコード特集2023』の中でレコード・カセットが再販売されることになったRCA/AIR時代の8作品についてトーク。『SPACY』について話していました。
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