武田砂鉄さんが2021年1月22日放送のTBSラジオ『アシタノカレッジ』の中で『暮らしの手帖』初代編集長の花森安治さんの言葉を紹介していました。
(武田砂鉄)今週はずっと花森安治さんの全集『花森安治選集』3冊っていうのを読んでおりまして。書評を書くことになっていて、実は明日の朝日新聞に載るんですけれども。この3冊で1500ページぐらいある本を読んでたんですけれどもね。
(武田砂鉄)花森安治さんていうのは『暮しの手帖』という雑誌の初代編集長で。2016年にですね、NHKの朝ドラの『とと姉ちゃん』っていうのがありまして。これが『暮しの手帖』を舞台にしたドラマだったというので、記憶している方も多いと思うんですけれども。あのドラマで唐沢寿明さんが演じていたのが花森安治さんだったんですね。
で、この『暮しの手帖』という雑誌はどういうわけか、私も4年間ぐらい連載をしておりまして。TBSラジオ『Session』の荻上チキさんもエッセイを連載されているんです。週明けに出る新しい号をいち早く送ってもらったので読んでましたら、チキさんが「夜の番組が昼の番組になって生活がどう改善したか?」っていうのを書いていて。それを読みながら僕は「逆に塚本ニキさん、大丈夫なんだろうか?」という風に思いましたね。このチキを読みながらニキを思うっていう非常に珍しい体験をしたんですけれども。
で、この花森安治さんが雑誌を創刊したのが1948年。なぜ花森さんがこの生活に根ざした雑誌を作ったかというと、「この国が戦争へと向かっていった要因は人々が自分の暮らしを大切にしなかったからではないか」という思いがあったんですね。で、花村さん自身がですね1941年に大政翼賛会……これは言論とか思想を統制した組織ですけれども。
この宣伝部に入って戦意高揚とか生産増強を目的とする宣伝物を作った。このことを花森さんはずっと……「当時は何も知らなかった。騙された。しかし、そんなことで免罪されるとは思っていない。過去の罪というのはせめて執行猶予にしてもらってる」という風に語っていて。その罪の意識がずっと雑誌作りに向かわせたわけなんですけれども。
この雑誌の企画としてすごく有名になったのが商品テストの企画。ある商品がどれくらい使えるものなのか?っていうのを徹底的に使ってみて、その結果をそのまま載せるというものなんですけれども。この第1回目が靴下。履き心地であるとか色のはげ方っていうのを素材別に徹底的に検証するというもので。この企画でいろいろトースターとか、ベビーカーとか、洗濯機とか。こういうのを実際に使ってみて、辛口に批評するというコーナーをやっていたんですね。
ミシンを1万メートル縫ってみたりとか、いろんなレインコートを天井から吊り下げて。そこに一定量の水を入れて、その水がしみてくる時間を測ったりとか。ベビーカーをひたすらを押して耐久性を測ったりとか。そういう、とにかくえしつこい徹底した調査をしていたんですね。これもすべては生活の向上のため。今、家電を買ったり洋服を買ったりする時に、事前にネットで評判を調べて。それで購入する際の手助けになるという人もいると思いますけれども。そういうの先駆けでやったのが花森さんだということになるんですが。
今回、この花森さんの言葉っていうのを集中的に読んでいて、「ああ、この言葉っていうのはなかなか今に通じるな」っていうことで驚いたんですけれども。この花森さんの有名な言葉に「暮らしを軽蔑する人間はそのことだけで軽蔑に値するのである」というものがあるんですね。これはとても今の時代にというか、まさにこの緊急事態宣言下で生きている自分たちにスッと染み渡る言葉だと思うんですけれども。
「暮らしを軽蔑する人間はそのことだけで軽蔑に値するのである」
(武田砂鉄)今、この人間の営みをいたずらに制限しようとしたり、罰則を設けようとしたり。「お前たち、もっとなんとかならないのか?」「これくらいで潰れるならダメでしょう?」というような措置がどんどんとくだされてますけれども。なんかそこにぶつけたくなるのがこの「暮らしを軽蔑する人間はそのことだけで軽蔑に値する」っていう花森さんの言葉じゃないかなという風に感じるんですね。
いくつか、花森安治さんの言葉を紹介してみたいと思うんですけれども。本当に今に響く言葉になっています。1961年の「もののけじめ」という文章の1節なんですけれども。「政党や政治にけじめがなくなった時が独裁者の一番生まれやすい時である。独裁者はどこの国でも、いつでも国民に歓呼されて登場してくる。今の政治家はそのことを忘れてはいないだろうか? もののけじめがなくなったという時、世間ではつい、それを若い者のせいにする。それでなくても、何かというと若い者は非難・攻撃の的になる。
しかし今、もののけじめをなくしているのは若い者というより僕たち大人である。政治をやっているのは僕たち大人だし、経済を動かしてるのは僕たち大人だし。教育をしてるのも大半は僕たち大人である。政治のあり方を見て腹も立たず、仕方がないとうすら笑いを浮かべ、馬鹿げたテレビ番組にうつつを抜かし、野暮なことは言いっこなしで暮らしているうちに、やがてどういう世の中がやってくるか? もののけじめをはっきりさせようではないか」という。
もうね、これは本当に今、いろいろ聞こえてくるニュースに向けてそのまま、この言葉をお届けしたくなりますけれども。もうひとつ、1969年の「国をまもるということ」というタイトルなんですが。「今の日本のように別に何もしてくれないで、いきなり『自ら国を守る気概を持て』などと言われたって、『はい、そうですか』と言うわけにはいかないのである。
『はい、そうですか』と言って戦ったのが今度の戦争であった。ここで国というのは具体的に言うと政府であり国会である。国に、政府や国会に言いたい。国を守らせたために、どれだけ国民をひどい目にあわせたか? それを忘れないでほしい。今の世の中を、これからの世の中を、国が僕たちのために何かしてくれているという実感を持てるような、そんな行政や政治をやってほしいということである」という。
本当にこの花森さんの言葉にはですね、「もっと個人が強くあっていい」という姿勢が通底しているんですよね。「国よりもま個人がえらい」「人がいて、国がある。この順番をひっくり返しちゃいけない」っていうことをずっと仰ってたわけで。それは本当に国というものに翻弄されたからこそ、国っていうものを疑い続けている。花森さんのもうひとつ、有名な言葉に「おそらくひとつの内閣を変えるよりも、ひとつの家のみそ汁の作り方を変えることの方がずっと難しいに違いない」っていうものがあるんですが。本当にこの個人の営みをナメるなよという言葉を出していたという。
それで、もうひとつだけ。1965年に書かれた「運動会がすんだら博覧会」という文章ですね。運動会っていうのはこれ、前年の1964年の東京オリンピックのことで。博覧会っていうのが1970年の大阪万博のことですね。まあ、「それでもオリンピックをやる」と言い張っている現在に響く文章だと思うんですが。
「一難去ってまた一難とはこのことだろう。やっとオリンピック騒ぎが収まったと思ったら、今度は万国博覧会だという。全く何ちゅうこっちゃである。万国博覧会で、ありもしない銭を湯水のように使って。おかげで昨今、国中どこもたいそうガタピシして四苦八苦の様だ。小学校だって運動会をやる。僕ら、前の晩は嬉しくて眠らなかったものである。しかし運動会のあくる日、ついあきれてぼんやりしていると『いつまで浮かれているのか?』と叱られるに決まっていた。
『さあ、次は学芸会だ。ワッショイワッショイ』なんていう先生が……親愛なる大阪のおっさんよ。しっかりせんと、あきまへんで。太閤はんがどないな世直ししはったか知らんけど、たかが博覧会ひとつでどんな世直しができる? オリンピック景気がどんなものだったか、今この目の前に見てるじゃないか。むきになってええ調子になって太鼓を叩いてさあ、博覧会が済んで、ということになるか? まさかそれが読めんほど大阪の商人の株が落ちたとは思いたくない」という、非常に挑発的な言葉を吐いているんですけれども。
挑発的な言葉の数々
(武田砂鉄)でも、この挑発的な言葉の数々っていうのはやはり、ご自身が戦争に加担するような仕事をしてしまったっていうことへの自戒というか。そして、この高度経済成長の中で個人の営みよりも国の成長が優先されているっていう状態に対してこういう言葉を吐いていらっしゃった。これはもう50年も前の言葉たちではありますけれども。今、こうして厳しい社会環境にあると、どうしてもこういった言葉っていうのが浮き上がってくるなと思いまして。この力の強い人たちと力の弱い人たちがいる時に、弱い人たちが潰されないようにするために言葉を用いてた人たちがいるんだなと思いまして。
そういった文章というのは、いつの時代も力強いなという風に思いました。先ほども言いましたけどね、この「暮らしを軽蔑する人間はそのことだけで軽蔑に値するのである」っていうのは、これは何度も繰り返したくなる言葉だなという風に今週は思った次第でございます。
<書き起こしおわり>