矢野利裕さんが2020年12月23日放送のTBSラジオ『アフター6ジャンクション』に出演。嵐の音楽的魅力を語る中で、その前提条件としてのジャニー喜多川さんについて、宇多丸さん、日比麻音子さんと話していました。
(日比麻音子)この時間は『嵐の音楽的魅力へ“いざッ、Now” 特集』でお送りしております。ゲストはライター・DJの矢野利裕さんです。引き続きよろしくお願いします。
(矢野利裕)はい。よろしくお願いします。
(宇多丸)さっきからか高橋芳朗さんの選曲とか、DJ嵐三郎さんの選曲とか。あとは後ろのBGMで流れている曲とか、全部いいね。
(日比麻音子)本当に外れなし!
(宇多丸)特に我々好みのやっぱりソウルミュージック、ディスコとかダンスミュージックとか。そういうお好みのラインをついてくれていることも当然あると思うんだけど。それをさ、やっぱりジャニーズクオリティーでバーン!ってやってくれるからさ。ちょっとじゃあ先にこれ、メールを紹介しようかな? 「初めてメールします。ありがとうございます。今日は本当に本当にありがとうございます。しょっぱなで松本ホルモン……」これは「松本潤さんのソロはホルモンが出る」という間を飛ばしすぎた褒め方ですね(笑)。
(日比麻音子)そうそう。女性ホルモンが出るっていう話をしたかったんだけども。「フェロモン」を間違えて「ホルモン」って言ってしまったという(笑)。
(宇多丸)「……発言は爆笑したが、あとは泣きっぱなしです。正直、この特集も聞くのが怖かったのです。活動休止の現実が刻一刻と迫る中、どうしていいのかわからない日々です。でもこのような幸せな夢のような時間をいただいて涙があふれて仕方ないです。永久保存したいのですが、どうしたらよいですか?」というね。まあ、1週間はradikoとかでも聞けますしね。
(日比麻音子)今日は思いっきり泣いてください。
(宇多丸)まあいろんな形で泣いて……あと、記憶は永遠ですからね。焼きつけてください。
(日比麻音子)これからまだまだね、最後じゃないから。
(宇多丸)そういうことです。ということで、矢野さん。さっそくお願いします。
(日比麻音子)今夜の特集ですけれども、第一部はこの方がいなければ全ては始まりません。嵐の生みの親、ジャニーさんについて。そして第二部はジャニーさんイズムを受け継ぐ嵐の音楽的魅力について。この二部構成でたっぷりとお話を聞いていきます。
(宇多丸)すごいですね。嵐の楽曲を語る上でやっぱりジャニーズ事務所を作ったジャニーさんの話は外せないという。幕末の話を語るのに、みなもと太郎先生が漫画『風雲児たち』では関ヶ原から始めたみたいな。でも、これがやっぱり必要なんだね?
(矢野利裕)そうですね。やっぱりジャニーズ事務所ってジャニーさんの存在感がすごい強かったと思うんですけれども。ジャニーさんは2019年7月9日に亡くなられて。それまでは本当に徹底して裏側にいて。なんですけれども、2010年代に入るぐらいのところからインタビューにポツポツ答え始めたりとか、NHKのラジオに出たりとか。自分の半生を結構明らかにしたりとか、自分の半生をミュージカルにしたりとか。結構、その半生が明らかになってきたというところがあって。それもまた非常に興味深いんですよね。
(宇多丸)ということで、まずはじゃあ第一部、行ってみましょうか。こちらです。
(矢野利裕)はい。全てはここから始まった。「ジョニーとジャニーの間」。
(宇多丸)「ジョニーとジャニー間」? いきなりなんぞや?っていうのが来ましたけども。
(矢野利裕)そう。「ジャニーさん、ジャニーさん」って言ってるんですけども。この「ジョニーじゃなくてジャニー」っていうのが結構ポイントだと思うんですよね。
(宇多丸)本来なら「ジョニー(Johnny)」と呼ばれるようなのを……。
(矢野利裕)そうなんですよ。CDとか、今だったら「エターナルプロデューサー」っていう形になってますけども。いろんな作品を見ていると「Produced By Johnny Kitagawa」って書いてあるんですけども。スペルを見ると「Johnny」なんですよね。
「ジョニー」ではなく「ジャニー」
Japan's leading boyband star-maker Johnny Kitagawa, who built an entertainment empire and broke records with his acts, has died of a stroke aged 87https://t.co/bW4AXM9s5v pic.twitter.com/VbyKXK2RS6
— AFP News Agency (@AFP) July 10, 2019
(宇多丸)英語表記だと。つまり、その「Johnny」の発音の聞いたまんま感発音で「ジャニー」っていう?
(矢野利裕)そういうことですね。で、「ジョニー」って言うと外国人のようであるけど、「ジャニー」って言うとちょっと芸名っぽく見えるみたいなところがまあイメージとしてあるなっていう風に思いました。で、ジャニーさんの生い立ちを言うと「John Hiromu Kitagawa」ということで。
日系アメリカ人になるんですね。出生したのはアメリカなんで。ご両親は日本人なんですけども。戦前、1931年にアメリカで生まれて……という感じです。それで第二次世界大戦が始まった時には日本の和歌山の方に疎開をしてくるんですけれども。戦後、またアメリカに戻って……っていう感じで。結構、アイデンティティーの拠点はアメリカにあるっていうのが結構ポイントでしたね。
(宇多丸)うんうん。
(矢野利裕)それで、ジャニーさんは戦争中は和歌山で過ごして。空襲なんかを逃げ回って戦後、再びアメリカに戻ってきて。それでアメリカで何をするか?っていうと、お父さんがちょっと変わった方で。寺院……お寺を使ってコンサートを行っていたんですね。
(日比麻音子)じゃあお父さんもエンターテイナーというか?
(矢野利裕)それは基本的には日系人の方々に対する慰安コンサートみたいな感じだったんですけど。でも美空ひばりが来ていたりとか。
(宇多丸)招聘したというか。
(矢野利裕)これ、美空ひばり側のエピソードとしては結構有名なんですけども。あきれたぼういずの川田義雄さんと一緒にアメリカツアーっていうのをたしか1950年ぐらいにやるんですね。で、その中のひとつに美空ひばりを見ていると、養老院が出てきて。そこでコンサートをやったっていうのが出てくるんですけど。恐らくこれがジャニーさんのお父さんによるものなんですよ。で、そういうところで日本からのタレントさんを招聘していたコンサートの中で手伝いをしていたのが若かりし頃のジャニー喜多川氏ということになります。
(宇多丸)お父さんの職業は何だったんですか?
(矢野利裕)職業は住職っていうか……(※高野山真言宗別院第三代主監)。
(宇多丸)じゃあ、本当に慈善活動としてのエンターテイメントというか、慰問ということだったんですね。
(矢野利裕)それでショー文化にかなり興味があるということで。高校時代になると劇場でアルバイトをして。それでその小さな劇場の中でいろんな人がステージに立って輝いている様というものを見て、エンターテイメントが自分にとってすごくエネルギーになると感じて。「これをやりたい!」っていう風に思うようになるんですね。で、その後、大学を出て日本に来るわけですけれども。その時は朝鮮戦争の時期に米軍として仕事で来て……これもいろいろと諸説あるですが。通訳をしたとか、いろいろな話があるんですけど。
それで朝鮮戦争の後、米軍の一員として戦後の占領下の日本にやって来る。ここで代々木のワシントンハイツのあたりで仕事をするんですけど。そこの代々木公園の中で子供たちを集めて野球のコーチをするんですね。で、この野球チームの名前が「ジャニーズ」っていう名前で。それがジャニーズ事務所のひとつの起源となるんです。で、当時野球をするっていうのも、この時に対戦していたチームに高田文夫先生がいたとか、そういう話もあるんですけども。まあ、ここに芸能史がいっぱい詰まっているようなところもあるんですけども。
高田文夫とナイツ 京セラドーム・吉本興業ネタ漫才を語る https://t.co/4aaY5PWTDO
(塙宣之)言ってましたもんね。「ジャニーさんが田淵幸一を最初に発掘した」って。(高田文夫)その前に俺だよ。俺が戦っていて。ジャニーズとシャークスで2試合、戦っていたんだよ。
— みやーんZZ (@miyearnzz) December 24, 2020
(矢野利裕)その中で、当時の野球って日本の中で、当時の新聞とかを読むと「野球を使って日本に民主主義を教える」みたいな話もあったりして。結構ジャニーさん、平和的なメッセージとかをずっと出していますけども。戦争の後の生々しい政治的な状況の中で、自分はエンターテイメントを始めたっていうのは結構根深いと思います。
(日比麻音子)じゃあ、その野球チームの時から「ジャニーズ」だったんですね。「ジョニーズ」ではなくて。
(矢野利裕)そうですね。で、その野球チームにいたのが初代ジャニーズの面々で。ある日、雨で試合が中止になるんですね。それで「ちょっと映画を見に行こうよ」ってなって。それで行ったのが『ウエスト・サイド・ストーリー』で。で、『ウエスト・サイド・ストーリー』に感銘を受けて。「こういうのをやりたい」っていうことで初代ジャニーズを結成するのが1961、2年のあたりという。
(宇多丸)試合が雨で中止になっていなかったら……逸話がね。
(矢野利裕)そう。逸話としてはそういう風に語られていますね。で、その時にジャニーさんは……なにしろ『ウエスト・サイド・ストーリー』なんです。つまり、ミュージカルなんですね。だから音楽をマニアックに追求するというよりは、華やかなショーアップした、ショービジネスとしての音楽っていうのが核にはあって。そのひとつとしてソウルミュージックがあったりとかディスコがあったり、ジャズがあったりとかっていう風になっていて。
その一部としてブラックミュージックが入ってきて。そのブラックミュージックとかが好きだったりすると「ああ、ジャニーズっていい曲じゃん」ってなったりするんですけども。でも、基本的にはショーアップされた音楽というものが核にあるという、そういう感じです。
核は「ショーアップされた音楽」
(宇多丸)それこそ、この間少年隊特集をやった時に錦織一清さんご本人にお話を伺ったら、やっぱりその「ミュージカル」という完成形があって。それがようやく少年隊の時期にできるようになったっていう。
(矢野利裕)そうですね。『PLAYZONE』はもうかなり完成形に近いと思います。ということで、そういういろんなことを考察した結果、ひとつの結論というか、前提条件に辿りつきました。それは、「ジャニーさんはアメリカ人である。アメリカからやってきた人である」ということで。「日本の音楽じゃなくて、アメリカから輸入された音楽。それはショーアップされた音楽なんだ」っていうことを踏まえるのがジャニーズを紐解くひとつの大きな視点になるのかなと思いました。
(宇多丸)同時に……これはたぶんこの後に出てくる話だろうけど。すごく音楽とかもグローバルな感覚で。アメリカ的なショーアップ感覚なんだけど、逆に日本の少年たちを使う時に一種のオリエンタリズムっていうか。外から見たオリエンタリズムみたいなのが……なんていうの? 日本人だとちょっと「えっ?」って思うような感覚を平気で出してくる感じとかね。それもたぶんさっきの仮説……「ジャニーさんは本質としてはアメリカ人である」というところにつながるのかなと。
(矢野利裕)その通りですね。「嵐」っていうネーミングなんて、逆に日本の発想からは出てこないものですね。
(日比麻音子)たしかにそうですね!
(宇多丸)ということで、駆け足だけどギュッと凝縮してジャニーさんのイズムを解説していただきました。
(日比麻音子)では、ここからは嵐の楽曲的な魅力について解説していただきましょう。矢野さん、お願いします。
(矢野利裕)はい。1999年、ハワイの洋上で嵐爆誕!
<書き起こしおわり>
アフター6ジャンクション(3)【特集コーナー】など | TBSラジオ | 2020/12/23/水 20:00-21:00 https://t.co/WpfzGALXnL #radiko
— みやーんZZ (@miyearnzz) December 24, 2020