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小袋成彬 ラナルド・マクドナルドを語る

小袋成彬 ラナルド・マクドナルドを語る MUSIC HUB
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小袋成彬さんが2020年1月10日放送のJ-WAVE『MUSIC HUB』の中で鎖国下の日本に密入国して日本で最初の英語教師になったラナルド・マクドナルドの生涯について話していました。

(小袋成彬)番組が4年目ということで。4年目、どんな形でラジオを届けていこうかな?ってすごい悩んだんですが、毎週毎週ね、自分の中で気になっているトピックを挙げて話していくのも面白いかな、なんて思いつつ。あとはね、もう新譜を紹介することは半年前にやめましたが。もちろん紹介はしていますけど。もう少しね、自分の人生にリンクした、愛情を持って語れるような音楽とか、愛情を持って語れるようなエピソードをシェアした方が絶対にいいなと思いまして。今日はですね、ある歴史上の人物を取り上げたいなと思っております。

おそらくリスナーの中で知ってる人は誰もいないと思いますし、僕も実はこの年末年始、超暇すぎてこの人のことをずっと調べてたんです。まあその人の話を交えながら、曲も紹介しつつ……っていう試みでございます。今日、紹介するのは音楽家ではなく、日本初の英語教師ラナルド・マクドナルドさんです。で、日本初の英語教師として日本では割とぞんざいにというか、そんなに重要人物としては語られていないんですが、実は一方でアメリカではあの鎖国中の神秘の国、日本に密入国した人として日本以上に重宝される歴史上の人物になっています。

で、ラナルドさん、何がすごかったか?っていうと、彼の好奇心が僕にすげえヒットしたんですよ。まあ鎖国中ですから「異国船打払令」っていうのがあったくらい、その諸外国に対して排他的な立場を取っていた日本ですけど。その日本に小舟を使って密入国して、さらには英語教師になるっていうヤバいバイタリティーの人なので、ちょっとその人のエピソードとか歴史を紹介しながら曲もついでに紹介するなんていう回にしたいと思います。ということでさっそく1曲目、流しましょうかね。『Blood Of An American』。

Bobby Wright『Blood Of An American』

(小袋成彬)ということで、本日はラナルド・マクドナルドという日本初の英語教師についてちょっとしゃべってみようかなと思います。僕は何でこの彼を知ったかって言うと、なんか年末年始のしょうもない妄想でペリー来航についてずっとウィキペディアで調べていた時に、本物の今のペリーの軍艦がマジで三浦湾に寄港したらどんなアート作品ができるだろうな、なんて調べてたんですよ。で、ペリー来航について詳しく調べてた時、ペリーよりも前に来た日本以外の外国人一覧というのがあって。その中に「日本初の英語教師ラナルド・マクドナルド」っていうのがあって。

「うん?」と思ってずっとその人のことについて調べてたんですね。で、その周りの文献とかもちょっと読むようになり、ラナルド・マクドナルドの遺族なのかご家族なのかわからないけど、彼を囲む会みたいな、そういう北海道で行われてる会の資料を見たりもしたりして調べられたラナルドの面白エピソードを紹介したいと思います。ラナルドはですね、英国領カナダのオレゴン州で生まれます。で、お父さんがスコットランド人ですね。

当時、カナダは英国領だったのでおそらくスコットランドから……イギリス国籍ですけどスコットランドからカナダに渡り、そのオレゴン州で毛皮商人をやっていたと。当時はね、ビーバーの皮が毛皮の高級品としてよく知られてるんですが。それで、母はアメリカン・インディアンなんですよ。どういうことかっていうと、商人をやってたり、ないしはその港湾。船の仕事をしていたり、輸出入の仕事をしていると、そこの地元のアメリカン・インディアンの人たちと事業をうまく進めるために、その土地の保有者の原住民と婚姻関係になるっていうのは植民地開拓時代にはよくあり得たことだったと。それで母がアメリカン・インディアンのチヌーク族っていうのの大首長のコム・コムリ。その次女のコアール・クソアという人が母です。

ただ、母は出産後数ヶ月で亡くなっちゃうんですよ。それから親戚の家を転々としたりするんですが、アメリカン・インディアンの人たちはラナルドにこう伝えるわけです。「俺たちのルーツは日本という国にある。遥か西方にある日本という国から俺たちは来たんだ。もしかするとアラスカを渡ってきたかもしれない。あるいは太平洋を航海してこの地にたどり着いたのかもしれないけれど、ルーツは日本にあるんだ」という。それでラナルドはそこについて意外と疑いがなかった。なぜかというと明らかに顔が日本人寄りだったんですって。

「自分たちのルーツは日本にある」

「僕のルーツは日本にあるんじゃないか」ってずっと思ってたらしいんですよ。で、ラナルドが11歳の時にある3人の日本人が地元の町に着くんですよ。それをね、ラナルドの父が引き取ります。で、この3人の日本人の若者がすごい似てたんですって。アメリカン・インディアンの人たちにね。で、どうも日本から来た説っていうのは本当なんじゃないか?ってっていうのでラナルドの冒険心がどんどん高まるわけです。

で、やっぱり有色人種なんで、当時いじめられたっていう記述もありますから。「俺の地元、俺のルーツ、神秘の国・日本……行ってみたい!」っていうのをずっと思ってたわけですね。まあそんな歴史のクロスオーバーもありつつ、ラナルドは「ああ、俺のルーツ、日本。行きてえ!」ってずっと思うわけですね。そしてラナルドが15歳の時。1838年です。お父さんに言われて銀行員の見習いをやります。そこがですね、白人の町でなかなかの差別を受けまして、そのカナダの白人社会での苦悩を耐え忍ぶよりは、広い世界でもっと自由に活動したいなと思って2年もたたないうちにらナルドはその銀行やめちゃいます。

で、どうしたら日本に行けるのかを考えて、彼はある方法を思いつくんですよ。「捕鯨船に乗ればいいんだ!」ということがわかったわけです。で、17歳の時に船乗りになります。日本に行きたすぎて。そこではね、インドのカルカッタで胡椒の積み込みをしたり、あるいはアフリカの西海岸から奴隷を積み込んでアメリカ大陸に向かったり。そういう仕事をしてました。でね、船乗りたちの間でもやっぱり語り草になってるんですって。「日本っていうのは神秘な国だ。東洋のユートピアなんだ。欧米の強国を相手にしても少しも動じないし、かなり誇り高い島国なんだ」っていう噂が。

だからもうみんな「入れないし。ヤベえ国なんだ、あそこは」っていうね。そうするとね、ラナルドもやっぱり行きたくなっちゃいますよね。で、ラナルドも23歳になって。それで「クーパー船長日本訪問談」っていうのがアメリカのフレンド誌に掲載されます。どういうことかと言うと、アメリカのある捕鯨先が日本人の漂流者11人を救助してるんですよ。で、4月17日に浦賀港に入って、それが初めて日本に上陸したアメリカの商船なんですね。で、そのクーパー船長は初めて幕府と交渉を持った最初のアメリカ人だとされる。

それで結局、当時の幕府は中国とオランダと――いわゆる長崎の出島ですね――それらの国以外は交渉はしないようにしているっていう手紙をクーパー船長に渡したという、その雑誌の記事を見たラナルドは気づくわけですよ。「おお、漂流者になれば日本に行けるのか。じゃあ逆に自分が漂流者を装って日本に行けば、あの神秘の国・日本に行けるんだ」と気づくわけですよ。で、そこから本格的に密入国の準備をします。

日本密入国の準備

英語の辞書を取り揃えます。文法書、イギリスの歴史書、地理の歴史書、それから航行の方法。コンパスなどその航海術の道具など。で、彼にもやっぱり目論見があって、一応学校も出てますから、その教養ある人間として英語の教師として雇ってもらえるんじゃないか?っていう、そういうたかをくくっていたところもあるらしいです。で、本格的に密入国の準備をラナルドは進めるわけですね。じゃあ、ここで1曲流しますかね。

(中略)

(小袋成彬)はい。今日はラナルド・マクドナルドという日本初の英語教師について僕が一方的にしゃべっております。クーパー船長日本訪問談の記事を見たラナルド。それから約3年後、ついに日本に行くチャンスが訪れるんですよ。1943年3月にアメリカを出港して6月27日に宗谷岬の近くを通ったラナルドは、その潜入計画を船長に話します。ちなみに船長とはもう既に雇用契約を結んでいて、ちょっとその内容について語った本の記事があったんだけど、ちょっと忘れちゃったな。ちょっと場所がわかんないけど、とにかくラナルドは事前に船長と契約をして、もし日本に上陸するチャンスがあって他の人に迷惑をかけなければ、小舟を出してもらう着くっていう。

で、実際に近づいたのでその日本の小島を目指して、ちっちゃいボートにいろんな食料とか衣類、文房具、四分儀、書物……全部を乗せて母船を離れます。で、ついに上陸するわけですよ。俺、ここの……自分のルーツがある国に、しかもどんなところか分からない神秘の国だし、めちゃめちゃ高度な文明を持っているのかもしれないとかっていう国に、単身で乗り込むその好奇心とか。何だろう? どんだけわくわくしてたんだろうとか、どんな恐怖があったんだろうっていうのを想像すると、もう心がわくわくしちゃって。「これは絶対にラジオで話そう」と思ったんですけど。

北海道の左側かな? 左上ぐらい。そこで2、3日すごして「ここは無人島だ」って分かったらしいんですよ。で、漂流を偽装するためにわざとポートを転覆させて。それで2日後に利尻島っていう、真北にある島ですね。だから北海道の左側に着いたんだけど、真北の利尻島に進みます。で、そこで捕らえられました。そこでアイヌの人たちとか番人の人たちから食べ物、衣類、寝具などの提供を受けて、丁重な扱いを受けたと言われています。で、そこから約2ヶ月ぐらい捕らえられて、そこから日本海を南下するわけです。そして長崎に着きます。まあ、理由はおそらくオランダとの交易が……唯一外国との交易がある地ですから、そこに行くべきだということで。そこで取り調べを受けるわけですね。

で、長崎ですから当時踏み絵がありました。彼は……これは諸説あるらしいんですけど、クリアしたんですよ。それを。なぜかって言うと、彼はプロテスタントだったから平気で踏んだっていう説。これ、俺はあんまり信じてないんだけど。あともうひとつは人込みであんまり見えなかった。それから当時、お世話をしてた人から「何も言わずに踏め」っていうのを言われたっていう記述もありました。ここは僕ももうちょっと調べてみようと思います。

まあ長崎に着くわけですよ。そうすると、その誠実な人柄とか教養の深さとか彼の好奇心にあふれる目とかを見て「こいつは英語教師にいいんじゃないか?」っていうことで、日本語の通詞(通訳者)の指導を長崎の奉行所の人が依頼します。で、そこにね、14名のオランダ通詞を用意するわけですね。それで座敷牢の格子を隔てて約7ヶ月間、その14人の教え子たちに英語を教えるらしいんですよ。それで自分もね、日本語を勉強する為にその英単語帳……英和単語帳というのを作ったらしいです。ちなみにそれが日本初の英和単語帳なんて言われてるらしいんですが。

ラナルド・マクドナルドの英語指導

で、長崎なんで訛りがすごいんですよ。あとオランダ訛りも入ってるんで、たとえば「名前」の「Name」を「ナーメ」って読んだりとか。あと「Learn」。「習う」ことを「レルン」って読んだり。あとは長崎弁なんでたとえば「悪い」っていう言葉は「悪か」っていうんで。たとえば「Bad」の和訳が「悪か」になるとかね。そういう感じ。で、あとラナルドが気づいたのは「L」と「R」。この発音の違いが日本人には非常に難しいという。もういまだに言われてますけど。そういうのをラナルドは指摘しています。で、彼の指導法は最初に自分が英語、英単語を読み上げて、生徒達に発音させて、それが正しいかどうかっていうのを伝えるシンプルなものだったそうです。

彼の中の一番弟子がいました。森山栄之助っていう人です。もうこれはね、ラナルドなんかよりも数百倍有名な日本人ですね。まあ後に説明しますが、すごく頭の切れる、英語が達者なよく勉学に励んだ若者でした。結局、ラナルドはですね、7ヶ月間教師をしまして、1849年4月にアメリカ船プレブル号が長崎に入港したんですけど、そのまま引き渡されてアメリカに戻ります。まさにその4年後、1853年にペリーが浦賀に来るわけですが、そのペリーをね、「めちゃめちゃ英語がしゃべれる日本人がいる」って驚かせた人がいます。それがまさにあの森山栄之助。ラナルド・マクドナルドの一番弟子だったわけですね。

それから日本は開国へと歩みを進めて、明治維新へとばく進していくわけです。近代の列強国への仲間入りを果たしたわけですね。まあこれだけべらべらとしゃべっちゃいましたけど、何が面白いかって1人の好奇心が歴史を変えるんですよ。本当に。たった1人の熱狂的な思いが国の歴史……言ったらもう世界の歴史を変えてしまうっていう事実に僕はかなり興奮するんですよね。「自分のルーツが日本人だ」って言われて。しかもそれが原因でいじめられて、神秘の国に行く時のそのわくわくって、たぶん人類で一番わくわくしてた瞬間なんじゃないのかな?って思うんすよね。ラナルドがね。それを聞いた時に、もう何ていうんだろう? 初めて俺、ウィキペディア見た時に鳥肌が止まんなかったですね。

で、そこからね、『海の祭礼』っていう森山栄之助の半生が描かれている本……それはラナルドのアイヌでの日々も描かれている、そういう文献があるんですけども。

あるいはラナルド自身の伝記とか、今いろいろと調べている最中なんですが。まあ、このね、開国になかなか踏み切らないっていうのは日本人の……日本国のずっとジレンマですから。今でもそれを感じますし、そんな折にね、こんな記事を見つけたのが何かすごいいいなと思ってシェアした次第ですね。曲をかけます。Jimmy Whoo『Wildcats』。

Jimmy Whoo『Wildcats』

(小袋成彬)さて、今日はラナルド・マクドナルドという日本初の英語教師……という肩書きではあまりにも恐れ多いぐらいの功績を残した超好奇心バリバリのラナルド・マクドナルドさんを特集したわけです。ちなみにですね、日本を出港してアメリカに戻ったラナルドは、なかなか日本に戻ることはなくてですね。まず、その日本滞在の供述書をある船長に渡します。それがね、アメリカの国会上院の公式記録として残っているそうです。その神秘の国・日本の見聞録ということでね。

で、日本退去後は難破船に乗っちゃったりとか、多難なことがいろいろあって。オーストラリアのメルボルンの近くで金鉱掘りしたり、あるいは義理の弟と牧場を経営したり。ただね、細かい行方があんまり分かってないんです。ラナルドは。どうも激しい人種差別をもう一度、味わわされたのではないかっていうのは推測されていて。まあ友人や親族からも音信を断って、自らの殻に閉じこもって、いろいろなところを転々としてのではないかと言われています。

晩年のラナルド・マクドナルド

それから記録が残ってるのが1982年。おそらくラナルドは60手前です。58か59ぐらいだと思います。アメリカのワシントンに移って、フォート・コルヴィルっていう場所に定住します。粗末な小屋を建てて、旧友のマクラウドという人との交流が復活します。でね、「その残されてた日本滞在の覚書などをまとめて出版をすればいいじゃないか」ってことを旧友に言われまして、書くわけです。『日本回想記』っていうものを。ただね、その情熱が報われることなく、その『日本回想記』の出版を見ずに1894年8月5日、ワシントンのトロダの近くで70歳の生涯を終えます。

その時ですね、姪っ子の腕の中で「さようなら my dear さようなら」と言って亡くなっていったそうです。日本語で。まあたぶん晩年に自分の人生のハイライト。あのわくわくした高揚した瞬間を思い出しながら眠りについたのではないかなんて、もう想像してしまうんですが。まあでも、きっとそうでしょね。死ぬ間際にそんなことを言ったっていうのはね、相当に日本に対して憧れというか、思い入れが強かったんじゃないかなと思います。

まあそんなこんなで、彼の何の気なしの好奇心が日本が明治維新へと突き進むひとつの起爆剤になったのは明らかですね。うん。いやー、歴史ってね、本当に面白いんですよ。俺もね、イギリスに教科書を2冊、持ってきているんですけど。大学受験用の日本史と世界史のね。ラナルド・マクドナルドってあったかな? まあ、こういう小話は高校の先生にしてもらいたいって感じですよね(笑)。

まあ、ということで本日はラナルド・マクドナルドについてHUBしました。教訓ですよ。ひとつの好奇心が世界を変えるんだっていうのはまひとつの教訓として、皆さんの心に残ってもらえればいいと思いますし。僕はこれ、年末年始に記事を読みあさっていて、かなりブチ上がったんで。というか、いつか映画化したいな。興味ないかな? 東宝の人とか(笑)。そのラナルド視点と森山視点で描くんだよ。ラナルドは日本への憧れを持つ、割とコメディ調で描いて。「日本に行きたい!」っていう風に。本当に鬼が島に行くみたいな感じで日本に入国するようなのと、もうひとつの視点は勤勉で真面目な森山が日本を変えたという。この2人の主人公と盟友の感じとかをこう、映画化したいわ!

脚本を書いて、プロデューサーになって。はー、やりたいけど……まあ、いつかやりますね。やるよ、俺は。この企画が絶対温めておく。しゃべっちゃったけど。フフフ(笑)。まあまあ、ということで本日はこんな感じですかね? 来週はですね、またまたいっぱいいい曲を見つけたので、それをシェアしようと思います。それでは『MUSIC HUB』、小袋成彬でした。また来週!

<書き起こしおわり>

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