安住紳一郎さんが2024年3月3日放送のTBSラジオ『安住紳一郎の日曜天国』の中で童謡『赤い靴』について話していました。
(安住紳一郎)報告ばかりで恐縮なんですけど。もうひとつありまして。先週、私、静岡の清水に行きました。よいところでしたという話をしましたが。その時に、清水にいたら『旅姿三人男』っていう清水の次郎長さんの歌……少し昔の歌なんですけど。「私、必ず口ずさんじゃうんですよね」っていう話をしました。元々、土地土地の歌を機嫌よく歌ってしまうっていう性質があって……っていう話になりましたよね。函館に行くとやっぱり『函館の女』とかね、「はーるばる♪」って絶対歌うんですよね。
(中澤有美子)そうですよね(笑)。
(安住紳一郎)まあ、いろいろ皆さんのメッセージ見ると、歌う人と歌わない人とがはっきりわかれてるなっていうことがあったので。これから少し、歌わない人の気持ちも考えて行動しなくちゃいけないなとは思ったんですが。
(中澤有美子)ああ、そうですか(笑)。
(安住紳一郎)なんでしょうね? 元々、そういうちょっと……うん。分別なく口ずさんじゃうというか、口に出しちゃうっていう傾向があるのかなと思ったんですけど。ちょっとね、自分で反省半分だったんですけども。それで、横浜に行くと童謡の『赤い靴』を口ずさんじゃうんだって話をした時に『赤い靴』の銅像が横浜じゃなくて麻布十番にもあるし。そしてなんと、これはね、本当になんでしょうね。運命的なといいますか。実はこの童謡の『赤い靴』のモデルになった女の子は清水の生まれたって聞いて。「ええっ?」と思ってしまったんですけれども。
そしたら、この『赤い靴』のモデルの女の子を巡っては、いろいろ話があったようで。私、全然知らなかったんですけども。ラジオ聞いてる皆さん方から様々、教えていただきまして。かなり複雑な経緯があって全国各地に銅像があるということなんだそうです。皆さんからいただいたメッセージの概要をちょっとまとめてみましたんで。大変、簡単ではあるんですけれども。ただ、またこれ「諸説あり」ということで。事実関係と少し違っているんじゃないかと指摘する研究者もいるということなので。あくまでも「ある一説によると」ということでお聞きいただきたいんですけれども。
皆さん、知ってますよね。「赤い靴、履いてた、女の子♪」っていう歌ですけどもね。で、なんとなくいろいろなテレビ番組や情報番組などでもその後、言われてたので。経緯が複雑だということも知ってるっていう方も多いと思いますが。一応、私なりにまとめましたので。ある一説によると、ということなんですが。女の子は明治35年。私がお邪魔しました静岡県清水でやはり生まれていて。「きみちゃん」という名前で。お母さんが未婚の母ということで、お父さんがいなかったということなんですよね。
女の子は「きみちゃん」
(安住紳一郎)で、静岡の日本平にお母さんときみちゃんの銅像があるということなんですね。で、この親子揃ってる銅像はやっぱり生まれたところの清水だけということのようなんですが。で、そのきみちゃんが3歳の時、お母さんと北海道開拓のため、函館へ行くという。まあ、明治の終わり頃なので、北海道開拓ブームがあったのでということで。生活がなりゆかずということで、北海道に行かれて。で、新しく出会った男性と留寿都村っていうね、ルスツリゾートって今、話題になってるニセコの近くなんですけども。まあ、近くでもないか。留寿都村っていうところに入植することになるんですが、幼いきみちゃんを開拓地に連れて行くことはなかなか難しいんじゃないかということで、アメリカ人宣教師に養女として出したというようなことで。なので、函館とか小樽とかルスツにも『赤い靴』の女の子の銅像があるという。
(中澤有美子)そうなんですか!
(安住紳一郎)で、きみちゃんは宣教師とアメリカに行くことになる予定だったんだけど。結核を患っていて。麻布十番にあった孤児院に預けられ結局、アメリカには行かず、麻布十番で9歳の生涯を終えたとされている。なので、麻布十番にも銅像があるという。で、横浜に銅像があるのは歌詞に出てくるため、銅像があるんだけど。実際には異人さんに連れられてアメリカに行ったっていうことは、どうやらなかったとされていて。
(中澤有美子)そうだったんだー。
(安住紳一郎)まあ明治の大変な時期に苦労したということで。悲しいことでもあるんですけれども。で、なぜ歌になったかということなんですが、このお母さんが再婚した男性が開拓を断念して、札幌市に戻ってきて。そこで札幌の新聞社で仕事をしたんだそうです。で、そこで同僚だった人が野口雨情という童謡作家の金字塔みたいな人がいるんですが。『しゃぼん玉』とか『七つの子』、『青い目の人形』でしたっけ? なんかとにかく童謡ブームのまさにもう大立物がいるんですけれども。野口雨情という人が同じ新聞社で働いていて。で、親しくなって、その同僚の奥さんからそういう経緯があったことを聞いて後年……15年後ぐらいですか? 童謡にして。それで、これが広く知られるようになったということなんですね。
で、お母さんと新しく再婚したその新聞社勤めの人と、きみちゃんの妹さんのような方が生まれてるんですが。その人が1973年、昭和48年。それからもうずいぶん時間が経ってますけども。そのきみちゃんの妹に当たる人が新聞に「『赤い靴』の女の子って、実は私の姉だと思うんですよ」っていう投書をしたことにより、「これはもしかしたら実際にあった話なんだ」っていう風にみんなが気づいて。この記事に注目した北海道のテレビ局の記者・ディレクターが5年にわたる取材の後、ドキュメント番組を放送して。で、このきみちゃんの一連の歴史がたくさんの人に知られることになったというようなところまで話が進むということなんですが。ただ、この事実も実際、どうなんだろうか?っていう研究者も声を上げているというのが現状のようです。
(中澤有美子)そうなんですか。へー!
(安住紳一郎)明治時代にやっぱりいろいろな事情があって、ということでね。様々、予定通りにいかなかった事実の繰り返しで。きみちゃんは麻布十番で9歳で亡くなったという。そして、それを思い出したお母さんの話を聞いた新聞社の同僚の方が詞にして。後に曲がついて、そして童謡になったという。ちょっとね、しんみりしてしまいましたけども。なので私はもう『赤い靴』の童謡をね、静岡に行っても歌わなきゃいけないし。小樽や函館やルスツに行った時にも歌うし。麻布十番にいた時も歌うし。横浜に行った時も歌うということになりました。
(中澤有美子)そうですね。
静岡、小樽、函館、ルスツ、麻布十番でも歌う
(安住紳一郎)これが2024年、令和6年の出来事です。ねえ。本当に、きみちゃんには手を合わせたいと思います。
(中澤有美子)そうですね。
<書き起こしおわり>