上柳昌彦 谷村新司を追悼する

上柳昌彦 谷村新司を追悼する 上柳昌彦 あさぼらけ

上柳昌彦さんが2023年10月17日放送のニッポン放送『上柳昌彦 あさぼらけ』の中で亡くなった谷村新司さんを追悼。2019年に谷村さんが番組に出演した際の音源を聞きながら、谷村さんとの思い出について話していました。

(上柳昌彦)今日は、谷村さんの訃報を受けまして。ちょっとね、趣向を変えまして、1曲目がないんですね。それで、チンペイさんなんですけれどね。本当に驚きまして。まだ信じられないんですけれども。この曲のイントロを聞くとですね、高校1、2年に私の記憶が戻っていくんですが。ちょっとBGMを流してほしいんですが。私が高校1、2年の頃、『セイ!ヤング』という文化放送の番組で、谷村新司さんが本当に人気があった頃によくコンサートに行きました。その時の1曲目が、このイントロだったんですね。

アリス『愛の光』

(上柳昌彦)これは『愛の光』という歌でございまして。大ヒットを飛ばす前のアリスですから、お客さんはですね、「私こそがアリスを支えなければ!」っていうね、そんな雰囲気の中でコンサート、すごい温かいムードの中で行われていました。私も女の子と初めて2人でコンサートに行ったのが、神田共立講堂のアリスのコンサートだったんですけどね。この歌のイントロとともに緞帳が上がりまして、3人の姿が……という感じだったですね。

そしてコンサートが終わりまして。「よかったね」って出る時に人がワーッと来て「危ないよ」っつって、その女の子の背中に手をスッとそえた時のあのドキドキ感っていうのはですね、今でも覚えていますね。チンペイさんには本当に音楽ですとか、そしてラジオの面白さ……だから僕のトークの中のかなりの部分、谷村新司さんのトークのあの感じっていうのがあるかなっていう風に思ってますね。いろんなものを教えていただきました。大人の作法みたいなものとかね。本当にありがとうございました。今日はニュースの後に、この番組の「ウルトラヒットの道標」にご登場された時のチンペイさんの声をたっぷり聞いていただきたいと思います。

(中略)

(上柳昌彦)木更津にお住まいの61歳の方です。「谷村さんの訃報、悲しいです。上ちゃんの朝ぼらけ、5時台ニッポン放送でチンペイさんとお話をされていたのを聞いていて、とても楽しかったです。その部分だけでも、少しだけでも聞きたいです」ということで。昨日、急遽イワサディレクターが5日間にわたるものを11分ぐらいにまとめてくれました。2019年4月14日から19日、ニッポン放送『上柳昌彦あさぼらけ』、ウルトラヒットの道標にご出演の谷村新司さん、様々お聞きください。

<音源スタート>

(上柳昌彦)歌っていうのは、そもそもちっちゃい頃から「新司くんは歌が上手だね」って言われていた子だったんですか?

(谷村新司)割と言われてました。「歌、うまいね」って学校の先生にも言われて。ただ、音楽の授業が嫌いでね。その、音符がどうのこうのとかっていうのが、楽しくないじゃないですか。覚えることだらけで。ただ、「歌いましょう」といった時は楽しいんですけど。なんで、だから歌うのはちっちゃい頃から好きだった子供でしたね。

(上柳昌彦)でも自分が歌い手になるとか、ミュージシャンになるっていうのは?

(谷村新司)全く。

(上柳昌彦)何をやりたかったんですか? 谷村少年は。

(谷村新司)「女の子にモテたいな」っていうことしか考えてなかったんです。あの頃は。

(上柳昌彦)それで、ギターを持つんですもんね?

(谷村新司)最初はね。まあ、あの当時の男子がギターを持つっていうのは、最初は下心ですよね?

—-

(上柳昌彦)結構当時、谷村さんの話を伺っていて。海外でライブをやって。その時に結構、いろんな人と知り合って。それがアリスの源流になってるみたいな話をされてたような気がするんですが。

(谷村新司)それはね、1970年の大阪万博の時にカナダ館があって。カナダ政府がですね、そこにある水上ステージを日本のアマチュアバンドに開放してくださったんですね。で、そこに僕ら、当時のアマチュアバンド、ロック・キャンディーズが出た。だからはじめて目の前に外国人がいるという状況で歌って。そこでの出会いから、全米を横断するという無謀な旅に出ていくという……(笑)。

(上柳昌彦)これがね、今は結構気軽に海外に行きますが。70年の当時はまだ、「一生の間に俺は海外行けるかな?」みたいな時代だったと思いますよ。

(谷村新司)その通りです。だから1ドルが360円だった頃で、持ち出しが10万円って限られていた時なんですよ。だから10万円ってすぐなくなるんですよね。海外に行くと。

(上柳昌彦)旅なんかしていたら、あっという間じゃないですか。

(谷村新司)だから、たどり着く先先に日本から、もう1人の友達にお金を送っておいてもらって。それを引き出しながら、旅を続けるという。まあ、本当にどうにかなるだろうという希望だけで飛び出してったっていう、無茶苦茶な旅でしたね。

(上柳昌彦)ライブをアメリカ人の前でやったわけでしょう?

(谷村新司)やりました。バンクーバーから始まって、バンフ、ジャスパー、トロント、ナイヤガラ、ニューヨーク、ヒューストン、サンアントニオ、メキシコ。それからロサンゼルス。2ヶ月間。だからほとんど、ホテルにちゃんと泊まらずに、グレイハウンドっていう大陸横断バス。あれで夜、寝てたんです。だからホテル代をそれで浮かしていたんです。

(上柳昌彦)うわっ、もう若さゆえというか、ちょっとバカっていうか(笑)。

(谷村新司)今はもうね、無理、無理(笑)。

(上柳昌彦)そんな状況だったんですか?

(谷村新司)で、着いた町のストリートで勝手にやって。それでギターケースを広げて。みんな、お金を入れてくれて……みたいな(笑)。

(上柳昌彦)じゃあ、ステージとかじゃなくて?

(谷村新司)はい(笑)。それで、バンクーバーとかでは日系の人たちが「日本の若者が来た」っていうんで、なんかコンサートの場所を押さえてくれて。みんなで盛り上げてくれたみたいなものはあったんですよ。でも、基本はストリートで(笑)。

—-

(上柳昌彦)アリスのメンバーの皆さんのお話を伺いたいと思うんですが。まあ、よく……僕ら、つい「べーやん、べーやん」って言ってしまうんですが。べーやんの声質と谷村さんの声質っていったら、ものすごい絶妙なマッチングじゃないですか。よく出会いましたね。

(谷村新司)いや、本当によくぞ出会ったって……3人とも、同じことを言いますよね。よくぞ出会ったって。で、堀内との出会いは、谷村がやっていたアマチュアバンドが神戸のアマチュアサークル、ポート・ジュビリーっていうところにいたんですね。それで毎年、そこのサークルに入りたいというアマバンドがオーディションに来て。それで僕らより1年下のバンドがオーディションに来た中に、堀内のバンドがあったんです。で、あの時ね、堀内のバンドがね、アニマルズの『朝日のあたる家』かなんかを歌っていて。その時に堀内のボーカルを聞いて僕はもう、電流が走って。「いい! すごい!」って思ったんです。

でも、他のポート・ジュビリーの先輩たちは当時、フォークソングが主流だったんで。「なんかちょっと違うかも?」みたいなことを言っていて。「いや、このバンドはもう絶対いいんで、入れてほしい」って先輩たちに言って。「谷村が言うんだったらじゃあ、入れようか」って言って、同じサークルに入ってきて。それで1年先輩・後輩関係になって。その中で僕はずっと堀内のボーカルっていうのは当時から特別だと思っていたんで。「プロになるんだったら、こいつしかいないな」って心に決めてたんですよね。それで矢沢とは、この前に話したアメリカに……。

(上柳昌彦)一緒に行ってるんですよね?

(谷村新司)めちゃくちゃな旅をした時に、僕らのアマチュアバンドは大阪からなんですけど。彼はプロのブラウン・ライスっていうバンドで、東京からそこに参加していて。そこのドラムを叩いてたのが矢沢だったんです。だからその2ヶ月間にわたる無茶な旅の中で、他のバンドのドラマーだった矢沢とめちゃくちゃ気が合って。話が盛り上がって。それで、「いつかプロになった時に声をかけるね」って言って。それで矢沢も「待ってるからね」っていうんで。その矢沢が入って、堀内・谷村で3人っていうイメージがその時に出来上がった。

—-

(上柳昌彦)『セイ!ヤング』なんですよね。

(谷村新司)深夜ラジオね(笑)。

(上柳昌彦)深夜放送の星『セイ!ヤング』で……まあ、ちょっと社会現象ですよね。

(谷村新司)あの当時、今から考えると信じられないようなことを普通にしゃべってました。だから、たぶん番組の中でコンドームのちゃんとした使い方について初めてしゃべったのは『セイ!ヤング』だと思います。

(上柳昌彦)そうですね。そうなのか……。

(谷村新司)そうなんです。だって、そんな知識もみんな、なかったんだもん。

(上柳昌彦)「そういう風になっているものを、そういう風にするの!?」って、もう頭をパンパンにしながら高校1年生が聞いてるわけですよ。

(谷村新司)もう、妄想ですよ。

(上柳昌彦)妄想ですよ!

(谷村新司)で、また妄想が膨らむようにしゃべってましたから(笑)。

(上柳昌彦)次の日に「聞いた? 聞いた?」って言って仲間連中と話をするわけですよ。

(谷村新司)ねえ。

(上柳昌彦)バンバンと……ばんばひろふみさんとおやりになる「天才・秀才・バカ」コーナーっていう。投書でね、ワンフレーズで笑わせてくれるという。この間、栃ノ心というお相撲さんと貴景勝さんっていうお相撲さんが……貴景勝は大関昇進をかけて。栃ノ心は大関陥落にならないようにっていう一戦が大阪場所であったんですが。まあ、栃ノ心が負けて、5場所で大関陥落。スポーツ紙に「これは大受以来である」って書いてあったんですよ。「大受……天才・秀才・バカでよく取り上げられていたお相撲さんだ! 大受のケツに赤い薔薇、覚えてるなあ!」って。そんなんで笑っていたんですよ、僕らは(笑)。

(谷村新司)あの当時、本当に注目されてなかった大受関が、番組の中で大フィーバーしていたんですよね。

(上柳昌彦)深夜放送界隈で、大受を追ってましたからね。

(谷村新司)それで大相撲関係者から「ありがとう」って言われましたよ。当時、花籠部屋のお嬢様もリスナーで。「毎週、聞いていて。大受くんをみんながいじってくれて、相撲界にとってはすごくありがたい」って言っていただいたこと、ありました。

(上柳昌彦)そうだったんですか(笑)。

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(上柳昌彦)あの、変なことを聞いていいですか? 3人の仲っていうのは、よかったんですか? どんな感じだったんですか?

(谷村新司)仲良くないと、やってないですからね。

(上柳昌彦)でも、しょっちゅう一緒にいる状態じゃないですか。年間300ステージであったりとか。それだけいつもいつもってなると、どんな感じなんだろう?って。

(谷村新司)あの、夫婦生活と一緒で。最初の頃は恋愛感情があって。一緒にいることが嬉しい時期があって。それで、夫婦として生活が始まっていくと、毎日一緒になってきて。そうすると、お互いのいいところも全部見えるし、欠点も全部わかる。なんだけど夫婦って不思議なもんで、その欠点も含めて、「ああ、こういうところがあるんだ。じゃあ、こういう時はこっちはこうしてあげた方がいいな」って思いやれる。だからそういう状態でいたグループっていうか。だから、決して我の強いグループじゃなかった。わがままじゃなかった。

(上柳昌彦)大人なんだな。

(谷村新司)すごい大人でしたね。

(上柳昌彦)その音楽的なことで意見が合わないだとか、食物のことで意見が合わないとか、そんなようなことってのは、どうだったんですか?

(谷村新司)いや、そんなことは当たり前のように、それはあるもんだって3人とも思ってやってるんで。で、3人とも音楽の志向っていうか、育った音楽が違うんで。でも、それを3人合わせて「じゃあ、こうやっていこうか」っていうので出てきたものがアリスなんで。だからその違うことがアリスの一番の強みだって3人ともわかってたっていうか。だから、すごい言ってみればクールなグループだったかもわかんないですよね。

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(上柳昌彦)どうなんですか? 歌っていて、あの頃。20代の頃に作った歌を今の歳で歌うっていうのは、どんな感覚なんですか?

(谷村新司)あのね、2013年に……震災があって、その後に日本中がやっぱり打ちひしがれていた時に、みんなに元気出してもらうと思うんで47都道府県に全部、コンサートしに行こうっていうのでアリス3人で集まった時に、「今度3人でやるとしたら、70歳だよね」って暗黙のうちに3人、思っていたんですね。ただ、その時は64、5でしょう? でもそこから70歳までって結構、時間があったんで。「70歳で大丈夫かな?」って3人とも思ってたんだけど……でも、「なんかいけそうね」っていう気配にはなってきている。で、想像もしてなかったけど、70歳で3人がまたステージに立つっていうのは、アリスにとっての新しい挑戦になるから。そのアリスをやってることで元気をプレゼントできるんじゃないかなって。

<音源おわり>

(上柳昌彦)2019年の朝ぼらけ、ウルトラヒットの道標から聞いていただきました。アリスの3人は2022年11月17日、有明アリーナで50周年記念ライブがありましてね。ここからまたやるんだ!っていうね。「来年からツアー、やるよ」っていう風におっしゃっていたわけですが、残念ながらそれは叶うことはありませんでした。この話し方のトーン。このトーンでエッチなことをいっぱいおっしゃるわけですよ。そりゃあ、高校生にとったら……そして、ばんばひろふみさんとのもうコンビが抜群で。埼玉の58歳の方。「文化放送の『セイ!ヤング』天才・秀才・バカのコーナー面白かった。バンバンの独特な笑い方。ワニブックスからの本も買いました」。そう。本屋さんに行きますね、お金払うところで、この天才・秀才・バカシリーズがずらっと並んでるんですよ。みんな買うんだ、これを(笑)。

続いて。「思春期から大学受験までだったか、文化放送の『セイ!ヤング』天才・秀才・バカやそのあたり、遠距離受信をしていました。MBS『ヤングタウン』金曜日も聞いていました」。ヤンタンでずっとチンペイさんたち、アリスでやってたんですけれどもね。ずっとお休みをされていましたね。たくさんの思い出のメール、今日本当にね、ニッポン放送に来てメールを開けてびっくりするほどいただきました。全部読み切れないんで、本当に申し訳ないんですけども。

続いて、60歳、三鷹の方ですね。「谷村さん、さださん、森山良子さん……」。ねえ。昨日、森山良子さんもオールナイトニッポンMUSIC10で偲んでいらっしゃいました。「THE ALFEEのお三方、こうせつさん、そしてリーダーが加山雄三さんのバンド、加山雄三とザ・ヤンチャーズ『座・ロンリーハーツ親父バンド』、こんな曲もありましたね。さださん、大の仲良しだった谷村さんの訃報に『まだ俺は信じない』という風にコメントされていましたね」という。その気持ち、すごくわかりますね。

こちらは横浜の方ですね。「戒名が発表されてましたね」。そうですね。昨日の午後の『ミヤネ屋』さんなんかでも、すぐに出てましたよね。「天昴院音薫法楽日新居士」という。東日本大震災では大船渡に行ってね、ライブをやられたりとか。ずっとそういう活動もされてましたが。横浜の22歳の学生さん。「小学生の頃は大船渡にいて、震災もそこで経験しました。アリスの皆さんに来ていただいて『サライ』をみんなで歌いましたというメールも届いております。1972年。51年前ですね。これもやはりコンサートでの定番の曲でした。この曲聞きながらニッポン放送以外の方とお別れです。アリス『明日への讃歌』。

アリス『明日への讃歌』

(中略)

(上柳昌彦)谷村新司さんの訃報が昨日午後、入ってきまして。まだちょっと信じられない感じなんですが。4時台では『あさぼらけ』で2019年にウルトラヒットの道標にご登場いただいた時の谷村さんのインタビューの模様を11分、5日間分をイワサディレクターが編集してくれまして。それを全部聞きました。で、僕は「チンペイさん、チンペイさん」って言うわけで、千葉の八千代の49歳の方です。「なんで谷村さん、チンペイさんって呼ばれてるのですか?」っていう。これ、わからないんですよ。『セイ!ヤング』でチンペイさんのことはチンペイさんだったんですよね。なにか言われはあると思うんだけども。ばんばひろふみさんに聞いたら、わかるかもしれない。

あと、リスナーの方からは「くずれパンダ」っていう風によく言われてましたね。レイバンのサングラスをかけて。で、それがなんかくずれたパンダみたいだ、みたいなことだったんでしょうね。ラジオの面白さっていうのを本当にたくさん教えていただいた方ですね。「ラジオに行きたいな」と思ったきっかけを本当に作ってくれた大切な1人です。もう1人ね、やっぱり「ラジオに行きたい」と思った人がいまして。それは、徳光先輩と土曜日にやっている石川みゆきさんですね。もうみゆきさんもアリス・谷村さんの大ファンで。この2人がですね、アリスを通じて仲良くなってそして、信じられないことに谷村さんの番組に呼んでいただいたりなんかっていうことがあったんですね。

松戸の59歳の方です。「『セイ!ヤング』が有名ですが、ニッポン放送でも『学問のスルメ』っていう番組がありましたね」。ありましたね。谷村新司さんの録音番組ですね。「ここでまだ20代後半の上ちゃんが予備校を受験させられた『受験トトカルチョ』というコーナーがありました」。そうそうそう(笑)。早稲田予備校の試験を受けて、通るか通らないかっていうのでやったんですよ(笑)。で、浪人生の中で1人、ちょっと上かな? みたいな感じで。でも、誰も顔も知られてないですから。早稲田予備校の試験を受けて行けるコースがあったんですね。そこで面接まで受けちゃったんですよ。学科がちょっとだけ悪かったらしいんですけれども。面接で「いかに僕はもう一度、学びたいか?」みたいなことを言ったらですね、特例で「じゃあ、通わせてあげましょう」ってなっちゃって、すげえ困ったっていうのがありましたね。谷村さんが笑ってたなー。あれなー。(ものまねで)「ダメだよ、そういうことしちゃ」「いやいや、言ったのはあなたじゃないですか!」みたいなね、そういうのがあったですね。

「あと、松本秀夫さんがレポーターしていた『何だか若旦那』っていう番組もありましたね」。ありましたね(笑)。ニッポン放送でもね、結構番組を、日曜日なんかもね、やってらっしゃったんですよね。「イルカさんの追悼の『昴になられましたね』のコメントは大変感銘を受けました。謹んでお悔やみ申し上げます」という、こういうメールを本当にたくさんいただきました。ちょっとだけ、デビュー曲です。『走っておいで恋人よ』です。これが1972年ですから、そこからですね、ヒット曲が出ないというのがずっと続いていくんですね。

でもだからこそ、ファンの皆さんはもう気持ちがひとつになるんですね。「私こそアリスの音楽を知っている。私こそ谷村さん、べーやんさん、キンちゃんのことが好きなの!」っていう人たちに支えられてたんですよね。で、75年にカバーだったんですけども。『今はもうだれも』がヒットして。76年に『遠くで汽笛を聞きながら』。今日あたりは『昴』ですとか、『群青』とか『三都物語』『陽はまた昇る』『チャンピオン』『いい日旅立ち』、たくさん流れると思うんですけど。4時台から5時台にかけて、私は初期のアリスの曲をかけてチンペイさんを偲びました。ありがとうございました。

アリス『走っておいで恋人よ』

<書き起こしおわり>

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