町山智浩さんが2025年7月29日放送のTBSラジオ『こねくと』の中でブラジル映画『アイム・スティル・ヒア』について話していました。
※この記事は町山智浩さんの許可を得た上で、町山さんの発言のみを抜粋して構成、記事化しております。
(町山智浩)今日はですね、アカデミー賞で国際映画賞を受賞した傑作ですね。これ。すごい映画なんですが。8月8日金曜日に日本公開されるんですが。『アイム・スティル・ヒア』というブラジル映画を紹介します。
(曲が流れる)
(町山智浩)もういかにもブラジルって感じの音楽ですけれど。この映画はですね、1970年から71年にかけてのブラジルのリオデジャネイロに住んでいる1人の奥さんを中心にした話で。その奥さんにはお子さんが娘さんが4人と男の子1人いて。子だくさんなんですけど。で、お父さんは土木建築家で。結構いい家なんですよ。だってこんなに子供がいて、お手さんもいてね。で、海岸まで道路を渡って1分というところに住んでいていて。まあ、すごいいい家なんですけど。みんな楽しくねえ暮らしてるんですが。
この家庭がその1970年の末、お父さんが軍事政権から反政府運動家として逮捕されてから、家庭が崩壊していく恐怖を描いてます。これは実際にあったことで。原作は男の子が1人いたって言いましたが、その男の子が自分のお母さんとかに取材して書いてまとめたノンフィクションが原作です。これね、そう聞くとなんかすごく政治的な映画だと思うんですけど……完全にこの奥さんの目線からしか撮ってないんですよ。だから普通に日常していて。子供の世話とか、ご飯を作ったりしてるところで突然、夫が逮捕されて連れ去られてしまって。
で、そこからどんどん、お金もなくなっていくしね。どんどん追い詰められていくのを完全にその奥さんの視点からだけで描いてるんで、それ以外のものは出てこないんですよ。で、こういう映画だとたとえば家の外の政治的なことっていうのはテレビで映る程度です。ただですね、この映画は何をやろうとしているのか?っていうと、ちょっと説明が不足になっちゃうんですね。どうしてもね。その時に何が起こっていたのか、どうしていたのかが全然わからないんですけど。まず、この奥さん自身には何もわからなかったんですよ。つまり、夫が逮捕された理由もわからないんですよ。で、いつ帰ってくるかもわからないし、生きてるか死んでるかもわからない。で、自分たちもどうなるか、わからない。
で、その全く訳がわからない状態を観客に本当に体験させるために情報は最低限になってます。この映画は。それが見ていて、怖いんですよ。このわからないことが恐ろしいんです。ものすごくリアルなんですよ。だから見ていて本当にホラー映画みたいな感じなんですけど。ただね、それだけではない部分というのがあって。今、音楽がかかってるでしょう? これは当時、ヒットしてた音楽なんですけど。
全編に流れる当時のブラジル音楽たち
(町山智浩)全編、その1970年から71年にこの家のレコードをかけているか、ラジオやテレビから流れてきた音楽だけを使ってるんですよ。この映画は。これ、この男の子は小学生ぐらいだったんですけど。お姉ちゃんとかは結構上だったし。で、まあいろいろ家族で聞いていって、当時の思い出を全部集めていった感じなんですね。で、「あのレコード、あったよね。あれ、よく聞いてたよね」みたいなことをやって。非常にリアルにレコードジャケットが出てきて。そこからレコードをかけたりするんですけど。
それでそれにはまたもう1つの意味があって。これね、僕は最初、わからなかったんですよ。今、かかってる音楽があるでしょう。楽しそうな。これはその当時のブラジルの歌手のカエターノ・ヴェローゾという人の曲なんですけど。『Tropicália』という曲なんですね。
(町山智浩)これはすごく楽しく聞こえるんですけど。そのブラジルの伝統的音楽とその当時、流行ってたビートルズとかサイケデリック・ロックとかを合体させたトロピカリアという音楽運動があって。その曲なんですが。それが非常になんていうか、自由とかセックスとかドラッグとか、そういったものを歌うんで政府から逮捕されます。
カエターノ・ヴェローゾさん、逮捕されるんですよ。で、「お前の曲は非常に危険だ」と軍事政権から言われて。「この国が嫌いなら、出て行け」って言われて国外追放されるんです。でも、その情報はこの世の中でチラッと、その娘さん。長女が大学でロンドンに留学するんですね。金持ちだから。で、「留学先で誰かと会った?」「カエターノと会った」っていうセリフが出てくるんですよ。で、「ああ、このカエターノっていう人、ロンドンにいるんだ。なんでなんだろう?」って思ったんですよ。で、調べたら当時、国外追放されていたんですよ。
この人の場合には大スターだったので。大問題を起こした人なんで彼の国外追放は大ニュースになったんですけど。もう1曲、ちょっと聞いてほしいなと思って。で、この長女がロンドンに留学に行くってことで、壮行会をするところでみんなが楽しい音楽をかけて踊るシーンがあるんですね。それがジュカ・シャヴィスという、ミュージシャンの『Take Me Back to Piaui』って曲なんですが。ちょっとかけてもらえますか?
(町山智浩)この歌を歌ってる人がジュカ・シャヴィスさんっていうおっさんなんですが。まあすごく楽しい曲で、子供たちがみんな「わーい!」って歌って踊るんですね。まあ小学生の子とかもいるんでね。で、ところがこのジュカさんもヨーロッパに亡命してるんですよ。この人はコメディアンで、すごく政府批判をしてたんで、いられなくなって亡命してますね。同じような理由で。だから1970年代のブラジルを知ってる人だと全部、曲に意味があるんですよ。で、この家に人でお父さんをさらっていった人も誰だか全くわからないんですよ。身元も言わないし。
「あなたたち、誰なの? 警察なの?」って聞いても、何も答えないんですよ。すごい怖いんですよ。で、これ、実際は誰かというと軍人なんですよ。軍事政権だったから本来は軍隊っていうのは敵の国と戦って国民を守るためにいるじゃないですか。でも軍事政権というのはどこの軍事政権もそうなんですけど、国民の中に敵を見つけていくんですよ。だから軍隊は国民を攻撃するんです。で、「これは非国民だ」っていうことで。で、その彼らの家のレコードをあさるんですよ。
それでさっき言ったカエターノさんとか、政府に反対しているミュージシャンのジャケットを見て「ふーん」って言うんですよ。これも僕、最初に見た時はわからなかった。あとから「あのジャケットを見て『ふーん』って言っていたのは一体、何だろう?」と思って調べたらわかったんですけど。たぶんね、ブラジルの人たちは「うわー!」って感じなんですよ。でもどれも、ヒットソングなんですよ。
ただ、直接的に政府を批判することは許されなかったんで、すごく回りくどいやり方でやっていたんですね。でもやっぱり、政府の方は見つけてくるんですよ。で、弾圧をするんですけど。この映画、ブラジルでですね、もう史上最大規模の大ヒットになったそうなんですよ。『アイム・スティル・ヒア』って。で、これはまず、この主演女優のフェルナンダ・トーレスさんっていう人がいて。お母さんの役をやってる人ですね。この人、名女優なんですよ。で、ずっとブラジルでテレビドラマとかですごく人気だった人で。今回、アカデミー賞の主演女優賞候補にもなってるんですけど。ものすごいお芝居がうまいんですよ。
夫をさらわれ、残された妻と子供たち
(町山智浩)どういうことかというと夫をさらわれちゃうけれども、そこでパニックを起こすと小学生の子供が2人もいるから。子供たちが「お父さんが殺されちゃうかもしれない」ってなると怖いじゃないですか。だから「お父さん、お仕事で行ったのよ」って言うんですよ。「すぐ帰ってくるわよ。大丈夫よ」って言いながら。楽しく「ご飯、食べましょうね」とか言ったりするんですけど。ちょっと子供が見えないところではすごい顔になるんですよ。すごいですよ、これ。ところがその後、夫が帰ってこないだけじゃなくて、このお母さんも逮捕されちゃうんですよ。それで、15歳の女の子も逮捕されます。
顔に袋かぶせられて、どこだかわからない収容所に入れられて、拷問されます。ひどい。で、何をするかっていうと「お前、この男は知ってるか? こいつ、知ってるか?」っていうので、要するにもう芋づる式に関係者を全部、捕まえようとしてるんですね。で、長い間その入れられて、いつで出られるかわからない。今は何日かもわからない。子供たち、どうなってるかもわからない。お母さん、1人なんですよ。小学校の子供もいるんですよ。彼らがご飯を食べてるかどうかもわからないんですよ。誰にも連絡取れない。こんな怖いこと、ないですよ。
で、実はそこから出る方法っていうのはいくつかあるんですけど。1つは、誰かを密告することなんですよ。そうやって片っ端から捕まえていってるんで、大変な事態になってるんですけど。これね、この取り調べシーンなんかも怖いんですけど。「左翼だろ?」って言うんですよ。「はあ?」みたいな。これね、旦那さんはなんで逮捕されたかというと、実は1964年にクーデターで軍事政権ができるんですけど。その時の倒された民主政権の閣僚だったんですよ。旦那さんは。
労働党だったんですけど。もともと労働組合の人でね。だから、その時に軍事政権から逃げて亡命したたちがいっぱいいて。「お前はそいつらと連絡を取ってるんだろう?」ってことで逮捕されちゃったんですけどね。これね、本当に恐ろしい話で。最初は普通のなんでもないホームドラマに見えるんですよ。男の子がね、ワンコを拾ってきて。「パパ、飼ってもいい?」とかね。一番下の娘が奥歯の上の歯が抜けちゃって。それをお父さんがね、地面に埋めるっていうシーンがあるんですけども。あれ、世界中みんなやりますよね。
そういう普通のことを……要するに子供たちの思い出話を集めてるんですよ。すごく普通なんですけど、テレビを見るとなんかおかしい。で、子供たちは突然、軍事政権に道端で取り調べを受けたりしてて。ただ、表側には全然出てこないんです。その軍事政権の怖さっていうのは。それが、じわじわと入ってくるんですよ。本当にこうなっていくんだって……要するに映画みたいに軍隊がガンガン歩いてね、街をマーチして、そこら中で暴力を振るっているっていうんじゃじゃないんですね。これがリアルでね、すごい怖いんですけど。で、お父さんが逮捕されて帰ってこないわけだから、どんどんお金がなくなってきますからね。もうお手伝いさんもクビっていうか、帰ってもらわなきゃならないしね。
で、その広い家にも住めなくなるし。っていう話なんですけど。もう音楽の使い方がね、最初見ただけじゃわからなくて、後からわかったシーンがあって。これね、カエターノ・ヴェローゾさん、同じ人なんですけど。『Como dois e dois』っていう曲をかけてもらえますか?
(町山智浩)これ、ちょっと普通のラブバラードみたいに聞こえるんですけど。これ、ロンドンに留学していた娘が帰ってきて。で、車に乗るんですね。で、後ろに小学生の妹と弟が乗ってる状態でお母さんが車に乗っていて。すると、その帰ってきた娘が「お父さん、どうなっちゃったの?」って心配して言うわけですよ。そうすると、お母さんは答えられないんですよ。後ろの子たちに聞こえちゃうから。で、だから黙ってカーラジオの音量を上げるんですよ。すると、この曲が流れるんですよ。この曲はね、「2+2のように」っていう不思議なタイトルなんですよ。これ、どういうかっていうと「僕は大丈夫かって聞かれるけど、大丈夫だよ。2+2が5みたいなもんだ」って言うんですよ。
「2+2=5」の意味
(町山智浩)この「2+2が5」っていうのは「大丈夫じゃない」っていう暗号なんです。これは当時、軍事政権を批判することは許されなかったから。「今のブラジルはおかしいよ」ってことをうたってるんですよ。でも歌詞は「大丈夫ですよ」って言ってるんですよ。「2+2=5」っていうのは『1984』というジョージ・オーウェルの小説がありますけど。そこから来てますよ。だから「2+2は5だ」って政府が言ったら、それを信じなきゃいけないっていうのが軍事政権ですよ。独裁政権ですよ。だって「2+2は4だよ」って言ったらそこで逮捕・監禁されちゃうから。非国民扱いになっちゃうから。
これ、だから僕、このシーンは最初、わからなかったんですよ。そういうところがすごい映画で、リアリティーがもうすごいんですけど。これはね、ちょっとネタを割っちゃっていいと思ってる部分が1つあって。このお母さんはこれで戦っていくんですけども。そうしないと、家族を守れないからどうするか?っていうと、48歳で大学の法学部に行って、司法試験を経て、法律家として政府と戦います! すごいんですよ。
だからこのタイトルのね、『アイム・スティル・ヒア』っていうのは「私はここにいる」」っていう意味なんですけど。「追放されないよ」っていうことですね。これはね、本当にすごい映画でしたね。見ていて、怖くてね。これね、やっぱりアメリカで今、ちょっとトランプ政権が逮捕状とかなしで人を逮捕してるんで。僕、さっき「涼しいところにいて申し訳ない」って言っていたんですけども、僕は今アメリカを出れないですからね。
これは再入国できない可能性が非常に高いので、みんなもう出れない人が多いですよ。今、だから。でも下手すると家に入ってくるかもしれないもんね。それも実際に起こっているので。グリーンカードを持ってる人が実際に逮捕されたんですよ。そういうことが起こってるんでね、非常に怖くて。この映画を見てて、怖かったんですけど。これね、アメリカで当たっているのもそうなんですけど、これがブラジルで大ヒットした理由というのが1つ、あって。この軍事政権というのはその後、崩壊するんですけども。軍事政権が崩壊した後、すごくいい政権ができたんですよ。ブラジルは。労働党政権ができて。で、ブラジルの貧困問題を解決したんで、ブラジルって2000年代にものすごい経済的に躍進したじゃないですか。
あれは「BRICKS」っていう言葉があったのを覚えてると思うんですけど。ブラジルで大きい問題だった貧富の差を解消して、犯罪とかも減って。で、経済的にすごく発展して、それこそ中国とかに対抗するぐらいの巨大な経済大国になるんじゃないかっていう発展をしていたんですよ。2000年代に。それが全部、崩壊したんですよ。彼らは労働党政権で、なんというか貧困層向けの政策をしていたんで。それに対して右派政権が……背景にキリスト教原理主義者たちを味方につけた右派政権が労働党政権を倒しまして、独裁政権化してたんです。
また戻っちゃったんですよ。それが2019年なんですけど。有名だと思いますけど、ボルソナーロという人が大統領になりまして。彼はトランプ主義者なんですよね。それで、それまでの労働党政権の元大統領を監禁しまして。1年以上。で、まあキリスト教原理主義者をバックにね、カルト政権を樹立したんですよ。で、ものすごい弾圧をしてたんですよ。ところが2020年の選挙でまた労働党が勝ちまして。ただ、その選挙の結果をまあ、否定しまして。トランプと同じですね。ボルソナーロは。で、自分たちのカルトな信者たちを議会に突入させました。
ブラジルにずっと残る軍事政権復活の恐怖
(町山智浩)そういう事態があったんで、ブラジルの人たちはまたいつ、軍事政権が復活するかわからないっていう恐怖があって。それでこの映画が大ヒットしたんですよ。ブラジルではこの間まで軍事政権に近い……ほとんど軍事政権だったんですけど。ボルソナーロはね。要するに軍隊を使って、本当は最終的にはその選挙もひっくり返そうとしたんですけど。でも軍隊が動かなかったんで、よかったんですけどね。で、アメリカの方では現在、トランプが軍隊を使ってロサンゼルスでね、軍を送り込んで。それで反トランプの人たちを逮捕してましたけど。でも軍隊って本当は逮捕権を持ってないんですよ。
だからもう完全に憲法違反のことしてるんですけど。だからアメリカでもこの映画は非常に評価されていて。劇場、満員でしたけどね。それでブラジルではキリスト教原理主義の人たちが人口の30%になっちゃったんですよ。これ、アメリカでも多いんですよ。アメリカは人口の25%がそうなんですよ。だからその人たちはもうこういう映画に対して反発してますね。激しくね。だってブラジルってこの間まで、カトリックの国だったんですよ。
ところがそのカトリックが減って、まあキリスト教原理主義……まあ一種のカルトがものすごい力を持ってるんですけど。まあ、ちょっと怖いんですけど。でも日本も本当にこれ、他人事じゃないでしょう? つまり何が問題かというと国民を国民とそうじゃない非国民に分けて。それで政権に反対する人たちを次々と逮捕をしていくという恐怖なんですね。で、今これがかかってる曲がこの映画の主題歌のようにして使われている曲なんですけども。かこいいでしょう? すごいかっこいいロック……サイケデリックロックで。これは
えー、これはエラスモ・カルロスという人のですね、『É Preciso Dar um Jeito, Meu Amigo』という1971年のヒット曲なんですけど。
(町山智浩)これもね、はっきり言ってないんですが。「この軍事政権から脱出する道はあるのか、友よ」っていう歌詞なんですよ。ただ、歌詞では「軍事政権」とは言ってなくて「ここから」って言ってるんですよ。でも当時、聞いた人は「この軍事政権」っていう意味だと思うわけですね。これがね、非常に怒りに満ちた音楽で。これがね、最後のクライマックスでかかるんですけど。まあ、すごい感動しましたね。
これ、8月8日からなんですけど。あと、すでにネットフリックスで配信中の『熱帯の黙示録』というドキュメンタリーがあるんですが。それは今、言ったボルソナーロの軍事政権がどうだったのか? ついこの間まであったです。そのカルト政権の実態を描いたドキュメンタリーで、これもぜひ、この『熱帯の黙示録』を見ていただくと本当に他人事じゃないなって思うのでぜひ、見ていただきたいと思います。