山下達郎 40代から50代にかけての「空白の10年」を語る

山下達郎 アナログレコードのメンテナンスとコレクション管理を語る オールナイトニッポン

山下達郎さんが2023年2月18日放送のニッポン放送『山下達郎と上柳昌彦のオールナイトニッポン』の中で40代から50代にかけて、思うように作品が作れず、ツアーも出来なかった「空白の10年」について話していました。

(上柳昌彦)(『パレード』を聞きながら)達郎さんがこれを歌っていたのが……。

(山下達郎)これを歌っているのは22の時。

(上柳昌彦)でも最近、ライブを拝見させていただきますと、今回のツアーも声、めちゃくちゃ出てますよね?

(山下達郎)お酒をね、やめたんですよ。

(上柳昌彦)えっ? 全然飲まないんですか?

(山下達郎)ええ、もうアルコール、やめました。乾杯程度の、そういうテイスティングとか、そういうのはやりますけども。

(上柳昌彦)アルコールをやめると、やっぱりそんなに違いますか?

(山下達郎)それが違うんですよ。なんだか知らないけども。アルコールっていうのはそういう……まあ、浴びるほど飲んでましたからね(笑)。

(上柳昌彦)お好きだったんですね。

(山下達郎)もう一生分、飲みましたんでね。

(上柳昌彦)『パレード』、そのシュガーベイブ。このあたりの時って、結構ニッポン放送に住んでたらしいですね?

(山下達郎)いや、そういうわけじゃないですけど。ここのニッポン放送のビルの一番上が当時のPMPっていって。フジパシフィックの音楽出版社で。

(上柳昌彦)著作権の会社があって。朝妻さんがいらっしゃったところで。

(山下達郎)で、シュガーベイブはそこの契約だったんで。で、アレンジとかで、ストリングスアレンジとかブラスアレンジをする時に、家だと夜中、そうやって音を出すと親に怒られるので。で、ここの応接室にピアノが置いてあって、それを使わせてもらって。だから皆さんが夜の9時ごろに帰るじゃないですか。で、それで夜中を通して、朝まで仕事をして。そうすると、6時とか7時になると社員の方が来て。それでこっちは帰るっていう。そういうのを何回か、やっていましたね(笑)。

ニッポン放送のビルに泊まり込みで仕事をしていた

(上柳昌彦)今回、このオールナイトニッポン55周年記念の55時間、皆さんいろんなパーソナリティーの方々が登場するんですが。共通のテーマがありまして。「あの頃の自分に言いたいこと」っていうテーマらしいんです。その頃の、ニッポン放送にもう住民票を移した方がいいんじゃないか、みたいな。その時代に関して言いたいこと、言ってあげたいことってありますか?

(山下達郎)ちょうどシュガーベイブを出してる時ですから。それは、よく聞かれるんですよね。同じようなことは。「その頃の自分に言いたいこと」って。「今でも何とかなってるから、安心しろ」っつって(笑)。

(上柳昌彦)そりゃ、そうですね(笑)。まあ、高校とかはね、もういわゆる紛争の頃で。もうぐちゃぐちゃの状態で。それで都立高校じゃないですか。もう本当にぐちゃぐちゃの状態で入り。で、なんかちょっとドロップアウト気味な感じで……。

(山下達郎)「ちょっと」じゃないです。完全にドロップアウトですね。

(上柳昌彦)その頃の自分には、なんて言いたいですか?

(山下達郎)まあ、「よく頑張ったね」って(笑)。

(上柳昌彦)親の気持ちですね(笑)。

(山下達郎)本当にだから、別にミュージシャンになろうと思ったことがなくて。どちらかと言ったら、スタッフっていうか。たとえばレコードプロデューサーとか、レコード会社のA&Rとか、そういうのだったら何とかやっていけるかなって。元々は理系で。どっちかって言ったら、そっちの方が志望で。中学に入った頃はそうだったんですけど。で、高校に入ったらぐちゃぐちゃになっちゃって。で、音楽だけは好きだったんだけど。だからまあ音楽出版社とかね、レコード会社とかに行ければな、みたいな。

(上柳昌彦)有名な話ですけど。大学も法学部を選んでますからね。

(山下達郎)そうです。すぐにやめちゃいましたけど(笑)。

(上柳昌彦)ほとんど行ってないらしいですけども。30代から40代……50代ぐらいの自分には何か、言ってあげたいことはあります?

(山下達郎)50代は……40代から50代がね、いろいろありまして。思うように作品が作れないのと、あとは思うようにライブができないっていう。

(上柳昌彦)間隔が空きましたよね。あの頃は。

(山下達郎)で、あの頃は基本的にはやっぱりレコードの主なので。レコードを出せないと、ライブができないんですよ。今はレコードがなくても毎年、ツアーをやりますけど。昔はもうレコードの新譜が出て、それのプロモーションっていう意味で全国ツアーというものが位置づけられていたので。レコードが出ないとツアーもできなくなって、どんどんどんどん悪循環になっていくんですね。

だから「空白の10年」みたいなのが僕にあって。特に90年代なんですけど。それをだから、どうやって克服しようかと思って、いろいろバタバタ始めて50代を迎えて。ようやく、そうやってツアーが再開できたというか。そういうあれなんですよ。だから40代がやっぱり一番つらかったですね。

(上柳昌彦)ああ、なるほど、なるほど。僕、50代の自分に言ってやりたいことがあるんですけど。50の時に竹内まりやさんが『Denim』というアルバムを出されまして。『人生の扉』が入っているんですよ。で、ゲストに来ていただいて。「いや、僕もいよいよ50になるんですよ」っつったら、「上柳さんね、50の扉を開けるとね、そこでもう素晴らしい世界が待ってるわよ」って言っていただいて。「そうなのか!」と思ったら、人生の中でかなり最低の方の……番組潰しまくるみたいな、えらい10年になっちゃってね。もうあの時の自分には「ちょっと開けてもね、結構苦労するよ」っていう風に(笑)。

(山下達郎)時代的な問題もありますよね。あそこのやっぱりバブルがはじけて、その先のね。

(上柳昌彦)そう! もう、まさにそうです。

(山下達郎)だからその男の仕事と、女性のそのスタンスと、違いますよ。それは。

(上柳昌彦)経費削減の波に揉まれましてね。

レコード会社の経営の変化

(山下達郎)でしょう? だからレコード会社ひとつ取ってみても、それまではやっぱりなんというか、レコード会社ってすごくいい加減な会社で。それこそ、数打ちゃ当たるで。3年ぐらい先行投資して。10個あってそのうちのひとつが当たれば全部の元が取れるみたいな、そういうのだったのがやっぱり、世界的な傾向で。レコード会社の社長さんも、そういう「当たりゃいいんだ」っていうのから、だんだんと弁護士出身の社長みたいなことになってきて。CEOっていう。

(上柳昌彦)なるほどね!

(山下達郎)それまでは、レコード会社って事業計画なんてなかったんですよ。それが3ヶ月にいっぺん、要するにクォーターで決算を出せっていう。だってヒットするか、しないかってわかんないじゃないですか。

(上柳昌彦)わからないですね。

(山下達郎)それを要するにいきなり、一般経営者が……それはなんでか?っていうと、株主の顔を見るようになって。だから、どこも同じ問題なんですけど。で、そうなると結局、何百万売れるものと、全然売れないのがはっきり分かれるでrしょう? そうすると、僕なんかのスタンスだと「作品を出さないやつは出ていけ。今年は何を出すんだ? 来年は何を出すんだ? 前年比で百何十%、行け」みたいな。

(上柳昌彦)経営者目線になってくる。経費を削減した人の方が偉くなるみたいな世の中がちょっとあったりなんかいたしましたが……。

<書き起こしおわり>

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