町山智浩さんが2022年6月21日放送のTBSラジオ『たまむすび』の中で『スープとイデオロギー』について話していました。
(町山智浩)今日は『スープとイデオロギー』という映画を紹介します。これ、もう既に公開中なんですけれども。この「スープ」っていうのは参鶏湯ってわかりますか?
(赤江珠緒)はい、わかります。鶏肉が丸ごと入ってるようなね。
(町山智浩)そうそう。丸のまま鶏を煮込んでね。ホロホロになるまでね、骨までね。
(赤江珠緒)ちょっと白濁したスープで。
(町山智浩)そうそう。ニンニクと朝鮮人参を入れて。まあ、薬膳ですよね。で、そのことなんですね。この映画のタイトルの『スープとイデオロギー』のスープは。これ、監督はですね、ヤン・ヨンヒさんという1964年生まれの女性で。大阪の生野区という昔から在日の人たちがいっぱい住んでるところですね。そこで生まれ育った人で、朝鮮籍なんですね。そのご両親が。
で、これ「イデオロギー」というタイトルがついてるんですけど、イデオロギーというのは「韓国を選ぶか、北朝鮮を選ぶか」というそのイデオロギーのことなんですよ。というのは、日本に住んでいる人のほとんど、全て9割以上の在日コリアンの人は実はみんな、韓国にルーツがあるんです。韓国から来た人たちか、韓国から来た人たちの子孫なんですね。でも、北朝鮮籍の人もいるじゃないですか。朝鮮籍の人って。それは実は北朝鮮には親戚もいなければ、故郷でもないし、何の関係もないんですよ。
(赤江珠緒)えっ?
(町山智浩)元々は何の関係もないんですよ。ただ、北朝鮮籍を選んだんですね。思想的な理由、イデオロギーで。だから、血筋とかそういったこととは何の関係もなく、完全にイデオロギーで選んだ祖国が北朝鮮なんですよ。あれ、祖国じゃないんですよ。何の縁もゆかりもない国なんです。それで、『スープとイデオロギー』っていうタイトルなんですね。この映画は。で、この監督のヤン・ヨンヒさんのお母さんも済州島(チェジュ島)っていうところから来た人で。済州島っていうのは韓国の一番南の端にある島なんですね。一番南のあたたかいところで生まれたのに、北朝鮮籍にしているんですよ。で、北朝鮮には誰も知り合いとか親戚とか、いないんですよ。
(赤江珠緒)ああ、そうなんですね。ルーツがあるとかじゃないんですね。
(町山智浩)全然関係ないんです。日本にいる在日の人で、朝鮮籍の人は全く何の血縁もないんです。北朝鮮とは。それは完全に思想的な選択なんですよ。だからイデオロギーというタイトルになっているんですけどね。はい。で、1945年に日本が戦争で負けて、そして日本にずっと併合されて日本の一部だった朝鮮半島がすぐに独立したかっていうと、独立しないで。
上の北半分をソ連が占領して、南半分をアメリカが統治したんですね。で、その南と北、それぞれが北の方がいわゆる朝鮮人民共和国の北朝鮮ですね。で、南の方が大韓民国として建国を宣言しちゃったんですよ。1948年に。で、その時に日本の人たちはその前に……日本にいた在日の人たちはみんな日本国籍で。出身地が朝鮮という形になっていたんですね。朝鮮籍なんですよ。でも、朝鮮っていう国はその段階でなくなっちゃうんですよ。
(赤江珠緒)ああ、そうですね。
(町山智浩)北朝鮮……朝鮮人民共和国っていうのは新しくできた国なんで。それで、韓国に自分の戸籍を移して韓国籍にするっていうことを選ばなかった人たちが、そのまま朝鮮籍のまま北朝鮮籍になっていったっていうのが経緯なんですね。だから、彼らは血の繋がりがないのに北朝鮮国籍になっちゃったんですね。ということなんですね。で、このヤン・ヨンヒさんのお父さんとお母さんは日本の北朝鮮の移民の人たちの団体、朝鮮総連の活動家としてずっと生きてきた人で。それについての映画も何本も今まで撮っていて。
で、ドラマも撮ってるんですね。『かぞくのくに』という映画があって。それはヤン・ヨンヒさん自身を演じてるのは安藤サクラさん、で、そのお兄さんを井浦新さんが演じてるんですけど。お兄さんは北朝鮮に住んでるんですよ。北朝鮮、関係ないのに北朝鮮に。それはどうしてかというと「帰国事業」というものがありまして。これ、聞いたことあるかなと思うんですけども。
(赤江珠緒)はい。日本からかなり帰国事業で北に渡られた方、いましたもんね?
在日朝鮮人の帰還事業
(町山智浩)そうなんです。1959年から1984年まで、北朝鮮にその在日の朝鮮籍の人たちを送るという事業があって。それを朝鮮総連だけじゃなくて、日本の自民党も社会党も、みんなでそれに協力したんですよ。
(赤江珠緒)そうですよね。結構、国を挙げて船をみんなで送り出すみたいなね。
(町山智浩)そうなんです。小泉元総理大臣のお父さんもこれ、やってたんですよね。それはどうしてかっていうと、はっきり言って日本政府にとっては厄介払いだったんです。その頃の朝鮮籍の人たちはすごく貧しくて、貧困層だったので、棄民という形でね。「北朝鮮に送ってしまえ」っていうことでやってたんですね。で、帰国事業っていう名前なのに、全然関係ない国なんですよ? 親戚も誰もいないんですよ? これ、「帰国」ではないんですよね。これは、はっきり言って大変なことになって。日本で生まれ育った人たちが北朝鮮に送られたんですけど。10万人近く、送られたのかな?
(赤江珠緒)しかも、そっちに渡ることがかなりパラダイスみたいなね、そういう宣伝も当時はあったっていうことでね。
(町山智浩)すごい宣伝をして。「北朝鮮は人民のパラダイスで、貧しい人もいない。共産主義だから貧富の差もない、素晴らしい国なんだ。それに比べて韓国の方は軍事独裁政権の右翼なんだ」っていうような、なんというか、プロパガンダが行われて。それは日本のマスコミも一緒にそれに乗っかって、散々やったんで。それで騙されて、10万人近くの日本で生まれ育ったような人たちが、行ったこともないし、縁もゆかりもない北朝鮮に渡ったんですよ。で、行ったら全部嘘で。
(赤江珠緒)『キューポラのある街』でも描かれている感じですよね?
(町山智浩)そうそうそう。あれでね、北朝鮮に帰るという……よく見てますね。あれは素晴らしい映画ですよ。それで行ったら、はっきり言って飢餓地獄でしたよ。食べるものもない。着るものもない。それだけじゃなくて、日本で生まれたってことで裏切り者、スパイ扱いされて強制収容所に送られたり、処刑されたり。まあ、地獄が待ってたんですね。で、行った人たちは、大変なことになっているけれども、それを手紙に書くこともできない。手紙も全部北朝鮮政府に検閲されるんで。だからただ「非常に困ってるんでお金を送ってほしい」みたいなことしか言えないんですね。
これは、はっきり言って人質なんですよ。で、日本に残ってるその家族が身代金としてものすごいお金を送り続けるんですね。北朝鮮に。それも全部届かないで、途中で中間搾取されていくんですけど。日本でその在日の人たちがね、焼肉屋さんをやったりパチンコ屋さんやったりして稼いだお金を北朝鮮にいる家族のね、食べ物を買うために送り続けたんですよ。はっきり言ってこれ、誘拐なんでね。国家を挙げた誘拐行為なんですけど。それでこのヤン・ヨンヒさんのお兄さん、3人いたんですけども。3人とも、この両親が北朝鮮に送っちゃったんですよ。
(赤江珠緒)ああ、なるほど……。
(町山智浩)優等生で朝鮮学校を出て。思想教育を受けて。「北朝鮮は素晴らしい国だ」って思って。親の方もそれを信じて行かせたら、もう「金よこせ、金よこせ……」っていうね。
(赤江珠緒)ご両親としても、その息子たちの未来のためにということで、送ったわけですよね。
(町山智浩)そうなんですよ。で、特にこの長男の人はクラシック音楽が好きで、音楽家になりたかったんだけど、そんなこと北朝鮮でできるはずがないんですね。で、若くして精神を病んで、死んでしまったんですね。で、このヤン・ヨンヒさんが自分をかわいがってくれた大好きなお兄さん3人を地獄に送られたから、両親を憎むんですよ。もうこれね、この映画『スープとイデオロギー』の最初の方でね、お母さんを責めるところがあるんですよ。もうお父さんはいなくなっちゃってるんで、お母さんしかいないんですね。
「なんでお兄ちゃんを送ったんだ? お金を送り続けて……お母さんは、今まで働いたお金を全部、北朝鮮に取られてるでしょう? お兄さん殺されて……」って。で、お母さんは今、借金までしてるんですよ。もう何もかも失って、借金までしてお金を送って。「もうやめて!」って言うんですよ。でも、そう言われてもそのお母さんの方は自分が失敗したことを知ってるから、何も言えないんですよ。「だって、だって……」みたいな感じなんです。もう、すごい責めるんでね。
(赤江珠緒)それはつらいですね。
(町山智浩)そう。お母さんも信じちゃったんでね。
(赤江珠緒)今となって、結果がわかってる状況から見ると、「なんで送ったんだ?」っていう話になるけど。その当時の時代のね、生きてる人とはもう全く、見え方が違いますからね。
(町山智浩)知らなかったんですよね。プロパガンダに騙されて。
(赤江珠緒)そんな、自分のかわいい子供をわかっていて送ってるわけがないからね。
母を責める娘
(町山智浩)それで一番つらいのはお母さんですね。自分でを地獄に送ってしまったから。で、それをヤン・ヨンヒさんは責めるんですけども。ただ、このヤン・ヨンヒはそれで……自分は朝鮮学校とか出てるんですけど、全くそういう思想教育に洗脳されないで、自由な女性として育って。ニューヨークに行って映画監督になってるんですね。で、ドキュメンタリー映画を撮ってるんですけど、彼女が結婚することになるんですよ。12歳年下の男性と。ヤン・ヨンヒさんは1964年生まれなんですけどね。
で、この映画が2015年ぐらいの、結婚する男性を初めてお母さんに会わせるところあたりから始まっていくんですね。で、その時にお母さんが一生懸命作るのは、その参鶏湯なんですね。で、ヤン・ヨンヒさんと結婚をするのは日本人の男性なんで。まあ、おふくろの味っていうことで食べさせてあげるんですよ。で、本当にね、美味しいですよね。参鶏湯はね。で、なんていうか、文化が違うんだけれども、まず食べ物でね、うちとけていくんですけども。
で、この娘がね、50過ぎて花嫁衣装を着るんですよね。朝鮮のお姫様の格好をするんですね。で、一緒に写真を撮って、お母さんは幸せそうなんですよ。娘しか残ってないけれどもね。「こうやって花嫁衣装を着せることができて、よかった」って感じで、もう本当に嬉しそうにしてるんですけども。それで新しくできた義理の息子もいい子でね。その参鶏湯の作り方を一生懸命覚えて、自分で作ってくれたりするんですよ。彼がね。で、いい感じなのかなという風に思ってると、そこに韓国の済州島。お母さんの故郷から調査隊が来るんですよ。で、聞き取りをするんですね。インタビューを。
それはなぜかっていうと、済州島虐殺事件というものがあって。ずっと韓国で軍事独裁政権だった頃にはその事件はなかったことにされたんですけど、それを正式に歴史的な事実として検証するということが始まっていて。進んでいて。その目撃者として、このお母さんにインタビューを取りに韓国から人が来るんですね。というのはこのお母さんは1945年に大阪って大空襲を受けて、焼け野原になっちゃうんですけど。で、住むとこなくなっちゃったんで。このお母さんは大阪で生まれてるんです。ところが、住むところなくなっちゃったんで。全部焼けちゃったんで。それで済州島に避難するんですね。疎開をするんですよ。親戚がいるからね。
そしたら、そこで日本が負けて。それでずっとそこに住むつもりになってたんですね。済州島に結局ね。それで、彼女には婚約者もいて。18歳になって。ところが1948年に当時、済州島には社会主義の人たちが多くて。で、韓国がそのアメリカの下で資本主義国として建国するってことに対して、彼らは反発したんですね。で、社会主義の人たちは「徹底して戦うぞ!」という風に言ってたんで、そこに対して警察と軍隊を韓国政府が送り込んで、それをアメリカが黙認してですね、虐殺が始まったんですよ。
(赤江珠緒)ええっ?
(町山智浩)最初は運動してる人たちだけを殺していたんですけども、そのうちにもう関係ない人まで全部殺すようになっちゃって。女の人とか、子供とかまで殺しちゃって。で、それを18歳のヤン・ヨンヒさんのお母さんは目撃しちゃうんですよ。目の前でおじさんとかが射殺されて、頭を吹き飛ばされるのを見てるんですね。で、それを話を聞きに来たんで、話し始めるんですね。で、ずっとヤン・ヨンヒさんは母親に「なぜ韓国で生まれたのに韓国籍にしないで朝鮮籍を選んで。それで北朝鮮に息子を送ったりしてバカなことしたんだ?」ってずっと責めてたんだけど、はっと気づくんですよ。それはお母さんが韓国政府による虐殺を体験してたからなんですよ。それで韓国政府を信じられなくなっちゃった。
(赤江珠緒)そういうことか……。
済州島虐殺事件を目撃
(町山智浩)それがわかるんですけど、このインタビューが来るまでお母さんは自分が見た虐殺を娘にもほとんど語ったことがなかった。あまりにもひどかったから。彼女はそこから脱出したんですが。ところが、そこで記憶を掘り起こされちゃったんで、そのトラウマが蘇ってきて、お母さんは壊れ始めちゃうんですよ。
(赤江珠緒)ええっ?
(町山智浩)それで、急激に認知症が進むんですね。で、韓国政府から「被害者を全部集めて慰霊祭を行う」っていうことで、彼女は済州島に招待されて、70年ぶりに故郷の地を踏むんですけど。でも、もう何がなんだかわかんなくなっちゃうんですよ。その時には。それが故郷かどうかも。で、ヤン・ヨンヒさんは「お母さんを責めて申し訳なかった。北朝鮮なんかを信じたお母さんはずっと責めたけれども、その理由がわかった。仕方がなかったんだ」って言うんですけど、お母さんの方は完全な認知症の中にはまって。
その虐待で殺されたおじさんとか、北朝鮮に送って死んだ長男とかが全部、生きていて。それで自分の周りにいてくれてるっていう世界の中に入っていっちゃうんですよ。で、「お兄ちゃん、どうした?」とか言うんですよ。そうすると、ヤン・ヨンヒさんは絶対にそれを否定できないから。「ああ、今、ちょっと出かけてる」って言うんですよ。という話なんですね、これは。
(赤江珠緒)そうかー……。お母様のこの人生が、つらすぎますね。それはね。
(町山智浩)そう。やっぱりずっとね、「自分の息子を死なせてしまった。北朝鮮に送ってしまった」っていう罪悪感の中で生きてきたんだけど。最後に息子たちが自分の周りにいるっていう幻想の中に行ったんで、ある種、救われたんだなと思うんですよね。そうじゃなかったら、そのまま死ぬのはつらすぎますよ。で、『スープとイデオロギー』のイデオロギーっていうのは本当にくだらないもので。それでもう、ものすごい人たちが死んでいったわけですけども。でも、こういうスープって滋養に満ちていて。
この「滋」っていうのは「大事に育てる」っていう意味なんですよね。このスープにその母の愛がこもっていて。で、記憶も失われて。お母さんは自分の愛する息子や旦那さん、死んでしまった人たちに囲まれて、幸せな心の中で今は生きてるんですけれども。そのスープだけはね、またこのヤン・ヨンヒさんの日本人の旦那さんとかに引き継がれていくんで。そっちの方が遥かに強いってことですよね。イデオロギーなんかよりね。
(赤江珠緒)そういうことか。うーん。国家の思惑にね、翻弄されてしまっていう……。
(町山智浩)翻弄された女性ですよね。本当にね。人生をめちゃくちゃにされてね。という、すごい映画で。これはドキュメンタリーですけど。今年のベスト級の映画ですよね。
(赤江珠緒)タイトル自体にものすごい意味が込められている映画なんですね。『スープとイデオロギー』は渋谷ユーロスペース、ポレポレ東中野他、全国順次公開中です。
(町山智浩)まあね。ウクライナとかで今も進行してますけどね。こういったことがね。昔のことではなくてね。
(赤江珠緒)ねえ。美味しいと思うのは、みんな同じなのに……ですよね。
(町山智浩)そうなんです。はい。
(赤江珠緒)町山さん、ありがとうございました。
(町山智浩)どうもでした。
映画『スープとイデオロギー』予告編
<書き起こしおわり>