古川耕さんがblock.fm『INSIDE OUT』に出演。渡辺志保さん、DJ YANATAKEさんとヒップホップ専門誌FRONT・blast編集部に入り、編集者からライターになった話などをしていました。
(渡辺志保)というわけで今日のゲストをここでお迎えしたいと思います。今日のゲストは古川耕さん、お招きしております!
(古川耕)はい、どうも、こんばんは!
(DJ YANATAKE)よいしょー! いらっしゃーい!(拍手)。
(古川耕)ああ、こんな感じなんですね(笑)。どうも、放送作家の古川です。
(渡辺志保)みなさんね、「あれ? いまからアトロクが始まるのかな?」みたいな感じでね。「何しに来たんですか?」みたいなね(笑)。
(古川耕)お招きいただいてありがとうございます。
(渡辺志保)とんでもないです。
(古川耕)めっちゃ緊張するわー。
(DJ YANATAKE)まさか来ていただけるとは。
(古川耕)いやいや、こちらこそ。
(渡辺志保)私はもちろんのこと、ヤナタケさんも、まあお邪魔することが多いんですね。
(DJ YANATAKE)そうなんだよ。もう何年も何年も……。
(古川耕)いつもお世話になっております。本当にお世話になっております。
(渡辺志保)とんでもない。TBSラジオの方にお邪魔することが多いので。まあちょっとこの機会に古川さんのお話をね、聞いてみたいになって。
(古川耕)ああ、ありがとうございます。すいませんね、本当にお招きいただいて。
(渡辺志保)いやいや、全ラジオリスナーがね。
(DJ YANATAKE)一応さ、簡単に……のひょっとしたらね、『INSIDE OUT』リスナーで古川さんはどんな方なんだろう?っていう風に疑問を持たれてる方も1名ぐらいはいらっしゃるかもしれない。なので、その方のために簡単なご説明をね。
(渡辺志保)そうですね。ちょっと軽く自己紹介をお願いしたいなっていう風に思ったんですけれども。
(古川耕)じゃあ『INSIDE OUT』をお聞きのみなさまに……っていうことですよね。先ほどから名前が何度も出てますけども。赤坂にあるTBSラジオというところで主にライムスター宇多丸さんがやってる番組。去年からは『アフター6ジャンクション』。その前までは『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』という番組の放送作家をしていたりとか。あとは今日、志保さんの話にも出てきましたけども。ジェーン・スーさんの『生活は踊る』という番組なんかでも放送作家をしていたりという。で、その中でヤナタケさんだったり志保さんにも何度も何度もご協力いただいていて……というので今日はお呼ばれしてきたということですね。
(渡辺志保)いやー、非常に恐れ入りますという感じです。
(DJ YANATAKE)アトロクリスナーも来てるぞ!っていう。
(渡辺志保)生活は踊るリスナーも来てるぞ!っていうね。
(古川耕)いやー、すいません。本当にありがとうございます。本当にね。
(渡辺志保)でも最初、そもそもの話なんですけど。私、古川耕さんはラジオの方ではなくて、ブラスト公論の方として……。
(古川耕)これはまた説明が必要なタームが出てきましたね。
(渡辺志保)ブラスト公論の方としての認知だったんですよね。というのも、いまもう平成生まれの方はご存知ないかもしれないですけども。
(古川耕)知る必要がないかもしれませんね、もうね(笑)。
ブラストとは……
(渡辺志保)昔、昔、ブラストというポップ専門雑誌が……元々はクロスビートというの音楽雑誌の別冊という形で発刊されたと思うんですけれども。ブラストいうヒップホップ専門雑誌で古川耕さんがそこでライターとしても活動されてらっしゃった。その中の人気連載枠のひとつに、すごくいろんな連載をやってらっしゃったじゃないですか。小林雅明さんのすごいコアなものから、そしてもう本当にいまの宇多丸さんの原型になるかもしれないですけども。マブ論とか……。
(古川耕)マブ論はBUBKAという雑誌でやっていまして、B-BOYイズムという、本当にいまのラジオに直結するような、いろんな話題をヒップホップ専門誌で扱っていたという。
(渡辺志保)で、もう本当に多岐に渡る連載記事があって。その中でブラスト公論というのが……。
(古川耕)はい。「誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」っていう副題がついて単行本化されたんですけども。連載時はただ単に「ブラスト公論」というという名前で宇多丸さんとか私とか、あとはこの番組にも出たことがあったかな? 音楽ジャーナリストの高橋芳朗さんとか。で、まあ5人ぐらいメンバーで毎月毎月しゃべり倒すみたいなのが連載していたという。
(渡辺志保)そうなんですよ。それがしかもすごい密度の濃い内容というか。「こんなことが誌面で行われてていいのか?」っていう。で、1回、最初の書籍化があったじゃないですか。で、つい最近、また単行本化されて。
(古川耕)そうですね。文庫になったんですけども。(分厚くて)なんか正方形でしたね。文庫が、ほぼ。
(渡辺志保)聖書かな?って思うぐらいの分厚さで(笑)。
(古川耕)まあ、ある種のバイブルとなって……めちゃくちゃ分厚い。まあ、要はすごい文字量が多い連載を一気にまとめたので、なんかめちゃくちゃな分厚さになっちゃって申し訳ございませんっていう。
(渡辺志保)いやいや、私はその「ブラスト公論の古川さんだ」っていう風に思っていたんですけど。その、そもそもヒップホップライターとかヒップホップのメディアに携わるようになったきっかけっていうのは何だったんですか?
(古川耕)ええと、ブラストっていう雑誌の名前で言われましたけど、ブラストって最初は志保さんがおっしゃられた通り、クロスビートっていう総合ロック雑誌みたいなものの別冊で出たんですけども。それが当時は「フロント(FRONT)」っていう名前だったんですよね。で、後にそのフロントっていうのはちょっと登録商標的なナニでマズいっていうことになって「ブラスト(blast)」に変わるんですけども。で、僕はヒップホップを聞くようになって、それが高校を卒業するぐらいなんですよ。遅いんですけども。で、聞くようになって、ヒップホップのライター。文章を書くような仕事とか雑誌に関わるような仕事がしたいなと思った時に、ちょうどそのフロントっていう雑誌の一号が出たんですね。
(渡辺志保)ああ、そうだったんですね。はい。
(古川耕)で、僕のそのライターとかのパイセンからですね、「そういう創刊したての雑誌っていうのはかならず人が足りてないとか、あるいは新しい書き手さんとかを絶対に自分たちで育てたいと思ってるから、隙間があるよ」っていう風に聞いていたので。
(渡辺志保)ああ、すごい的確なアドバイス!
(古川耕)なので、いきなり電話をして。それで「ライターとして」というよりは、最初は「編集の仕事ができるので、アルバイトでも何でもいいから、ちょっと手伝わせてくれませんか?」っていう風に連絡したら、「じゃあ1回、会いましょう」っていうことで編集部の方とお会いして。だから最初は僕ね、「編集のお手伝い」という形で机を用意してもらって。そこにこう、当時はまだ隔月刊だったのかな? そこに通って、どっちかというと編集者として、原稿をお願いしたりとかする形で入り込んだのが最初。
(DJ YANATAKE)ああ、全然知らなかった!(笑)。
編集部に電話して編集者として入る
(渡辺志保)その時ってまだその編集者としてのキャリアとかライターとしてのキャリアっていうのは全くなかった?
(古川耕)ええと、あるのはあったんです。僕、高校卒業のちょっと前ぐらいからヒップホップを聞くようになったわけですけど、ライターとしては僕、高校生から始めてはいたので。
(渡辺志保)えっ、すごい。それは、たとえばいまだったらブログを書いたりとか、いろんなアウトプットのメディアがありますけど。当時はどういうところからライターを?
(古川耕)雑誌を読んでいて、好きな雑誌があったんです。これね、いまはとっくになくなっちゃってるんですけど。月刊OUTっていう雑誌があって。そこで僕、「ライターとかになりたいな」って中学生ぐらいの頃から思い始めて。で、そこでなんか「ライターの見習いみたいなのをやってみませんか?っていう募集があって。そこに応募して。別に仕事じゃないんですけど、月に1回ぐらい喫茶店に集まって、その先輩のライターさんとか漫画家さんたちとおしゃべりをするっていうのが高校1年生ぐらいの時で。
(渡辺志保)えっ、すごい高校生じゃないですか。
(古川耕)仕事はまだしてないんですけどね。で、話をしてるうちに、なんか「この仕事をしてみない? あの仕事をしてみない?」っていうことになって、OUTとかOUTの周辺で仕事してる人たちからお仕事をちょっとずつもらうようになって。
(渡辺志保)そうだったんですか! じゃあ、かなりキャリアとしては早熟っていうか。
(古川耕)そうですね。結果的にそうなったと思います。ライターとしてのキャリアはね。
(渡辺志保)それでじゃあ、フロント改めブラストの編集部に入られたという。
(古川耕)そうです。それでまあ、言ってしまうとそのヒップホップっていうものを好きになって。それで雑誌を読むようになるじゃないですか。当時はまだブラック・ミュージック・リヴュー(bmr)っていう雑誌があって。それでこう、いろんな人のアルバムレビューなんかを読んでいると、その中で「佐々木士郎」っていう人がすげえいい文章を書いてるなって思っていて。「俺はこの人の文章がいちばんすごいと思う」って読んでいたんですよ。
(渡辺志保)すごい!
(古川耕)そしたら、「どうやらこの人はラップをやっているらしい」っていう。
(DJ YANATAKE)ああ、そっち。佐々木士郎が先なんだ。
(古川耕)そしたらちょうど読み始めた号だか、その次の号だかで、ちょうどライムスターのファーストアルバム『俺に言わせりゃ』が出たっていう。
(DJ YANATAKE)ああーっ! じゃあ、相当前ですね。
(古川耕)それで「ああ、この人はラップもしてるんだ」っていう風になって。それで「この人みたいな文章を自分も書きたいし、この人とも一緒に仕事してみたいな」という風に思っていたら、フロントが出ました。それでフロント1号っていう創刊号がバンと出た時、もうそこで佐々木士郎が大活躍しているわけですよね。
ライター・佐々木士郎(宇多丸)が大活躍
(渡辺志保)だって士郎さん、当時は通訳みたいな、翻訳みたいな……なんか本当にいろんなことを……。
(古川耕)もうね、インタビューも結構バリバリやっていたし、レビューも……。
宇多丸・高橋芳朗 1990年代のラップ・ヒップホップの爆発を語る https://t.co/kR7BOOJd83
(宇多丸)2パックのインタビューしたことがあって。普通こんな日本人のガキのなんか真面目に受けてくれない中、「なにを聞きたいんだい?」ってまっすぐ目を見て、僕と話をしてくれたのが2パックで。— みやーんZZ (@miyearnzz) June 16, 2018
(DJ YANATAKE)ビースティ・ボーイズが表紙のやつかな?
(古川耕)そうそうそう。
(渡辺志保)その次がスチャダラパーとかでしたっけ?
(古川耕)いや、日本のアーティストはずいぶんと後になってからです。
(DJ YANATAKE)ブラストとかはそうだけど、フロントの頃はね。
もうすっかり紙のどころか雑誌自体を買わなくなって久しいけど、毎月購入&半分以上は中古のバックナンバーとしてコンプリートしたFRONT 〜 blast。
延べ14年分はこう見るとなかなかの重量。
FRONTの2号がなかなか見つからなくて、梶が谷のブックオフで見つけたんだったかな?#シンコーミュージック pic.twitter.com/505wQpxvAC— issei (@issuetc) April 28, 2019
(古川耕)フロントはね、ずっと海外アーティストだったのかな。それで自分も「このフロントっていう当時、創刊されたばっかりの雑誌は人手も足りていないだろうし、ここに行ったら佐々木士郎という人ともなんか仕事とかができるかもしれない」と思って行って。それでまんまとうまく行ったっていうことなんですけども(笑)。
(渡辺志保)すごい! そうなんですね。でも、なんて言うんでしょう? はじめてフロントの編集部に、まあ見習いという形かもしれないですけども、飛び込んで。「天職だな、向いているな」みたいな、そういう瞬間はすぐに訪れましたか?
(古川耕)いやいや、全然全然。1年間ぐらいは「ああ、これはもう俺はダメだろう」と思ってました。それはまあ、「お恥ずかしながら……」でもあるんですけども。英語が僕、全然わからないんですよ。だから海外のラップを聞いてても、歌詞カードとかを照らし合わせない限り、やっぱり何を言ってるかとか全然わかんなくて。
(DJ YANATAKE)まあいまみたいにね、Rap GeniusとかGoogle翻訳とかの時代じゃないもんね。
(古川耕)そう。そこで真面目に英会話のあれだったりとかをしたりしなかったので。全くわからなくて。で、当時は日本語のラップっていうのもまだリリース量も少なかったし。という時に、「いや、これはもうちょっと俺、どうにもならんな……」っていう風に、始めて1年とか1年半とかは思っていた気がします。
(渡辺志保)そうだったんですね。で、実際にじゃあ、その佐々木士郎さんとお会いしたのはどういうタイミングだったんですか?
(古川耕)会うのは、彼がもう当時、僕が編集部にそういう形でいて。それで連載を当時、もうフロントで士郎さんはしていたので。まあ原稿を持ってきたりするタイミングとかで見かけたりはしていたんですよ。
(渡辺志保)なるほど。そうか。当時って当たり前だけど原稿って手渡し。
(古川耕)ねえ。恐ろしい時代ですよね。フロッピーディスクを手渡ししに来るっていう(笑)。
(渡辺志保)おお、そうか。あとはファックスで……とかですよね。
(古川耕)そういう時代ですよね。
(渡辺志保)メールでパッと送るとかじゃないですからね。
(古川耕)それで、ZEEBRAさんが『THE RHYME ANIMAL』を出した時かなんか……。
(渡辺志保)へー。1998年?
(古川耕)そのぐらいですね。その時にZEEBRAさんの特集をフロントで……当時はもうブラストだったかもしれませんけども。そこで僕がね、たぶん800字程度の本当にちょっとした前文と言いますか……。
(渡辺志保)ああ、コラム的な?
(古川耕)そうですね。「ZEEBRAという人はこういうところが優れているんですよ」みたいなのを自分なりに考えて書いたんですよ。そしたらこれが、たとえばそうだな。いまも活躍されている荏開津広さんであるとか、宇多丸さんにもなんか「いいですね」みたいなことを言ってもらったのかな? それでなんか「ああ、日本のラップは当然歌詞も全部わかるし。自分なりの何か書き方ができるんじゃないか?」っていう風になって。そこからだんだん日本のラップについて言及することが増えていったという流れだと思います。
徐々に日本のラップを扱う量が増える
(渡辺志保)すごい! いや、いまでこそ本当に……私も本当、古川さんと同じような感じで中学生ぐらいから「ライターになりたい」と思って。で、かつその時にヒップホップとかR&Bとか聞き始めたので。「ああ、こういう職業があるんだ」と思って。それに向かってこう、「邁進」って言ったらすごく言葉だけが大きくなりますけど。なんとか、藁にもすがる思いで……という風にやってきて。
(古川耕)いや、とても参考にしてましたよ。「ヒップホップ・ホニャララ」は(笑)。
(渡辺志保)渡しの場合は、だからその最初のファーストステップが「自分でブログをやってみよう」っていうステップだったんですよね。で、たぶんいまの若い子たちも同じような感じだと思うし。あとはSNSでなにかを発信するとか、そういう時代だったと思うんですけれども。やっぱりね、それでご自身で電話をかけて、まず編集部に出向くっていうのはなかなかの行動力だなって思うんですよね。
(古川耕)でもね、当時ってそうですね。それしかやり方がなかったといえばなかったし。あとは、会ってしまった方が何かと早いっていうのもなんとなくは分かっていたので。それでやりましたね。だからいまも僕、同じ環境で。いま、この時代に10代だったら、たぶん本当にSNSやブログをやっていたと思いますけど。当時はたまたまそれもなかったので……っていうことはあったと思いますね。
(渡辺志保)時代がね。でも、本当にほぼ唯一と言っていいほどのヒップホップ専門雑誌で、かつbmrは基本的にはR&Bとか海外の作品、海外のヒップホップ作品とかを扱うことが多かったと思うんですよね。で、ブラストはまたちょっと違って。そのヒップホップを広く扱う。そして海外のものも国内のものも、そして非常にフレッシュなものも扱うっていう風な印象が非常に強いんですけど。そういうバランスの取り方の難しさとか、国内の作品を批評することの難しさとか。そういったものって当時、ありましたか?
(古川耕)そうですね。僕の関わり方から先に話をすると、まあ最初はフロントっていう雑誌で隔月刊で出てました。その時は僕はさっき言ったみたいに編集部の手伝いとして中にいて。それで「こんな記事をこんな按配でやろう」っていった意味で洋楽のアーティスト、邦楽のアーティスト。日本のアーティスト、海外のアーティストをどう決めるか、みたいなのをやってたんですけど。しばらくしてから、そのフロントがブラストっていう名前になって、月刊化されて定期的に出るよってなった時に、僕は編集部を離れてライターとして今度は関わるようになったんですね。
(渡辺志保)なるほど。
(古川耕)そうすると、なかなかその中の配分とかを決める立場では僕はなくなったんですけど。ただもちろん、外側から親しいものとして意見を言うようにはなった。で、当然やっぱり日本のヒップホップっていうものをちゃんと扱わなきゃいけないし、取材もちゃんとしなきゃいけないしってなっていって。で、もちろん良くも悪くもアーティストと近いところがあるので、踏み込んだ話もできるし、特集もできる分、批評なんかでアーティストと軋轢を起こすっていうことも当然、あったはあったわけですよ。
(DJ YANATAKE)そうですよね。
(渡辺志保)そう。そのへんがやっぱり私もいまだにビビるところっていうか。自分の中でどうやって線を引けばいいか、ちょっと分からない時が正直申し上げてあります。
(DJ YANATAKE)まあちょっとわかりやすく言うとね、近いアーティストのことをなんていうか、悪く書いちゃうと、直接やられちゃうみたいな。時々……昔はいまよりももっとヒリヒリしていたかもね。
(渡辺志保)そうね。傷付いちゃう感じ。
アーティストとの距離感の難しさ
(DJ YANATAKE)でも、アメリカでも実際にあったからさ。ソースマガジンの批評に対して、事務所に乗り込まれちゃうとかさ。そういう……でもそんだけ、みんな一生懸命やっていたっていうことだからね。
(古川耕)しかも、いろんなプラットフォームがある中で……っていうならともかく、当時は結構そのフロント・ブラストっていうのは。
(渡辺志保)そこに載るかどうかでもうね、たぶんアーティストとしての将来性も決まっちゃうみたいなね、そういうところがあったと思うんですよね。
(古川耕)だからまあね、「悪くけなすぐらいだったら書かない。その仕事、断ればいいじゃん」っていうスタンスももちろんあっただろうし。でもある程度、自分の責任の中で言いたいことは言った方がいいというスタンスの人もいるし。それは、何だろうな。たぶん編集部でも明確な1本のラインがあったわけではないと思いますね。アーティストの規模だったりとか、そのライターさんとアーティストの関係性だったりとか。いろんなものを含めてその都度その都度ジャッジしていたんじゃないでしょうかね。
(渡辺志保)そうですよね。しかも本当にいいなって思うのは、私が商業的にライターとして書き始めた頃はすでにもうブラストは休刊して。bmrはまだあって。私も寄稿させていただいてたんですけれども。「ブラストに書く」ということは夢がかなわず休刊になってしまったんですが。でもすごくいいなって……いまになって余計にいいなって思うのは、そのヒップホップというフィールドの中で、いろんなカラーのライターさんがいる。いろんな視点を持ったライターの先輩たちがいるっていうのがやっぱりすごい健全なようにも。特にいま、すごく思いますね。
(古川耕)ああー、そうですよね。
(渡辺志保)その分、もちろん大変なこともたくさんおありだったのかなとは思うんですけど。
(古川耕)なんかでも、雑誌ってやっぱりその扱う対象もそうですけど、書き手がいかに多岐に渡っているかとか、いろんな角度があるような視点で語れるかっていうのがキモだったと思うし。それが当時のブラストとかフロントには集まっていたとも思うし。それにあとは編集部にはそれこそ高橋芳朗なんかがね、編集者として上手く使いこなしていたっていうところもあるとは思いますね。
(DJ YANATAKE)だからフロントに携わってた人たちがいま、TBSラジオにどんどん潜り込んでいて……(笑)。
(古川耕)残党どもがね(笑)。
(DJ YANATAKE)でも、そこでやってたことが実は、やっぱりそういうメジャーに落としどころがあったっていうね。
(古川耕)そうですね。
(渡辺志保)そこにつながる道ができてたっていうところがね。
(DJ YANATAKE)ちょっとね、ライターとしてはお話も聞きたいんですけど、ラジオ編の話もいっぱい聞きたいのでね。
<書き起こしおわり>