荻上チキ 新潮45休刊を語る

荻上チキ 新潮45休刊を語る 荻上チキSession22

荻上チキさんがTBSラジオ『Session-22』の中で性的マイノリティーへの差別表現によって批判を浴びていた雑誌・新潮45の休刊が発表された件について話していました。

(南部広美)「部数低迷で編集上の無理が生じた」。新潮45、休刊へ。性的マイノリティーへの差別表現で批判を受けていた月刊誌新潮45について新潮社は今日、休刊を決めたと発表しました。新潮社は公式サイトに「休刊のお知らせ」と題した文章を掲載し、ここ数年、部数が低迷していたことに触れ、試行錯誤の過程で編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたと説明。その結果、偏見と認識不足に満ちた表現を掲載してしまったとして謝罪しています。新潮45は今年8月号に「LGBTには生産性がない」などとする自民党・杉田水脈衆議院議員の文章を掲載して批判を浴び、さらに10月号で杉田議員の主張を擁護する特集を組んで批判が殺到する事態になっていました。

(荻上チキ)さて、新潮45が休刊へということなんですけども、この新潮45からリリースが、Webサイトを通じて公表されておりますのでそのリリースを南部さん、紹介していただけますか?

(南部広美)読み上げますね。新潮45休刊のお知らせ。弊社発行の新潮45は1985年の創刊以来、手記・日記・伝記などのノンフィクションや多様なオピニオンを掲載する総合月刊誌として言論活動を続けてまいりました。しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません。その結果、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現を掲載してしまいました。

このような事態を招いたことについて、お詫びいたします。会社として十分な編集体制を整備しないまま、新潮45の刊行を続けてきたことに対して深い反省の思いを込めて、この度休刊を決断しました。これまでご支援、ご協力いただいた読者や関係者の方々には感謝の気持ちと申し訳ないという思いしかありません。今後は社内の編集体制を今一度見直し、信頼に値する出版活動をしていく所存です。2018年9月25日 株式会社新潮社。

(荻上チキ)はい。具体的な差別的表現を含めた文章が雑誌に掲載されたことを受けて、自民党や新潮社に対する批判というものが大きく盛り上がっていたわけですね。そのことを受けての様々なリアクションがあったわけですけれども、そのリアクションのひとつの最新のものが今回の休刊のお知らせということになるわけです。新潮社に対しては個人的なポジティブな提案としては、是非ともいろんな書き方がね、新潮社には縁があって。その社内の内部に一流の編集者の方が揃っている状況もあるので、なぜ新潮45はこのような道を歩んだのか?っていうルポルタージュを書けるところにあると思うんですね。

(南部広美)うんうん。

(荻上チキ)それは「炎上商法」と言われるかもしれないが、むしろそのひとつの「理性による検証」と言いますか、歴史に残していくための重要な資料にもなりうると思うので、そこに対しては是非とも批判的なスタンスを取っている人にこそ、手をあげてもらったり、参加してもらったりする形で。あるいは「社内のヒアリングなどに応じますから、そのあたりの資料も提供しますから是非」というような形で今回の休刊から学べる事っていうものをいろいろと書いてほしいなという風に思うんですね。で、休刊こそがひとつのゴールだという風にはあまり思わないんですけれども。それはあくまでその社内のひとつの判断ということになるわけです。

なのでその判断に対して、とやかく言うっていうことは僕の立場からするところでもないんですけども。今回、休刊をしたっていうことについて「新潮社の方がむしろ被害者で、今回のそもそもの文章を批判していた人たちが加害者だ」という風に言わんばかりの反応というのも一部であるんですね。つまり、「批判をすることによって言論弾圧を行った」とか「”政治的正しさ”なるもの振りかざしていくことによって異論を許さないような形になっていった」みたいな形で相対化したり一般化することで「新潮45の休刊に追い込んだリベラル勢、許すまじ!」みたいな。そういう形で盛り上がってる人たちというものも一部、いたりするわけですね。

(南部広美)うーん……。

(荻上チキ)で、この議論のそもそものおかしさというのはいろいろとあるんですけれども、まず前提として表現の自由っていうものは「表現をしない自由」も含むんですね。何か応答する自由もあれば、応答しない自由もあるし、これについて何か述べる自由もあれば、述べない自由もある。それを決めるのは自分たちであるっていう状況が確保されいてることが重要なことなんです。で、新潮社は総合的な判断で自ら「表現をしない」という自由を選んだ。つまり、「休刊する」ということを採用したわけですね。そのことによっていろいろなメリット・デメリットを考えたでしょう。つまり、この雑誌を継続することによってたとえば他の作家や書店からこの新潮45だけではなくて、「新潮社の本を売りません」っていう書店も出てきているし、「新潮社には書けません」っていう書き手も出てきている。

そうしたようなことから、「とりあえず45に関しては休刊しておいた方が得」だというようなひとつ、表現に対する打算性というのもあったということは想像できるわけですね。これが想像なのか現実なのかどうかは是非とも、内部検証も含めてたルポを僕は期待したいところなんです。で、「言論弾圧」という言葉がよく頻繁に使われたりするんですけど、言論弾圧っていうのは基本的には公権力などが個人やメディアなどの機関に対して権力を行使して言論の自由というものの行使をさせないということになるわけですね。社会運動の抗議など受けて、それに対して謝罪という表現を選んだり、あるいは休刊という表現をしないというような選択を取ったりするということも、これはひとつ法治国家の中で、それぞれの主体が議論をしてコミュニケーションを重ねた結果として起こりうることなので。そうした抗議の声そのものが言論弾圧いう表現には、ただちには当たらないわけですね。

「言論弾圧」とは何か?

むしろ、今回「言論弾圧だ」と言っていた人も、たとえば「NHKを停波しろ」とか「朝日新聞を廃刊しろ」とか、そうしたことを口にするような運動体にシンパシーを感じているようなところもある人も参加していたりして。要はどの党派に所属するかで言論弾圧と決まるのか、抗議の声と決まるのかとか。そうしたもの考えていたら議論が歪んでしまうわけですね。どのような主体であったとしても「論考」という風に銘打って文章を掲載したらば、それに対して批判がくるようなこともある。それに対して応答する・しないも自由だし、その場から降りる・降りないも自由。ただ、こと「権力」という観点から考えてくると、そこに対し政治権力が関わってくることによって、大きな力に対して市民が逆らえないという状況を作ることは問題だから「これは言論に対する弾圧だ」というようなことで批判をされるわけですね。

言論と言論の応酬のことを「原論弾圧」とは言わないわけです。社会運動も言論のひとつですから、デモであるとか抗議っていうものも言論。なので、そうしたことに対して「弾圧だ」という評価をすることは、ただ自陣を守ってるだけということになってしまうので。言論の自由の幅広さというものを守るようなアクションとはまた違うわけですね。ただ、さらにここで問題が複雑になってくるのは、社会には公権力とはまた別に社会的なマイノリティーとされてるような人たちっていうのがいるわけです。そうした人たちは長い歴史の中で、声を上げることがとても難しかったというような歩みがある。そういうような人たちが声を上げるということに対して、その動きを多数派の力で抑圧しようというようなそうしたオピニオンが掲載されるということもあるわけですね。

で、それは程度問題によっていろいろと考えなくてはいけない。それが一定の、たとえば法の賛否であるとか、政策の賛否あるとか、いろいろなもので発露されることがあったりするわけですが、しかしそこに差別や偏見を含んだ事実誤認が含まれていれば、そうした事実誤認や差別やデマというものが拡散することまた表現の自由ということになるのか? 当然ながら表現するまでは自由だけれども、その表現に対して何か誤認があったり、何かの助長があったりすれば、それに対しては責任が伴うということになるわけですね。

つまり表現というのは無前提で何からも侵害されないようなものじゃなくて、表現をした段階で何かしらのレスポンスを受ける可能性はあるわけです。批判をされるということも可能性はあって。批判されない安全地帯からの自由というものは誰にもないわけですね。今回の新潮45には与党の政治家が性的マイノリティーに対する無知を晒すような文章というものを掲載して、さらにそれに対して複数の書き手による擁護の文章というものを次の号で特集した。で、これは単に特集をしただけではなくて、新潮45はその煽り文のようなところで「不当なバッシングが来た。そのバッシングというものは冷静さのかけらもなかった」という風に書かれているわけですね。

ということは、この「バッシング」っという風に名指されたものというのは「一連の騒動」という風に新潮45が位置づけていることになるので、新潮45編集部はたとえば私、荻上チキの発言も不当なバッシングであり、また冷静さのかけらもないような発言だったという風に言っているに等しいわけですね。「いやいや、あなたは違います」という風に言うんだったら、あの書き方はないでしょうね。だから僕も含まれているという風に見るべきです。で、僕がそういう風に言われたのであれば、「新潮45、その編集方針はおかしいよ」という風に応答する自由がある。まあ、ここでラジオの電波を使わなくても、他のブログとかTwitterとか、いろんなことで書くことはできたりするわけです。

そういうような他人を足蹴にするようなものに関して「自由」という形で認めてしまうと、そのことが他の人の自由ということを妨げたりしてしまうということが事実上あったりするわけですね。だからヘイトスピーチや他人の人権を侵害すること、他人を著しく毀損するような表現というものに関しては、場合によっては名誉毀損であるとか法に触れる場合もあるし、場合によっては他人の人権を脅かすということで、自主規制などを行うというような形で一定の線引きというものがされるわけです。表現の自由があるからって全てが認められるわけではなくて、他人を侵害するの表現は一定程度は法律でも限定されてるし、あるいは自制心でコントロールするということもあったりするわけですね。

だからたとえば、よく格言で「何か特定の本を焼くような社会というのは文明を焼くような行為に等しいんだ」という、そうしたような言い回しをもって今回のような騒動を批判する向きもあったりするんですけれども。でも、そもそも「人を焼け!」という風に主張するかのような本というものも、この世にはたくさんあるわけですよね。ヘイトスピーチの類というものはそうしたものですよね。そうした本を野放しにしておくことの方が大事なのか? 具体的に人が焼かれるまで待たなくてはいけないのか、それともそういう風に述べる本に対して批判することがイコール、「焼く」っていうことになるのか? 休刊するということが直ちに「焼く」ということになるのか? 

別に全てを焼けとか撤回しろとか回収しろとかっていうような話ではなくて、ちゃんと応答しろ、ちゃんと釈明しろ、ちゃんと謝罪しろとか、そしたことを言っている。あるいは政治家の方に関して、これは辞めさせる権利というものがすべての国民はあるので、「止めてほしい。おかしいです。それを認める御党はどうなんですか?」ということを問うていくことも、これまた自由になるわけですね。そういったことを考えていくと、いろいろな今回の一件をめぐって、ただそのセクシャル・マイノリティーへの様々な偏見が拡散されているということのみならず、表現の自由であるとか、あるいは出版の責任であるとか、あるいは政党の責任であるとか、そうしたものに対する議論というもののロジックというか、レベルというか、クオリティーというものがまだまだ向上する必要があるんだなということを強く感じるんですね。

ちなみに今度私ね、新潮社のあるメディアで連載を始める予定なんですよ。全く関係ない別の媒体なんですけどね。で、他の書き方がいろいろと「連載をおります」とか「自分の本は撤回します」とかっていう話をしてるんですけれども。僕はその連載は今でも楽しみに準備しています。というのはなぜかというと、もともと一定の読者……新潮社ではたとえばいろんな方がお書きになってるわけですね。僕とは立場の違うような人たちもたくさん読んでるんですけど、そうした本を読むような人にこそ読んでほしいというような、ある種その説得の本。説得の連載のつもりで原稿を書くつもりだったので、今回の1件があったからもう書かないっていうのことはしない。

そこはそこで出ていって、そこで書くというような責任もひとつのスタンスとしてはある。引き上げるっていうようなことをする書き手に関しても、別に批判をしないですね。それはそれで本人のお財布を削ってまで抗議の声を上げたいというのは立派な表現だと思います。他方でそうしたところで物を書いて、いろんな続者に対してアプローチをしていくというような表現というのもある。それは個別の判断ですね。その個別の判断を今回、新潮社はまあ45の休刊という形で発露した。ただしそれで全ての言論への責任が全うされるのかというと、そうではないと考える人も社内・社外にもいると思うんですね。だから繰り返しなりますが、是非ともこのあたりの内実について、しっかりと文章にまとめて、それを公開できて手に取れるような形にしてほしい。

で、これまた同じような立場というか、朝日とかそういしたものを叩くことで売っている雑誌とかは、「新潮45が言論弾圧によって潰された特集」とかをやってまた「ワーッ!」ってひとつの神輿になったりすることがあったりすると思うんですけれども。その場合の「弾圧」であるとか「自由」とかっていうものが、何に向けて語られて、そのことを守ることで一体何を温存しようとしてるのか?っていうことも俯瞰して見ていくことも必要になってきますね。だからこれは何かの決着ではないです。むしろ何かが起きたことに対する検証っていうものをこれから行わなくては行けない。

そうした号令のように受け止めています。なので、新潮社のこれからの動きや、それぞれの書き手の動き。それからの自民党の動きなどについても、これからも見ていきたいなという風に思います。そして取材も繰り返していきたいなと思いますね。

<書き起こしおわり>

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