荻上チキさんがTBSラジオ『タマフル』で『アナと雪の女王』を映画評論。新しい時代のディズニー映画が描こうとしているものについて、宇多丸さんに語っていました。
(宇多丸)それでは続いての映画ウォッチ超人を紹介いたします。毎週月曜日から金曜日の夜10時から放送中の『荻上チキSession22』でお馴染み。ドクターシネマンハッタン、チキタンこと荻上チキさんです。どうも、よろしくお願いします。
(荻上チキ)こんばんは。よろしくお願いします。
(宇多丸)はい、ということで、セッションの方には私、4月にゲスト出演させていただいて。
(荻上チキ)お越しいただきました。
(宇多丸)いやいや、なんて言うんですかね。上げていただいて。
(荻上チキ)とにかくもう、私にとっては神のような存在なので。
(宇多丸)あの、僕、上げられるとしゃべりづらいっていうかね。でもすごい楽しく、おしゃべりさせていただきました。
(荻上チキ)こちらこそ、本当に楽しかったです。
(宇多丸)はい。で、こちらですよ。満を持してタマフルの方に。
(荻上チキ)すいません。土曜の夜に押しかけてしまって。
(宇多丸)チキさんの方もね、スペシャルウィーク。大変だったところにですね、ちょっと無茶ぶりさせていただきました。はい、ここで数字を取る予定でございます。ということで、映画評論をお願いするわけでございます。チキタンに評論していただくのは、この映画です。『アナと雪の女王』!アンデルセンの童話『雪の女王』をもとに、触れるもの全てを凍らせてしまう能力を持つ女王エルサと、その妹アナの冒険を通して真実の愛を描くディズニーミュージカル。全世界の興行成績は1200億円以上。映画史上歴代5位を記録。で、いまその上の『ハリー・ポッターと死の秘宝パート2』を射程圏内ということなので、4位も目の前ということです。アニメ映画としてはすでに世界興収歴代ナンバー1。日本では3月の公開以降、興行成績は220億円を超え、日本歴代3位を記録。いま聞こえております主題歌『Let it go』も大ヒット。サウンドトラック日本国内で100万枚を出荷ということでございます。
(荻上チキ)はい。
(宇多丸)チキさん、これはこの話がある前にご覧にはなっていた?
(荻上チキ)そうですね。元々見ていました。で、このお話をいただいてから、もう一度。最初見たのが3Dの字幕版だったんですけども、じゃあ日本語版も見なくちゃってことで日本語版をチェックして。で、もう一度字幕版を見て、ということで。さらに確認はしてきたんですけども。
(宇多丸)おっ、これはさすがムービーウォッチメンズの一員だけあって、何度も見るスタイルというのを。
(荻上チキ)はい。宇多丸さんに習って。
(宇多丸)踏襲していただいております。そしてその私、3月29日にこの番組で、ムービーウォッチメンで扱っております。そこで僕が言ったことを一通り要約しておきますと、とにかくLet it goですね。先ほどきいていただきましたけど、曲のパワーがすごいと。あのシーンとかでミュージカルの魅力がつまっていると。そのシーンの力だけで5億点取っちゃっていると。ただ、製作者も語っている通り、Let it goの力が強すぎたのでストーリーを変えたことで、若干ストーリーとかキャラクターの置きどころのバランスが崩れているというのはたしかだと。でもまあ、たとえば歌っているアニメ表現の気持ちよさであるとか、Let it goのシーンであればそこで流れている感情の複雑さに対して曲のポジティブさみたいな。ミュージカルでしか表現できないようなエモーションみたいなものがあるのだから、みたいな。で、これは間違いなくディズニークラシックとして残っていくんじゃないか、みたいなことを申しました。
(荻上チキ)はい。
(宇多丸)なんですが、僕の場合3月に公開して、評論したのが日が浅くてですね。ここまでのヒットになるということについては、そこまで要因に触れられずということなので。チキさんならばこれは、『ああ!なるほど!』と。『ああ!そうですか!』と(笑)。
(荻上チキ)ハードル、高いわ(笑)。
(宇多丸)なんで喧嘩腰なんだっていう(笑)。まあチキさんならば、ここらで決定版的な分析をしていただけるのでは?ということでオーダーさせていただきました。
(荻上チキ)はい。ハードル高いですね。
(宇多丸)いやいやいや。どうでしょうね?僕はね、今回オファーした時、伺った情報で『チキさんは非常にミュージカルに詳しい』と。『ディズニーミュージカルに詳しいんだ』ということを。
(荻上チキ)好きですね。まあ、詳しいかどうかはともかく、ミュージカルは大好きです。
(宇多丸)あ、じゃあもうその時点でね、たぶん僕よりも一枚も二枚も上手だと。
(荻上チキ)いえいえ。単に別の村の住民だという。それだけでございます。
(宇多丸)あと、やっぱり社会現象になった後ということで、なんか伺えるんじゃないかな?と。ちなみにチキさんは準備の仕方っていうのはあったりするんですか?この映画評論の。
(荻上チキ)そうですね。気合を入れて見る時は、一度はなにもせずに。ただ単に純粋に見て。二度目以降はメモを取りながら見たりということで。まあ、映画館でメモを取ろうとするとね、手元が暗いので字がめっちゃ汚くてですね。なにをメモとったんだ?っていうのがあって、読めなかったりするんですけど。これはそうやってメモをとったりしながら、その後は思考を整理するためにマインドマップっていう方法論がありまして。枝分かれさせていろんな考え方を付け加えていくと。箇条書きで書くというよりは、自分のイメージを絵にして整理した上で、人に向けてしゃべるっていうことが、自分なりの映画の整理の仕方ですね。
(宇多丸)マインドマップね。僕、さっき拝見させていただいて、さっそくパクらせていただくことにしました。ということで、僕が割と早めに評論したということで、僕の評論の中ではちょっとね。たとえば、ストーリーのネタバレみたいなのに関して、すごく、若干ナーバスに抑制してたんですけど。どうでしょうね?もう2ヶ月以上たっていて。ストーリーに関しては踏み込もうか?ということで。具体的に言えば、悪役をどこに置くか?の話しでね。まさかのあの人が・・・って言ってましたけど。ハンスです!
(荻上チキ)(笑)。そうです。
(宇多丸)私が先に踏み越えさせていただきます。ハンスです。これはもう、言っておきます。
(荻上チキ)さすが先輩ですね。
(宇多丸)それを前提に前提にした上で、チキさんにやっていただこうと思います。じゃあここから、20分ぐらいですかね?ちょっとチキさん、ひとつ準備はよろしいですか?
(荻上チキ)はい。大丈夫です。
(宇多丸)まあ私も随時合いの手やですね、質問あったら随時入れさせていただくかもしれませんが。はい。行っていただきたいと思います。荻上チキさんによる、アナと雪の女王評論スタートです!
(荻上チキ)というわけで、みなさん、よろしくお願いします。アナと雪の女王なんですけど、以前、宇多丸さんがね、だいたい語り尽くしているんですが。その評論はもう、2ヶ月ほど前に語ったものなので、ちょっと忘れちゃったよという方もいらっしゃるかもしれません。なので、アナと雪の女王がどんな映画なのか?っていうことの構図の説明も含めて、宇多丸さんとおそらく半分ぐらいは重なるんですが、半分は僕なりの解釈と解説を加えていければなと思います。
(宇多丸)はい。
(荻上チキ)この作品っていうのは元々、アンデルセンの童話『雪の女王』からですね、原作があって。その原作をアニメ化した作品になっているわけですね。で、このアニメーション作品は、ただしそのアンデルセンの元々の童話とは、ずいぶんそのストーリーも構図もまったく違うものになっていると思うわけですね。アナと雪の女王の映画らしさっていうものに注目するのであれば、まずはこのアンデルセンとの対比をするのが手っ取り早いだろうと思うわけです。なので、このアンデルセンの童話。読んだことがないよという方もいると思うので、一応そのストーリーを説明しておきたいと思います。
(宇多丸)はい。
元ネタのアンデルセン童話と比較する
(荻上チキ)昔々、あるところにカイという少年と、ゲルダという少女が暮らしていました。2人は大の親友でした。でも、ある日、悪魔の作った鏡の破片が少年カイの目と心臓に刺さってしまいました。そのことによって少年カイは性格が激変してしまいます。なぜかというと、その悪魔の鏡には人や物をですね、醜く写すという力があったんですね。そのためカイは性格が激変して、ゲルダをいじめだすようになってきてしまうんです。
(宇多丸)なんか、ひねた見方をするようになる。
(荻上チキ)そうです。『なんだ、この野郎!』みたいな。いじめだしてしまう。そういう風に仲違いをし始めた時にですね、ある日カイのところに雪の女王が現れてしまうんですね。で、雪の女王に魅入られてしまってカイは連れて行かれてしまうんです。で、ゲルダとカイは離れ離れになって暮らしてしまうんだけど、少女ゲルダはカイがいなくなったのを寂しがって、カイを連れ戻そうとして旅に出るわけです。
(宇多丸)性格が悪くなっているのに。
(荻上チキ)はい。『カイちゃんは本当はいい子なはずだ。なにかおかしい』ということで旅に出て、取り戻そうという話で。つまり、他の童話などと比べて、元々少女が主人公で、しかも少年を取り戻すっていうかなり主体的なキャラクターとして原作でも描かれていたのは、まあポイントなのかなと思うわけです。で、このゲルダちゃんはですね、自然と会話することができて。川とか動物とか風のささやきとか太陽とか。いろんなものに、『カイちゃんはどこに行ったの?』ってことをたずねながら、どんどんどんどん冒険をしていくわけですね。で、まあいろいろあって、雪の女王の城にたどり着くわけです。だけれども、カイはもう心が凍りついていてですね。なにをするにも無気力状態になっているんですよ。でも、ゲルダはそんなカイと再会したのが非常にうれしくて、抱きしめて涙を流すわけですね。そうすると、その涙がカイの凍った心臓の氷にポタンと落ちて、心臓が解けて、なおかつ悪魔の鏡の欠片も流してしまうと。それでカイもゲルダの姿を見て喜んで、涙を流す。今度はその涙で、カイの方の目の破片もサラサラっと流れてしまうと。そうして2人はやさしさを取り戻して、手を取り合って、元に住んでいた場所に戻りました。めでたしめでたしというお話なわけですね。
(宇多丸)ああー。はいはいはい。
(荻上チキ)まあ、この作品が選ばれた時点で、まず少女の主体的なストーリーだということは予感されていたわけです。で、原作と違って映画版というのは、原作の方は雪の女王は魔女で、かつ呪いの使い手だったりするわけですね。それに魅入られた人は、死の世界に連れて行かれてしまう。この世界では元々雪の国というのは、完全に死の、凍りついた世界のメタファーで。少女ゲルダがカイを探しに旅に出る時には、川を越えて旅をしていくんですけど。その時に、靴を脱いで川を越えて旅に出るんですね。つまり、明らかに三途の川じゃないけども。
(宇多丸)ちょっとあの世に行っちゃっている。
(荻上チキ)死の道へと歩み寄っていくんだと。その死の淵から少年を救い出すんだっていうストーリーになっているわけですね。ただし、映画版の方。アナと雪の女王の方はまず、少女が少年を救う話ではもうなくなっている。少女が少女と対話をするという話になっていること。それから、対話をする少女が雪の女王なんですが、その雪の女王がですね、魔女であり、なおかつ呪いの使い手ではなくて、またもう一人のプリンセスであると。もうひとつの人生であるという描き方になっているわけです。
(宇多丸)ふんふん。
(荻上チキ)つまりこれは、言うなればいままでのディズニー映画とかですね、童話が描いてきたような魔女との対決ではなくて、魔女と共生するための道を探る物語として、このアニメ作品は描かれているわけですね。でも、この作品酷いなと思うわけです。
(宇多丸)酷い。
(荻上チキ)エルサの描かれ方が。というのは、本当にエルサは酷い目に遭い続けていて。まず、ずっと世界から隔離され続けているわけですね。で、姉妹にも打ち明けることができないわけです。なおかつ、人々にそれを晒した瞬間に、化け物扱いされると。さらに追手に殺されかけて、もう一度拉致監禁されて、そして妹を自分の手で殺しかけてしまうというね。これね、ジャパニメーションだったらソウルジェムが濁って濁ってですね。魔女化するという展開になるはずなんですね。
(宇多丸)はいはいはい。
(荻上チキ)だけれども、この魔女化する一歩手前で踏みとどまって、魔女との共生。魔女化することを防ぐというストーリーになっている。その仕組みの部分が見どころになっていると思うんですよね。どういったことで、そういったものを描くのか?というと、ひとつは魔女との共生っていうコンセプトが3つあって。エルサがまず、自分自身を受け入れるというストーリーで描かれていると。それから、アナという姉妹とともに暮らすということであると同時に、実はこれは主人公たちを社会が受け入れる話として描かれているんです。
(宇多丸)最終的には。
(荻上チキ)はい。で、魔女の呪いというのは、元々は治さなくてはいけない病として描かれているというのは、宇多丸さんもね、前回指摘されていたんですけども。今回のエルサの魔法の能力というのは、治さなくてはいけない病ではなくて、生まれつきの特性なんだと。だからこういった生まれつきの特性っていうものは、最近の特にアメリカのね、マイノリティー運動などでは、本人を治療するのが解決策なのではなく、社会の受け入れなさというのを直していくことが正解なのだと。つまり、個人に問題があるのではなく、社会の側にある問題を解決していこうという路線になっていたりするわけですね。
(宇多丸)ふんふん。
(荻上チキ)これがやっぱり、アナと雪の女王の、これまでのいろんな映画とかディズニー映画と別の時代性をまとっている大きなポイントなのかなと思うわけです。日本語版はどちらかというと、アナとエルサが自分自身の葛藤というものを乗り越えていく、心理的な物語だと、割と受け入れられがちなんですけど。どちらかと言うと、英語の歌詞なども丁寧に見ていくと、その社会性っていうものが、ちゃんとした困難さとか特別さ、個性というものを受け入れていきましょうっていうようなストーリーとしても語られているんですね。
(宇多丸)日本語訳版と、元の原語のだとニュアンス、結構違っていると?
(荻上チキ)ちょっと違うなと。たとえばLet it goだと、『ありのままの自分を受け入れよう』っていうストーリーになっていると。ただ、英語版だとそこに行く前に、『いままで、いい子でいろとかいろんなことを言われてきた』という、抑圧の歴史が語られてきて、そうした社会の抑圧から自分は開放されようじゃないかというストーリーになっているわけですね。
(宇多丸)なるほど。
(荻上チキ)ただし、その開放は本当のハッピーエンドじゃないよっていうのがほのめかされていたりするんだけど。日本語版だと、やっぱりこう、自己啓発の方に。どちらかと言うと寄ってるなという感じがするんですね。で、まあこの映画は特性をオープンにしながら過ごすことを、いかにして可能にするか?っていうことが目指されているんだけれども。そこに対して紆余曲折があって。それがいろんな歌で描かれているのがこの映画の醍醐味かなと思うわけです。
(宇多丸)はいはい。
(荻上チキ)その醍醐味を語るには、当然ながら原作との対比で。こういう少女同士の、そして魔女との共生というのが語られているんだとわかりましたと。じゃあ、この映画そのものの魅力はどこにあるのか?と考えた場合には、やっぱりいままでのディズニー映画と比べるのがわかりやすいかなと思うわけです。宇多丸さんも前回、指摘してましたけれども。ディズニー映画ってここのところ、ディズニールールとでも言うべきですね、ディズニー世界のお決まり感というのをどんどん新陳代謝して・・・
(宇多丸)ちょっと相対化してね、みたいなことをやっている。
(荻上チキ)そうです。で、このプリンセスものの代表と言えば、シンデレラだと思うんですけども。シンデレラの中で歌われる代表曲は『夢はひそかに』という、冒頭で歌われる曲で。
『夢はひそかに』
(荻上チキ)『信じ続ければ夢は叶う』っていう歌でね。そのディズニーのCMとか流れても、やっぱりこの曲がパーン!と流れてくるわけですよ。だけど、この時の『信じ続ければ夢は叶う』っていうのはかなり受け身な描かれ方で。要するに女性は美しく、性格がよくしていれば、いつか報われるというようなストーリー。
(宇多丸)王子様がやってきて・・・
(荻上チキ)と、されていたわけです。その王子様が現れる恋物語っていう形は残しながらも、ただ10年ぐらい前までのディズニー映画というのは、とは言え待っているだけの存在ではなくて、女性とかプリンセスはもっとアクティブに、積極的に活動するんだっていうものを描きなおし続けてきたわけじゃないですか。たとえば、『ポカホンタス』とか、『アラジン』のジャスミンとか。ライオンキングでもそうかも知れないですね。で、そういう風にディズニーによる自己批評というものが、どんどんどんどん続いてきたのが90年代以降のディズニー映画の歴史だと思うんですよ。
(宇多丸)ふんふん。
(荻上チキ)でも、その中で今回、その自己批評が到達点まで行ったなというようなことを感じさせられるわけですよね。特にこの今回、アナと雪の女王が冒頭で『ミニー救出作戦』を流した後で流れることからも。ミッキーのね。
(宇多丸)満を持してミッキーの・・・
(荻上チキ)3Dのね、カラフルになったものを流して。
(宇多丸)あれも元のクラシックなミッキーの感じを、さらにちょっと相対化したような感じのね。
(荻上チキ)そうそう。あ、もうミッキーの時代にもiPhoneがあるんだ、とかね。そうしたものを思わせるような、なかなか現代的な作りになっているんですが。それを見せた後にアナ雪が始まると、そうか、ミニー救出作戦でも結局はミッキーとミニーが助けあうという話になっていたけれども、アナ雪はまた別の、女性同士の物語が描かれていて、対比が親切にも用意されているなと思うわけです。
(宇多丸)ほうほう。
(荻上チキ)そういったディズニー作品とくらべて、やっぱり女性の主体性が特に力強く描かれているこの、アナと雪の女王なんですけども。映画の中で、やっぱりそれが特にいままでのディズニー作品を批判しながら、ようやくたどり着いたんだと。ディズニーの第三世代が到来したんだということを、声高に叫ぶような構図に、映画の中で上手に作られているわけですね。宇多丸さんもご存知の通り、映画って映画の中で3度、同じモチーフが反復したら3度目に注目しろ!って、よく言われたりするじゃないですか。たとえば『ジョーズ』でも、1回、2回と予感めいたシーンが出てきて、3回目でバーン!と出てくるっていうようなことがあるように。3回、同じようなモチーフが続いたら、最後でいままでの記号がどうガラッと入れ替わっているかが、やっぱりドライブ感といいますか、映画のメッセージを左右するわけですね。
(宇多丸)ふんふん。
(荻上チキ)で、ここでネタバレですよ。元々、このアナと雪の女王ではやっぱり真実の愛っていうのもが描かれ続けるわけですけども。その真実の愛っていのがなんなのか?と言った時に、いちばん最初には王子ハンスとのキスによって呪いが解けるんじゃないか?という、そういったほのめかしがあってですね。いざ、王子ハンスとキスをしようとするわけです。ところがその王子ハンスは、実は悪役でして。このアナとエルサの国を乗っ取ろうとしてるということが、そこで明らかにされるわけです。つまり、憧れの王子とハッピーエンドを迎えるという初期ディズニー的エンディングではないということが、ここでかわされるわけですね。その次に、今度は位は高くないけども、一緒に活発なアクションを共にしてくれる男性、クリストフ。そのクリストフとのキスことが、やっぱり本当の愛なんじゃないか?ということが、ほのめかされるわけですね。
(宇多丸)ああ、はい。
(荻上チキ)だけども、それでもないよということで、最後の女性同士の和解っていうことこそが真実の愛なんだという構図になっているわけですね。だから、バカ丁寧なぐらいに映画の文法を取り入れながら、今回の映画はいままでの第一期・第二期ディズニーとは違うんだよということを、この三度の反復で見事に、上手に提示してくれているわけですね。そうすると見ている方も、第一回目のエンディングのパターン。あ、王子とキスするんだ。あ、違うんだ。でも、やっぱりクリストフでしょ?そういうパターンもあるよねと。
(宇多丸)一緒にね、アクティブに冒険してきた人とエンディング。これはだから90年代からの流れ。それなのかな?と思ったら、それでもない。
(荻上チキ)違うんです。じゃあ、どうなんだ?ということでディズニーのお約束をかわし、かわしでたどり着いたエンディングが、これからの時代の生き方なんだっていう提示をしていたと。
(宇多丸)この三段構えがディズニーのアニメの歴史もたどっていると。
(荻上チキ)たどっているということですね。それがすごく見事な演出になっていたなと思うわけです。つまりその、アナと雪の女王がなぜヒットしたのか?っていうのは分析をするのは難しいわけですよ。だってヒットしたってことを分析できるんだったら、『じゃあお前、ヒットさせてみろよ』っていうことになるので。全ては後付けなんですね。ただ、ヒットした作品を比べると、人々がなにを映画に欲望したのか?っていうことを比較することはできると。
(宇多丸)ふんふん。
(荻上チキ)となると、やっぱり欲望される物語とか、生き方っていうものがディズニー作品の中でもこういう風に三段階で変わってきたし。見る側の欲望もずいぶん変わってきたんだなってことが浮き彫りになる。それをね、鋭く描いているなという新聞の紙面がありまして。デイリースポーツ5月13日の記事なんですけども。これがいちばん鋭いなと思ったのは、『アナ雪、ヤマト超え』っていうね、記事で表現していて。日本人向けの記事なんですけども。こう、ヤマトをアナ雪のサウンドトラックの売れ行きが超えたよと。
(宇多丸)宇宙戦艦ヤマトのを超えたと。
(荻上チキ)という話なんですけども。これもすごくわかりやすい。つまりヤマトの男たちが、世界の危機を救うために、戦艦に乗って旅をするっていうあのヤマトの歌にこめられた欲望というものと、アナ雪がヒットする社会の欲望ってずいぶん変わったよねということが、この『アナ雪、ヤマト超え』というね・・・
(宇多丸)ヤマトと比較するか!?っていうの、ありますけどね。そっから見えるところがあると。
(荻上チキ)っていうのをこれ、おじさんに向けての記事じゃないですか。おじさんに向けて、ヤマトの時代じゃなくて、これからはそういった多様な生き方を女性が謳歌するような時代に、曲でもなったんだということが、わかりやすく語られていてですね。ちょっとこの記事はいいなと。
(宇多丸)まさかのデイリースポーツ。
(荻上チキ)で、せっかくいまね、三度の反復って話をしたので、映画の中で同じモチーフが反復するっていうの、他にもたくさんあるんですけども。たとえばその、『生まれてはじめて』という曲があるじゃないですか。
『生まれてはじめて』
(荻上チキ)アナがね、扉を明けて、これからお姉さんの戴冠式があるということで、お皿の枚数とか数えながら、絵と会話しながら、これから城門が開かれるんだ!という希望を歌っている。一方でエルサは、これから城門が開かれてしまうんだという不安を歌っているという対比がとても見事に描かれているんですけど。これ、作品内で3回かかるんですよ。1回目はそういった城を開けるシーン、それからもう1回は、雪の女王であるエルサの城をたずねて、デュエットで歌い合わさるわけですね。で、最後にエピローグでオーケストラでババン!とかかるシーンなんですけど。これも、その三段階の移行というものが、実はさっき言ったハッピーエンドの形というものを、同じように組み替えていることがわかるような構図になっているわけですよ。さっきは男性との関係性でどういうハッピーエンドの形がディズニーの中で変わってきたのか?という歴史だったんですけど。
(宇多丸)うん。
(荻上チキ)今度は女性の生き方として、三段階、またわけているわけですね。というのは、最初、アナは自由を謳歌してるんだけど、エルサは不安を感じていたりすると。じゃあ、その不安感を解消するれば、つまり戴冠式を乗り越えさえすれば、それはゴールなのか?というと・・・
(宇多丸)なんとか隠してね。
(荻上チキ)隠していけばいいのか?というと、そうじゃないと。やっぱり、隠し続けて生きるということは、それは苦難が続くということでもあるので、この段階でエルサがハッピーを迎えちゃいけなんだということが予感されるわけです。その次に、エルサは自由になるわけですね。Let it goってこう、山に登るわけです。
(宇多丸)雪山にこもっちゃって。
(荻上チキ)山に閉じこもったエルサを、じゃあもう1回呼び戻せばいいのか?あるいは、エルサがそのまま自由で暮らせばいいのか?どちらもハッピーじゃないということが2回目の曲で予感されるわけですね。なぜならエルサってずっと隔離されているわけですよ。いままで、たとえば障害者に対する政策とかでも、これはかなり近いようは扱いをされていて。要するに、私宅監置って言って、個人の自宅で牢獄に入れられて、周りに見せないようにしていくっていう形になるか、それとも障害者だけの町とかを作って、そこではコミュニティーを作って自由に暮らしてくださいっていう形になるか。
(宇多丸)ああー。
(荻上チキ)エルサが雪の山にこもったっていうのは、この後者の方ではあるけれども、社会と共生するってわけでもなかったりするわけですね。でも、3回目でかかる時は、もうエルサが能力を解放して、町の住人たちというか、城の住人たちにこう、自分たちの能力をさらけ出すということになったりしていると。自由というものを獲得していいんだ。だけどもそれは、自分だけで自由を解放するっていうことじゃなくて、周りとともに生きることが重要なんだっていう。そうしたものがね、描かれている。いままで、例えば『ターザン』とかの描かれ方とか、他のディズニー映画とかだと、社会の悪者を排除した上で自分らしさを謳歌しようとか、あるいは秩序から抜けだして自由を謳歌しようっていう話だったんですけど。秩序も自由もっていう、この両立をさせるっていうのが、このアナ雪の見事さなのかな?と。
(宇多丸)おお、なるほど。
(荻上チキ)その見事さは、たぶん自由を欲望しているというか、ほしい人から見ると、『いや、まだまだ共和主義的だよ』っていうかね。秩序がまだまだ強いよっていう感じがするかもしれないんですけど。やっぱりその感覚というものを、ある種共生させたというのがアナ雪の、いままでのディズニー映画を乗り越えているすごさなのかなと思うわけですね。
(宇多丸)なるほどねー。
(荻上チキ)で、前回ちょっと宇多丸さんがね、アナ雪の見事の構図っていうのがあると。映像っていうのも、映画の音楽っていうのを素晴らしく。最後の大団円を迎えるために見事に構造が作られているんだけど、オラフの曲が若干間延びしてるんじゃないか?みたいなことを少し触れていたような気もするわけですね。で、僕もちょっとそう思うわけです。
(宇多丸)うん。
(荻上チキ)ミュージカル映画の魅力っていうのは、ミュージカルの中だといろんなキャラクター紹介の歌って挟まれるんですけど。そのキャラクター紹介の歌って、結構間延びする曲が多いんですね。
(宇多丸)そこだけストーリーが止まっちゃうっていうね。
(荻上チキ)そうそう。で、一旦停止して、心の中の描写を丁寧にしようっていうような。ちょっと間延びするシーンが多くて。オラフのシーンはそれに見えがちなんですよ。だけど、このオラフのシーンってすごく大事なシーンで。特にそれはオラフがなにを歌っているのか?を注目すると、あるいはオラフがなぜ登場したのか?っていうことに注目すると、いま言った2回目のエンディング。つまりエルサが自由に生きるのでもダメで、エルサが単に戻されるのでもダメでということが、このオラフの登場によってはっきりと描かれるわけですね。
(宇多丸)うん。
(荻上チキ)どういうことなのか?というと、オラフって夏に憧れる歌を歌うわけですよ。でも、夏になったらオラフは融けてしまうんですね。つまり、エルサが戻って夏に戻すことがハッピーエンドではないんだっていうことが、実はオラフの登場によって証明されると。なぜならこの映画って、異形なものというか、異なるものと一緒に暮らしていくっていうメッセージになるということが、ほのめかされているわけでしょ?と。だったらオラフが最終的に自己犠牲で融けてしまって、彼の犠牲によって1人の異形なものはいなくなったけど・・・っていう風になっちゃうと、それはバッドエンドになってしまうわけですよ。で、オラフがなにを歌っているか?っていうと、歌の中で『暑い夏と寒い冬 両方が一緒になれば、もっといいよね』っていう歌詞を歌っていて。これはつまり、エルサが獲得した自由も、それからいままであった城の魅力とか、あるいはアナの自由さっていうもの、両方をミックスすることが、フィックスすることこそがエンディングなんだっていうことを。
(宇多丸)それを暗示していると。
(荻上チキ)暗示されているわけなんですよ。だから、オラフのシーンはちょっと間延びしがちなんだけど、実はこの映画がいままでの着地点と違うものとして描かなきゃいけないんだということをはっきりする映画なんだと、思うわけですね。で、ディズニーのお約束って、こういった異形なものとか、あるいは動物にやさしいやつって善人だっていうルールがあるわけじゃないですか。そう考えてみると、2回、3回と映画を見ると、王子ハンスが悪役だっていう理由も、実は最初の王子ハンスの登場から、もう予感されていたなっていうことを感じるんですね。
(宇多丸)ほう、なるほど。
(荻上チキ)っていうのは、ヒーローであるクリストフは、最初からトナカイのスヴェンとめちゃくちゃ仲良しじゃないですか。ずっと一緒に暮らしているし、かつ、他の異形なものたちともね、一緒に暮らし続けていて。家族のように暮らし続けていたっていう。そういった描写があるわけですよ。だけども、ハンスはたしかに白馬と登場します。で、白馬と登場するってことは、こいつ動物にやさしいのかな?と思うんですけど、ハンスは白馬と意思疎通がぜんぜん上手くいってないんですね。
(宇多丸)ああー。
(荻上チキ)最初に白馬が登場した時に、白馬によって海に落とされるわけですよ。で、そん時ににやけているんだけども、どうも、『またやられちゃったな』みたいな感じの表情を浮かべていて。あ、こいつ意思疎通が上手くいってねーなっていうことが、ちょっとわかるわけですね。で、またその白馬に乗って、アナが雪の山にバーッ!って行った時に、白馬はアナを置いて帰ってきてしまうわけじゃないですか。
(宇多丸)はいはい。
(荻上チキ)あ、こいつ人間に不信感あるなと。この白馬は。つまりこの白馬は、人間と意思疎通が失敗し続けてきたんだなってことがほのめかされるわけで。やっぱりそのハンスが白馬と登場したけれども、動物と仲がいいわけじゃなかったのかな?ということが、実は後付けかもしれないけど、ほのめかされるのだというのは・・・
(宇多丸)そのキャラクターの計算、してるかもしんないですね。それね。言われてみれば。
(荻上チキ)なのでこれ、見事だなと。いままでのディズニールールっていうものを、ちゃんと守りつつもちょっとそれをズレた形でね。ズラしてみたと。
(宇多丸)馬に置いてかれちゃうところとか、イライラすんなー!って。
(荻上チキ)バカ馬め!みたいな。
(宇多丸)なんだ、このイライラする展開は?って思ってたんですけど。なるほど。あれ、ハンスの馬ですもんね。
(荻上チキ)たぶんね、あのハンスはね、馬虐待してますね。
(宇多丸)いやいや、そこまでは(笑)。そこまでは、知らないですよ(笑)。なるほどね。でも、意思疎通できない相手でしたよね。トナカイとはあんなに意思疎通できるのに。
(荻上チキ)という形になっていて。アナはもちろんね、動物と意思疎通できるんだけど。そんなアナすらね、裏切ってしまうこの白馬。よっぽど人間不信だなと。
(宇多丸)(笑)。いや、でも本当にそうかもしんない。
(荻上チキ)いままでのディズニールールっていうものを踏襲しながらも、それにズラすことによって、この映画の着地点がもうこれしかないんだって形を整えているっていうのが、とても見事な、ディズニー批評に成功した作品なんだなと思うわけですよね。ちなみにオラフはアドバイザーとして登場して、『欠点があっても、愛があれば大丈夫』って言っていると。つまり、隠すべき欠点ではなくて、カミングアウトしながらも、社会もそれを受け入れましょうっていうのも示唆するために、オラフは登場してきてですね。いままでのディズニー映画より、さらに一歩踏み込んで、社会の側も変わろうよというような、そういうメッセージも込めていると。だから、2人がありのままに生きるというストーリーだけでそれを理解してしまうと、ちょっともったいないかなという気がいたします。
(宇多丸)なるほど。
(荻上チキ)でも、それもアメリカとかも含めてマイノリティー運動が変化したその変化を、たとえばゲイがカミングアウトしないでクローズしていくと。黙っておくっていうものから、ゲイコミュニティーで暮らしていこう、いや、そうじゃないよと。ゲイコミュニティーだけじゃなくて、もうどのコミュニティ-でもいいじゃないか?っていうような変化を経たようなものと。あるいは障害者運動もそうです。そうした運動の先にね、この映画が存在してるんだなということを、改めて思い知らされる映画なのかなと思います。
(宇多丸)うん。
(荻上チキ)ちなみにディズニーの次の作品『マレフィセント』も、眠れる森の美女の再解釈で。ある種、魔女との共生がどうなるのか?っていうものが。
(宇多丸)そうですよね。ある種、魔女側の視点でっていう。あ、そういう意味ではそうか。この流れ上にあると思われる・・・
(荻上チキ)つまり、魔女というものを悪魔として描くんじゃなくて、排除されてきたものの悲しみなんじゃないか?って描き直すっていう意味では、もしかしたらアナ雪のさらに次が見れるかもしれないなということで。
(宇多丸)ここに来て、なんでマレフィセントなんだろう?と思ったんですよね。でも、こう並べると完全に・・・
(荻上チキ)用意されているなと。
(宇多丸)ディズニー側が明確な意図を持って並べているという感じがしますね。
(荻上チキ)ディズニールールの新陳代謝をさらに進めていくんだっていうような、ある種の意思表示が感じられるなと思います。あの、宇多丸さんがお話になったようにね、他のミュージカルと比べても、この映画は映像的な快楽がしっかり用意されていて。もちろん、名曲が多くて、映像の物語の快楽っていうのがしっかりしていると。それはやっぱりLet it goが曲としてこれだけヒットしたってことも、実は映画の構造と歌の構造がぴったり上手に用意されていたから、歌のヒットも必然だったんじゃないか?と思うわけです。
(宇多丸)ふんふん。
(荻上チキ)この歌は静かなマイナーコード、ピアノの旋律から入ってきて。で、低いピアノと小さなストリングスで。かつ、ヴォーカルがね、悲しい歌詞をウィスパー気味で歌っていくわけですね。で、それがどんどんどんどん前向きなメッセージに変わっていって。サビが静かに、でも高いピアノに変わって。だんだん音がクレッシェンドになっていって、オーケストラと合流するというようなこういった構造は、実はミュージカル映画がとっていく王道パターンをトレースしているわけですよ。つまり、最初にハッピーなところからスタートすると思いきや、悲しい出来事があって上手く行かないけども、悲しみを乗り越えて大団円っていうミュージカルで演出されるものを、この歌自体でもトレースされていると。
(宇多丸)うん。
(荻上チキ)だからPVとしても、動画っていうのは完璧に作られていて。だからこそ、YouTubeなどを見ても、ひとつのミュージカル作品として・・・
(宇多丸)あのシーンだけでも、起承転結があると。
(荻上チキ)見れたりすると。しかも、あのシーンが今日あまり話せなかったんですけど、いままでのミュージカル映画への、上手な引用や対比からも成り立っていたりするので。いままでのミュージカルシーンの名シーンのように、ひとつの歌の中だけで、実は場面転換もするし、感情の変化も見せるし。キャラクター説明もするし、でもそのエンディングのあり方っていうものもほのめかすっていう。説明が本当に見事に取り組まれている作品なわけですね。だからこの作品を一言で言うならば、氷の彫刻のように繊細な素材なんだけども、丁寧に丁寧に構築して、見事なものに作り上げた良質な作品だと思うわけですね。
(宇多丸)ふんふんふん。
(荻上チキ)なのでまだ、映画館で間に合うはずなので。はい、僕が言わせていただきます。アナと雪の女王、ぜひ、劇場でウォッチメンしてください!
(宇多丸)よいしょー!(拍手)
(荻上チキ)はい。
(宇多丸)ちょっと待って下さいよー。これ、チキさんすごいね!やっぱり。
(荻上チキ)めっちゃ汗かいた・・・
(宇多丸)(笑)
(荻上チキ)朝ナマの100倍緊張しますね。
(宇多丸)いや!でも最高ですよ!ちょっともう、参りましたよ。本当に。チキさん、これ決定版、出ましたよ!これ、完全にストーリー解析とか、完璧じゃないですか。
(荻上チキ)ありがとうございます。いやー、でもね、これ絶対後で反省するパターンですね(笑)。
(宇多丸)なんでですか?
(荻上チキ)ポッドキャスト聞くと、あ、ここで噛んでるな・・・と。セッションでは噛まない回数、噛んでますよね(笑)。
(宇多丸)いやいやいや、でも素晴らしかったですよ。カミングアウト的なさ、メタファーだ、みたいなことはね、言われてたけど。それがものすごく、完全に作品構造として用意されたものだったっていうのが、ものすごく見えましたね。ディズニー、大したもんですね。
(荻上チキ)そうですね。どうせ僕が来るから、どうせセクシャルマイノリティーの話を絡めるんだろうって思う方もいるかもしれないけど。そういう見方も正解だと思うし。でも、他にも様々に配慮された、移民の話とか、あるいはエルサが白いからアルビノのように他の人と違うようなね、先天性をもった少女としても予感されているというように、どんなストーリーとしても読めるんですよ。
(宇多丸)ああ、だからその懐をちゃんと用意してるっていう意味もあるんですね。
(荻上チキ)そう。懐の広さがあるので。これは見事だなと。
(宇多丸)ちなみに日本人がこんなにレリゴーレリゴー、好きなのはなんだと思います?日本語版のあれは多少、ニュアンスが自己啓発的な方向に振れているとおっしゃってましたけど。
(荻上チキ)うーん、やっぱり自己啓発感があるっていうのは、元の曲でもそれなりにあるし。そう受け取る人、海外でも多いわけですよ。日本でもやっぱり、自己啓発的な、あるいは自分自身を肯定しようっていうところが強調されている感は否めない。でも、それでもいいんです。ただ、そういった生き方をするのであれば、やっぱり自分は、自分自身も自由に生きたいんだったら、自分はやっぱり抑圧する側に回んないようにしようねっていう形で、だんだん変わっていく力もあるとは思うので。まずは単純な自己啓発としても受け取ってもいいと。それの先に、自由さとはなにか?一緒に暮らすとはなにか?っていうことが、歌と作品の中には完全に埋め込まれているので。
(宇多丸)やっぱりあれがね、完全なそのハッピーエンドの曲じゃないってことがね、大事ですもんね。
(荻上チキ)だからこうやって映画について語り合う中で、ハッピーってなんだろうか?っていうことが、いろいろ盛り込まれていることもある、深みのある歌だということはあるんじゃないですかね。
(宇多丸)僕はあの、日本の人はさ、よっぽど普段みんな自分は抑圧されてるって認識してるのかな?と思って。
(荻上チキ)そう思いますよ。
(宇多丸)うん。だからそういう面もあるのかな?と思ったんですけどね。
(荻上チキ)あの、よくマイノリティー、マイノリティーって言いますけど。100%マイノリティーっていう人ではなくて、人ってどこかしら、部分マイノリティーだったりするじゃないですか。エルサは王女ですよ。他から見たら・・・
(宇多丸)なに?いい暮らししてさ。お城の中でいい暮らし、結構じゃないのってね。
(荻上チキ)100%勝ち組ですよ。だけど、カミングアウトできない本人の悲しさみたいなのがあったりする。
(宇多丸)100%勝ち組(笑)。笑えますね。やっぱりエルサを勝ち組って表現すると。たしかにそうなんだけど、笑えますね。このしょうもなさがね。
(荻上チキ)豊かさですから。でも、それを謳歌すること自体もハッピーじゃないよねっていうのも、いろいろと。勝ち負けの転換というかね。
(宇多丸)勝ち組っていうレッテル貼りのなんて言うかね、虚しさっていうものを、いまわかりやすく見えましたね。いやいや、素晴らしかったです。はい。ということでね、やっぱりあれですよ。ドクターシネマンハッタンですよ。ムービーウォッチメンズの中でも、やっぱりいちばん見通してる感がありますよね。
(荻上チキ)お粗末さまでした。
(宇多丸)ありがとうございます。ドクターシネマンハッタン、チキタンこと荻上チキさんにより、アナと雪の女王決定版評論でした!
<書き起こしおわり>