荻上チキ 芥川賞候補作 北条裕子『美しい顔』問題を語る

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荻上チキさんがTBSラジオ『荻上チキ Session-22』の中で芥川賞候補作品になっている北条裕子さんの小説『美しい顔』についてトーク。主要参考文献を示していなかったことから盗用や剽窃なのではないか? と指摘されている問題について話していました

(南部広美)芥川賞候補作をめぐって講談社が謝罪と反論。芥川賞の候補となっている北条裕子さんの小説『美しい顔』が文芸誌『群像』に掲載された際に主要参考文献を示していなかった問題で『群像』を発行する講談社が今日、コメントを発表しました。講談社はコメントで「参考文献を提示しなかったのは編集部の過失」として関係者に謝罪する一方、「作品の根幹に関わるものではなく、著作権法に関わる盗用や剽窃などには一切当たらない」と反論。「評価を広く読者と社会に問う」として近日中にこの作品をサイト上で無料公開すると表明しました。また、参照された石井光太さんの『遺体 震災、津波の果てに』を刊行する新潮社が「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」との見解を示したことについて、「小説という表現形態そのものを否定するかのようなコメントだ」として編集部は強い憤りを抱いていると抗議しました。

(荻上チキ)さて、この芥川賞の候補作をめぐって講談社が謝罪と反論ということなんですが、その前の経緯を簡単にごく説明しますと、もうすぐ芥川賞の選考会が開かれます。この北条裕子さんの『美しい顔』。これがノミネートしている。候補作ということになっているわけなんですが、それは講談社から『群像』という雑誌が出ているわけですね。まだ単行本になっていません。ただ、その『群像』という雑誌に載った際に、石井光太さんの『遺体』とか、それからの金菱清さんの『3.11 慟哭の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震』。金菱さんはこの番組にもお越しいただいておりますし、僕は石井さんにもインタビューしたことがあります。

他にも、複数の著者の著作……震災に関連する著作から部分的に類似した表現が出てるんじゃないかということで、様々に指摘されていたり。あるいは、さっきの新潮社のような所から抗議をされていたりということがあったりするわけです。あとはあるの関連する著作の著者の方々がネット上なども含めて、自分の声明を発表してるというような状況もあったりするわけですね。

それを受けて、講談社は参考文献についての記録というものをつけていなかったことについて謝罪をしたけれども、これは盗用や剽窃っていう風にネット上で言われているけども、そうではないんだ。作品の根幹に関わるものではないんだ。著作権法にも関わるものではないんだっていうことで、そうした部分については反論をしたということになるわけですね。つまり、手続き上の瑕疵はあったが、法律上の問題もなければ、あるいは文学作品としてのテキスト上の問題もないんだという風に言ってるのが今回講談社の立場ということになるわけです。

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法的問題、道義的問題と文学ならではの問題

で、よくこれを法的な問題と道義的な問題に分けて議論する向きがあるんですけれども、ここにさらに文学ならではの問題というものがあるということは押さえておかなくていけないんですね。たとえば、法的な問題があればこれは実際に訴訟になったりした場合に、著作権法に違反するのかどうか。盗用に当たるのか、剽窃にあたるのか……要はパクりに当たるのかということが法的に認定されるということがあるわけです。一方で道義的な問題の場合、あらかじめたとえばその著者に連絡をしておくであるとか、あるいは参考文献を示しておくであったり、あるいは場合によってはその本には載っていなかったとしても、後にその著者インタビューのような形でインタビュー受けた際に、別のところで「この本やこの本などに影響を受けて……」とか、「この本やこの本を読みました」っていうことを明記していれば、それも一つのインデックス機能になったりするわけですね。

で、特に文学作品などは、その参考文献などをつらつらとあまり書かないというような、そうしたような状況がある。映画でもそうですよね。明らかにこれは現実の事件について描いているし、この事件について書くならばあのルポルタージュを参考にしたはずだろうという風になったとしても、映画の作品内に載せるか、あるいはエンドロールに載せるかしなかったとしても、たとえば監督インタビューに答えるということもあったりするわけですね。などなど、いろいろその道義上の話と法律上の問題はあるわけですけど、道義上の話については本人同士の話が問われてくるところではあるわけですね。

ここではちょっと僕は文学上の問題について触れておきたいと思うんですが。というのは、あまりにもこれが「スキャンダル」みたいな形の文脈でばかり語られてしまうがゆえに、作品そのものをどれだけの人が読むのかということから考えると、あまりにそのコンテクストが強すぎると、作品そのものがかわいそうだなというか。作品そのものをどう捉えるかということをしなくちゃいけない。どれだけ道義的に筋を通していて法律上OKの範囲だったとしても、ダメな作品はダメなわけですよね。でも、作品が素晴らしかったとしても法律上アウトだったら、それはもしかしたら出版停止になりうるかもしれない。じゃあ、道義的な範囲はどうなのかというと、そこはかなりグレーな部分はある。

で、ここからちょっとその作品論なんですけど、この『美しい顔』。この作品はそもそもどういった作品なのかというとですね、これは被災地を舞台にした災害小説でもあるんですが、ただのひとつの「震災小説」や「災害小説」のようにくくるよりは、より大きな普遍性のあるテーマも描いてる作品なんですね。これは実際に描かれているサナエという少女が高校生で。その通っている高校で「準ミス○○高校」みたいなものに選ばれるようなフォトジェニックなかわいらしい少女なんだけれども。であるがゆえに、メディアが次から次へと取材にやってきて「いま、被災地はどうですか?」みたいな形である種、被災地の代弁者のような形で取り上げられていく。繰り返し語りを求められてくる。

で、実際には準ミスなんだけれども。しかも準ミスは3人いるんだけれども、「ミス○○」っていう風に紹介されて、訂正を求めたんだけど、「いいから、いいから」っていうことでメディアの論理でそういう風に祭り上げられていくっていう、そうした少女が……ひとつは「調査地被害」って言ったりするんですけど。あとは「取材被害」とかね。そうやって、その取材を受けることによってどんどん摩耗していったり、あるいは本当の自分ではない、かりそめのメディアが描く記号上の自分っていうものを押し付けられるっていうことについて、すごい憤りとか腹が立つということも感情として抱きながら、でも同時に自分がその被災者として消費されているということを分かっていながらそれを演じ続けていくということもしていくんですね。

で、それはなぜかと言うと、自分の親というものが震災後に見つかっていないというような、そうした事実というものから目を背けるっていうような側面もあり、またそのメディアの記号っていうものを自分がロールプレイしていく様っていうものにひとつ、面白味みたいなものを感じていくっていうようなことがある。だからある種、その冒頭からメディアの取材の仕方っていうのものに対して毒づきながらも、その対象である被写体として演じているっていうアンビバレントなというか、すごい相反するキャラクターの内面を持っている少女が主人公として描かれているわけですね。

そのメディア構造を告発しつつ、でもそのメディア構造の中の被写体として過剰に適応していくっていう様がまず前半で描かれていくわけです。で、後半になってくると、そうして演じ続けるっていうことに対して、あるきっかけで「そうしたことしなくていいんじゃないか」っていう自分が自分にかけていたある種の呪いというか、ある種の自分に課していた暴力みたいものから解放されていいんだよっていう方向にストーリーが流れてく。そのことによって、実は小説のリズムも、それから色々な描かれるようなスタイルも変わっていくということになるわけですね。

で、このことから見てわかるように、これはそのノンフィクション……様々な報道などに対するフィクション側、小説側からのある種の告発でもあるわけです。既存のたとえばルポルタージュであるとか報道っていうものが、ある種の記号化した当事者というものを描くのであれば、それをノンフィクションではなくてフィクションの側から完全に想像力だけでそれを克服するっていうような、ひとつのチャレンジになっているような作品になってるわけですね。

で、こういった作品の中で、先ほどのその少女がひとつの姿として描かれていく。しかしながら途中で、そのリズムが変わっていって、その「記号を演じる」っていうことを主人公のサナエが止めていった途端、物語としてちょっと陳腐になっていくんですね。ある種、凡庸な物語になっていく。つまりその青春小説のようになっていって、物語としてはある種のソフトな形というか、綺麗な形というか、上手な形に収まっていくんですね。で、その読後感っていうのがちょっと物足りなく覚えるんですけど、そこでハッと気づかされるわけですよ。

前半と後半の違いから浮き上がるもの

前半の混乱の最中にあったサナエの語りっていうのと、後半のだんだん回復していくストーリーというもので「後半、つまらないな」っていう風に思った瞬間、前半の主人公・サナエが告発していた非日常の喜びとか、非日常に求めていた困難さ、苦しさ。そうしたものを演じている少女っていうものを読者として求めていたじゃないか?っていう文学的体験をするという、そうした作品になるわけですね。

だからこそ、メディアを通じて、作品を通じて、実は読者そのものもいろんな欲望をこの主人公にぶつけていたでしょ?っていうことが告白されるようなスタイルなっているわけですよ。こういったたような作品だからこそ、描けたものというものがあるわけですね。だからその作品だから描けたものがあるということは、引用とかパクりとかいろいろと言われたり、ネット上とかでもしているわけですけれども。でも、なんと言おうとこの作品でしか描かなかった世界観というものがまずあるということは強調しておきたい。

で、当然ながらそのパクりとか盗作とか言われたりしていて、たしかに似ているようなフレーズ、そして「参照にしたんだ」という風に認められているようなところというのあるわけですね。だけど同じ光景を見ていても、それは読み比べればわかるんですけど、たとえば参照元となった本はルポライターとか報道の視点、あるいは研究者の視点から書いてるんですけれども。でも、この小説は架空ではあるけれども、別のキャラクターの視点から見るとこういった風景になりますという形で、同じ風景、同じ文章というものを意味的に塗り替えているんですね。

それはどこまで意図的かどうかというのはわかりません。そして今回の作者というのは被災地を取材してないんですよ。でも、その取材をしていないからこそ、そうしたある種実際に行った人の現場で見た風景っていうのを「自分がもしその場にいたならば、こうではないか?」っていう想像力だけで乗り越えていくという文学的なチャレンジになっているわけです。で、これはある意味暴力なんですね。誰の話も聞いてないし、人の表現っていうものの参考に、人の資料っていうものを参考にしながら、でも小説にする。そのことによって、架空のキャラクターを通じて現実を切り取るっていうことなので、ある意味すごい暴力的なものではあるんだけども。

だけれども、それでしか描かない作品でもあるというのも、これまた事実なんですね。これがそのさらにすごいなと思うのは、こうした読者の側のグロテスクな欲望っていうものを浮き彫りにするだけではなくて、実はその作品の形式がその内容と重なっているっていう点なんですよ。いま言ったのは、前半のグロテスクな部分と、後半の回復していく様で「前半の方が面白いよね」って言ってしまう読者のあなたはどのポジションから読んでるんですか?っていうような告発が物語と一致している。

でも、この物語をめぐっていまネット上で起きていることっていうのは、たとえば「美人作家の芥川賞候補 パクり問題で告発」とか「大炎上」みたいな形の、いわゆるわかりやすい物語に回収されていて。いま言ったようなその当事者性を巡る葛藤とか、文学ならでは、どうしても生まれてしまう暴力の問題とか、そうした線引きの微妙さっていうものが置き忘れてしまって。もう「パクりだ!」「剽窃だ!」っていう一言で終わらされてしまうっていうようなところになっているわけですね。

っていうようなことをこの作品自身が実は告発している作品なわけですよ。つまり、この本の中ではそうやってその「被災者のいたいけな少女」っていうものを演じ続けている場面で、「私は私を売っている」っていうようなフレーズがあるわけですね。つまり、自分というものを出すのではなくて、人に求められている形で自分というものを差し出しているんだという。だから、そういった差し出された先は、人々が「絆」だの「感動」だの「応援」だのっていうような、それぞれの物語を勝手に消費していて、それぞれの日常の中に非日常を瞬間だけ持ち帰って通過していくじゃないか。

でも、今回のひとつの騒動というのも、ある種それをむしろ物語を現実の方が追いかけたような形で模倣してるような状況になっていたりするわけですね。だから、そういうような「炎上騒動」みたいなことでくくられて語られて、たとえばこの作品が読めないとなると、文学的にはあまりにもったいなさすぎるぐらいの作品力であるということは前提にしてください。その上で、法律上は法的な当事者同士の対応というのあるでしょう。個人的には編集者がいろいろと付記をしたほうがいい。付け加えた方がいいという風には思いました。「参考文献はこうだ」とか。あるいは、インタビューの別立てのところで何かしら触れるっていうことはあってもいいでしょう。それは仁義の問題ですね。

特に小説家として若手の人というのは、その引用とか様々な対応というものとかルールを分からないことがあったりするので。そこは編集サイドや出版社サイドがフォローすべき点というのはあったという風には思います。ただ、その引用という形式から超えた作品であるということはさっき述べた通りであると同時に、超えた作品って引用があるとその作品形式が変化してしまうということもあるわけですね。つまり小説を読み終わって最後に参考文献って出てきた瞬間に、一気にその読後感が変わってしまうということもこれ、ぶっちゃけというか正直、あるわけですよ。

仮に僕もノンフィクションを書いていたりするし、いろいろ書いていたりするわけですけど、実際に「あっ、僕の本に影響を受けたのかな?」っていう作品はあるわけです。勝手ながら思っているだけかもしれないけれど。でも、たとえばその人がそこに書かなかったとしても、後のインタビューで「実はこういった本を読んで」っていう形で触れてくれたら、それはそれでもう道義的には満足をしたりする。でも、それは人それぞれなので、他人の抗議の仕方には口を挟みませんが。僕も第三者だけど、燃やしてる人も第三者なわけですよね。

そうした時に、勝手にジャッジメントをして。「この作品はパクり作品だ!」とか、そうしたことで済ませていいのかというと、そうした様なくくり方そのものが、この作品が問いかけているものに対してのノーアンサーであると同時に、「まさに言ってる通りじゃん!」っていうような構図を反復してしまうことがある。そして最初にも申し上げたように、この作品が震災文学や災害文学だけにとどまっていないというのは、それこそ「私は私を売っている」っていうことに対する告発であるっていうことから、ひとつのそのたとえば#MeTooのようなフェミニズムであったり、あるいは障碍者運動のようなものとか、あるいはの外国人の様々な人権問題のように、自分がある消費されてしまってるじゃないかっていうことに対して「それでいいのか?」っていう風に問いかけていくような、いろいろな疑問を言葉にしていく過程っていうものが読書体験として得られる作品ではあるんですよね。

だからこれは新潮社VS講談社みたいな目線とか、あるいはこの著者とこの著者のぶつかり合い、さあどうなる? みたいな視点もいいかもしれない。見る人によっていろいろと見方は様々でしょう。僕はこの『美しい顔』の著者の方は知らない一方で、引用された側の著者の方はほとんど知ってる。全部、本読んでます。それを踏まえた上でもなお、この作品は文学的価値があるとは思うんですね。そうしたことも含めて、ただのネット上の記事とかで「パクり/パクられ」みたいな構図だけで踏まえられるような問題ではないし、加えてその道義的な「本人が嫌だと言ってるんだから、じゃあ書くな」というようなことなのか。

あるいは本人が「引用元を示しさえすればいいという問題ではない」という風に言ってた時に、じゃあどうすればいいのかというと、結局は書き換えか差止めかということになるわけですね。でも、そうなってくると、この表現そのものが成り立たなくなりうる、あるいはケースとしてさっき言った僕の解釈として、元の記述そのもの意味的に大きく塗り替えてしまってるというような作品の力というものもあったりする。それが場合によってはそのルポを書いている人をも告発するような力さえあるようなものだったりするわけですね。

というようなことも含めてですね、この問題が単なるその著作権侵害とか、そうしたような問題とか、あるいは筋論とか、そうした問題ではないというひとつの文学で事件でもあるという文脈も抑えて欲しいなっていう風に思ったわけです。なので、今回その参考文献という形で載せるか載せないかというようなことで着目をされているわけですけれども。あるいは、ネット上でも「盗用なんだ」コピペなんだ」「剽窃なんだ」「パクりなんだ」っていうような決めつけた格好でのコメントがある。場合によってそちらの決めつけの方が、むしろ名誉毀損になるんじゃないかということもあることにも留意しておいた方がいいと思いますよ。書き込む人はね。

でも、そのどちらサイド云々の前に、まずそれぞれの本を読む。今回参考文献として挙げられている個別の作品、僕はどれも読んでますけども、どれもやっぱりルポルタージュや研究として他に無い、類を見ない著作であることはこれもまた間違いないわけですよね。だから結論として、全部読んでその上でいろいろ考えてみてください。おそらくそうすれば、「パクり/パクられ」という風な単純な言葉だけでは語れない、いまのような何かを喋りたくなるような情念みたいなものがふつふつと湧いてくると思うんですね。そうしたような体験というものを是非ともしてほしいなという風には思いました。少なくとも単純化だけはしてほしくないという風に思います。

<書き起こしおわり>

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