宇多丸・高橋芳朗 ラップ・ヒップホップの誕生と広がりを語る

宇多丸と高橋芳朗 NHK FM『今日は一日”RAP”三昧』を振り返る 今日は一日RAP三昧

宇多丸さん、高橋芳朗さん、DJ YANATAKEさんがNHK FM『今日は一日”RAP”三昧』の中でラップ・ヒップホップの歴史を振り返り。1973年のヒップホップの誕生から、1980年代初頭までの文化の広がりについて話していました。

(宇多丸)『今日は一日”RAP”三昧』、さっそく始めましょう。ラップ・ヒップホップというこの新しい文化はどのように誕生したのか? 時は1970年代までさかのぼります! ということで、第一部というか第一パートです。ここから30分間は70年代初頭から1980年代初頭にかけて、ラップ・ヒップホップ文化が生まれて根付いていくまでを紹介していきたいと思います。

(高橋芳朗)うん。

(宇多丸)まずですね、このヒップホップ・ラップという文化。ラップ的表現というか、しゃべるように言葉を乗せる歌唱表現そのものっていうのは昔から全然ありますよね。それこそ、日本だってトニー谷さんだっていろいろといるわけですけど、ヒップホップというこの文化は実は誕生日があるんです。

(高橋芳朗)なかなか、そういう音楽ジャンルはないかもね。誕生日がビシッと決まっている。

ヒップホップの誕生日

(宇多丸)たとえばロックンロールの誕生日って、難しい。ジャズの誕生日、これも難しいですよね。なんですけど、ヒップホップは実は誕生日。しかも生まれた場所まで特定されております。行きますよ、誕生日。1973年8月11日。ニューヨーク、ウエストブロンクス……サウスブロンクスじゃないんですね。

(高橋芳朗)そうですね。

(宇多丸)「サウスブロンクス」ってよく言われていますけども。ウエストブロンクスのモーリスハイツ地区。みなさん、ご存知ですか? モーリスハイツ地区のセジウィック通り1520番地にある公営住宅。いわゆるプロジェクトと言われる公営住宅の中の娯楽室で開催されたパーティーがヒップホップ誕生の地とされています。

(高橋芳朗)これ、公式に認められていますよね。

(宇多丸)認められている。というのは、ヒップホップとかラップ、我々がいま聞いているような音楽の最初の原型を作った人物というのが特定されていたんですね。それは、クール・ハークという人です。クール・ハークはジャマイカの移民ですよね。で、クール・ハークさんがどういうことを発明したのか? といいますと、みなさん、ラップの曲みたいなもの、当然さっきのケンドリック・ラマーみたいなものを想像されると思いますけども。

もともとは、曲としてのラップなんてものはなかったんですね。昔は。1曲丸々、たとえばAメロがあってBメロがあってサビがあって……って、こういう風になったのはだいぶ後の話なんです。

(高橋芳朗)そう。だから「ヒップホップの誕生」っていってもいきなりラップの曲がボンと出てきたわけではないということですね。

(宇多丸)ラップがこうやって、いま僕らが知っているようなラップが生まれる前に、まず「ブレイクビーツ」という技術が生まれたわけです。ブレイクビーツとはなにか? と言いますと、レコード。みなさんが聞いているような曲の途中でドラムブレイク。ドラムだけになるところがありますよね。

(高橋芳朗)間奏の部分ですね。

(宇多丸)クール・ハークさんはその娯楽室でDJで、お金のない若者たちを踊らせる時、このドラムブレイクのところになると若者たちが熱狂して「ワーッ!」って盛り上がることに気づいて。「だったらこの盛り上がる部分を、レコードを2枚で同じ部分を交互にかけることで長く伸ばせばもっと盛り上がるんじゃないか」みたいな感じでやった。これがいわゆるブレイクビーツということ。いま、バックでお聞きいただいているのはインクレディブル・ボンゴ・バンドというグループの『Apache』という曲。これ、まさに1973年の曲なんですけども。これ、実は「ヒップホップの国歌(アンセム)」と言われていまして。

これはもともと、そのインクレディブル・ボンゴ・バンドの、いろいろなフレーズがあって曲のテイをなしている曲なんですが、いまお聞きいただいているドラムブレイクの部分をレコード2枚で繰り返してやる、クール・ハークが生み出したブレイクビーツの手法、どういうものかをわかっていただくため、いまDJ YANATAKEさんがスタジオ内に備え付けられたDJセット。レコードプレイヤー(ターンテーブル)2台が並べられて、真ん中にミキサーという、どっちのレコードの音を出すか? という操作をする機械がありまして。そのDJセットの前に立っております。さあ、スタンバイができたようなので。いま、お聞きのこのインクレディブル・ボンゴ・バンド『Apache』をどのようにブレイクビーツするか? 2枚使いするのか? DJ YANATAKE、カマせ!


※参考音源 DJ YANATAKEさんによるMIXではありません

(宇多丸)はい。ここからビートが入ります……。普通に聞いているとこういうドラムブレイクがあるわけですけど、はい。もう1回、またドラムブレイクの頭を出して。こうやると、永遠にこのドラムのビートが続くわけですね。そしてこのノリノリのパーカッションが効いたビートに乗せて、貧しいブロンクスの若者たちがもう踊りまくって。いまで言うブレイクダンスに近いような形で踊りまくっているという。その上で、さらにお客を煽るために、クール・ハークさんはコーク・ラ・ロックというパフォーマンス担当で、このブレイクビーツに乗せてMC、マイクを持った人がユーモアを交えたリズミカルなしゃべりで客を沸かす。あるいは、「セイ・ホー!」って言ったりして、コール・アンド・レスポンスしたりして盛り上げるという。

(高橋芳朗)はい。

(宇多丸)まさにヒップホップ・ラップの原型的なものを作った。この上でラップを乗せるっていうのはどういうことか? こんな感じです。「Yes, Yes, Y’all! Yes, Yes, Y’all! その調子! 止まらずに! Keep On, Yo! その調子!……決して譲れないぜ この美学 何者にも媚びず己を磨く! 素晴らしきろくでなしたちだけに届く 轟く ベースの果てに!」みたいな感じでもうね、即興を交えたりとか、自分が用意してきた歌詞とかも交えながらラップを乗せる。これがヒップホップの原型です。DJ YANATAKEさん、お疲れ様です。

(高橋芳朗)やっぱりDJが主役で、MCがその横で盛り上げるっていう感じですね。

(宇多丸)そうなんですよね。これはクール・ハークさん。もちろん1973年8月11日にその娯楽室でこのスタイルをはじめて生み出して。これがヒップホップの誕生と言われて、このハークの後を追うように、このクール・ハークさんの技術を改良して。いまヤナタケくんがやったように、より正確な位置でブレイクビーツを繰り返す技術を開発したのがグランドマスター・フラッシュ。グランドマスター・フラッシュさんに僕、直接インタビューした時に、ラップの始まりとしてやっぱりDJが2枚でずっとやっていると、みんな……日本でもたまにありますけども、DJがやっていることを感心しちゃって客が踊らないと。

(高橋芳朗)ああーっ。

(宇多丸)こうやって、「おお、すごいな」なんて見ちゃって、踊らないからマイクを持って、「突っ立ってないで、体を動かせ! セイ・ホー! 手を上げろ!」なんてやって盛り上げていったんだ、なんてことをおっしゃっていて。

(高橋芳朗)それで客を煽るMCが必要になったんですね。

(宇多丸)なので、要はいわゆる歌を作る感覚じゃなくて、パーティーを盛り上げる添え物としてまずはラップというものは生まれたということなんですね。そのクール・ハークさん、そしてグランドマスター・フラッシュ。もう1人、当時ね、ニューヨークでいちばんのギャング組織と言われていたブラック・スペーズというギャングを仕切っていたアフリカ・バンバータ。この三強、この3人が初期のヒップホップDJとして活躍をしていたわけです。ところが、ここで面白いことが起こる。最初はこの3人しか、いないわけですよ。どうやってやっているのかもわからないし、機材とかも貧乏だから持っていない。楽器も買えないですし、レコードも買えないから。なんだけど、1977年夏にニューヨークで大停電があったのをみなさん、ご存知でしょうか? スパイク・リーの『サマー・オブ・サム』という映画で描かれていますけども。

(高橋芳朗)はい。

1977年夏、ニューヨーク大停電

(宇多丸)大停電が起こって、犯罪とか略奪とかが横行した夜というのがありました。その1977年、電気屋さんからいろんなものを盗んでくるわけじゃないですか。その77年の大停電の後、急にDJをやるやつが増えた!

(高橋芳朗)アハハハハッ!

(宇多丸)これはもう、ズバリ言っています。要はみんな略奪をしたDJセットで各グループ、他の若者たちがDJを始めたというね。それをまたいま、武勇伝として語っているという(笑)。

(高橋芳朗)フハハハハッ! そんなきっかけで!

(DJ YANATAKE)停電がなかったら、みんなやっぱり機材を手に入れられなかったかもしれないから、生まれてなかったかもしれない。

(宇多丸)そしたら、その三強だけがいたっていうことになるから、ヒップホップが文化としては盛り上がらなかったかもしれない。まあ、幸か不幸かその77年の大停電で群雄が割拠する状態になって。さまざまなグランドマスター・フラッシュ率いるフューリアス・ファイブというラップグループが生まれたり。ファンタスティック・ファイブとか、ファンキー・フォーとか、トレジャラス・スリー、コールドクラッシュ・ブラザーズ。こういう様々な群雄が割拠してパーティーが盛り上がるようになる。ただ、ここに至ってもまだ、先ほども言ったようにラップというのはパーティーを盛り上げるための……あくまでもパーティーなんですね。

(高橋芳朗)そうですね。

(宇多丸)要するに、曲じゃないんですよ。感覚としては。

(高橋芳朗)録音物とか、なかったんですよね。

(宇多丸)レコードとかはなくて。ただ、そのパーティーの様子を録ったカセットテープが出回って。それで割と、サウスブロンクスの危ない地域にしかなかった文化が外にも……たとえば(ニューヨークの別地域の)クイーンズとかに住んでいる少年たちも聞いて「かっこいい!」ってなったりしたというね。これが後にラン・DMCになっていったりするわけなんですけど。なので、誰も実はこれ、ラップとかヒップホップをレコードにして儲けようということを当事者は気づいていなかったという。

(高橋芳朗)気づいていなかったんですね。

(宇多丸)ところがここに、「ラップっていうのがいま、若者に流行っているらしいじゃない?」っていうことで、シルヴィア・ロビンソンっていうおばさんがおりまして。この方、もともとはソウルシンガーなんですよね。

(高橋芳朗)そうですね。スイートソウルの。

(宇多丸)で、そのシルヴィア・ロビンソンが「なんかラップ流行っているらしいから、いっちょレコードでも作って儲ければいいじゃない?」という大変に安直な考え……まあ、安直な考えだっていいですよね。で、「なんかラップできる子、いないの?」みたいな。要するに、ニューヨークでさっき言ったグランドマスター・フラッシュとかみんな活躍しているのに、そういういちばん活躍している人に声をかけるんじゃなくて、「知り合いでなんか、いないの? ラップできる子」みたいな感じで言って、適当に集めた3人を。

(高橋芳朗)ピザ屋で働いているね。

(宇多丸)ピザ屋で働いている甥っ子かなんかがラップできるらしいからと。で、ラップをさせてみたら、「できる!」と。そしたら、道を通りかかった別にやつが、「俺だってできるぜ!」って(笑)。

(高橋・ヤナタケ)フハハハハッ!

(宇多丸)本当ですよ。で、こうやって即席でシュガーヒル・ギャングというグループを作って。しかも、このシュガーヒル・ギャングが作った曲というのが当時大ヒットをしていたシックの『Good Times』という曲を弾き直してというか……まあ、パクリですよね。

(高橋芳朗)そうですね。

(宇多丸)いま言ったように、もともとパーティーは人の曲をずっとレコード2枚でずっとかけてやるわけなんで。要するにそれをバンドで再現したわけですけども。これを普通にレコードにしたらパクりなんですけど……なんとこれが世界ではじめてのラップ・ヒップホップレコードの大ヒット曲となってしまうということでございます。時代は1979年です。じゃあ、お聞きいただきましょうかね。これ、非常に長い曲なんですが、シュガーヒル・ギャングで『Rapper’s Delight』。

The Sugarhill Gang『Rapper’s Delight』

(宇多丸)はい。この調子で延々と……これ、何分だっけ?

(高橋芳朗)8分、9分ぐらいあるかな?

(宇多丸)サビもなしでずーっとラップが続くという、まさにさっきから言っている曲の体裁という発想がないので。まったく脈絡のない歌詞同士が……しかも、みなさん、さっきも「適当に作ったグループ」って言いましたけども。このシュガーヒル・ギャング、適当に作ったもいいところで、歌詞も人のパクりなんですよね。

(高橋芳朗)そうですね。コールドクラッシュ・ブラザーズのグランドマスター・カズのリリック帳から引っ張ってきたというね。

(宇多丸)ねえ。ひどいですよね。

(高橋芳朗)ひどいです(笑)。

(宇多丸)しかも、元はシックの『Good Times』なんだけど、僕はシックのメンバーであるナイル・ロジャース、バーナード・エドワーズに直接インタビューをしたことがあって。その時に、まさにこの『Rapper’s Delight』の話で、「大ヒットをしたのを聞いて、たしかにかっこいいなと思ったから別にいいんだよ。ただ、一声くれるかな?って思ってシュガーヒルに電話で連絡した。『ちょっと一声、くれるかな?』って言ったら、『はあ? オリジナルですけど?』みたいなことを言われて。『えっ、知りません。”Good Times”ってなんですか?』みたいなことを言われて、本当に笑うしかなかった」みたいな。

(高橋芳朗)はー!

(宇多丸)さすがに後には、権利をなんとかしたと思いますけどもね。

(DJ YANATAKE)なんなら最近、来日してますからね。

(宇多丸)ああ、シュガーヒルね。すごいことですよね。ということで、ここから「ああ、ラップのレコードは金になるんだ」ということで。それまではたとえば、後に成功するパブリック・エネミーのチャック・Dとかは「ラップをレコードにするって無理でしょう? なに? 一晩をレコードにするわけ?」なんて、そんなことを思っていたんだけど、「ああ、金になるんじゃないか?」って気づいてみんな次々とラップのレコードを出すようになる。たとえば、カーティス・ブロウ。このカーティス・ブロウは最初にメジャーレーベルと契約した人で。『The Breaks』といういま後ろで流れている1980年の作品。これなんかはすごく、最初にしてめちゃめちゃよくできている曲ですね。

(高橋芳朗)そうですね。この曲ぐらいからサビができてくるんですよね。

(宇多丸)これ、『The Breaks』という曲はある意味、全編が逆に言うとサビみたいな曲じゃないですか。ちょっと聞いてみる?

(宇多丸)……すいませんね。慌ただしくて。ラップが生まれてもう45年、アメリカではたつじゃないですか。プラス、日本の歴史も30年ぐらいあるじゃないですか。それを10時間でやるとね、ものすごいスピードでやらなくちゃいけないという(笑)。

(高橋芳朗)アハハハハッ!

(宇多丸)ということで、いわゆるオールドスクールの時代というか。レコード文化としてヒップホップ・ラップが花開いて、ディスコとかでもすごくかかるようになっていくということですね。これではじめてラップっていうのを知った人は多いと思うんですけども。その中で、貧しい地域で……社会状況みたいなのはさっきは思いっきり端折りましたけども。まあ、アメリカの中でもいちばん貧しくて見捨てられた地域で生まれた文化なわけですよね。で、みなさんのイメージもあるとは思いますが、そういう貧しい黒人たちが自分たちの気持ちというか、社会的メッセージを込めたというイメージがラップにはあると思うんですが。実はこれは結構途中というか。最初の頃はさっき言ったように、パーティーを盛り上げるためにあったものなので。

(高橋芳朗)そうですね。

(宇多丸)割とお気楽なというか。要するに「俺はすごいんだぜ!」みたいなのをユーモア混じりでやるというのがメインだったんですけども。はじめて、ラップに社会的メッセージが持ち込まれた歴史的な曲というのがあるんですよね。これ、じゃあ高橋芳朗さん、解説をお願いします。

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