宇多丸さんがTBSラジオ『タマフル』の中で映画『クリード チャンプを継ぐ男』を評論。絶賛していました。
(宇多丸)2016年、最初に扱う映画は先々週、ムービーガチャマシーンを回して決まったこの映画。『クリード チャンプを継ぐ男』。シルベスター・スタローンをスターダムに押し上げたボクシング映画の金字塔『ロッキー』シリーズの最新作。ロッキーのライバルであり盟友だったアポロ・クリードの隠し子アドニスと、彼のセコンドとなったロッキーがボクシング現役チャンピオンに挑戦する。
主人公アドニスを演じるのは『クロニクル』、『フルートベール駅で』のマイケル・B・ジョーダン。もちろんロッキーを演じるのはシルベスター・スタローン。監督、脚本は『フルートベール駅で』で注目された新鋭ライアン・クーグラーということでございます。さあ、ということでこの話題作。リスナーのみなさんからの感想も多数いただいております。紹介して行きましょう。みなさん、メールでありがとうございます。
メールの量は多めでございます。賛否で言うと、賛がおよそ8割。全体的にかなり評価が高い。『シリーズのファンなのでとにかく泣けた』『迫力あるボクシングシーンが素晴らしい』『これはもはや「ロッキー」の続編ではなく、映画「クリード」シリーズの始まりだ』といった熱いメッセージが多かった。また、『シリーズを全く見たことがないが、それでも楽しめた』という人もちらほらといた。一方、『主人公がリア充すぎ。感情移入できない』という声もわずかに。では、代表的なところをご紹介いたしましょう。
(リスナーメール省略)
さあ、ということで『クロニクル チャンプを継ぐ男』。私もTOHOシネマズ日本橋、六本木で見てまいりました。2回、見てまいりました。先ほどのメールにもあった通りですね、たしかに『ロッキー』シリーズの単に七作目というより、スピンオフ的に主役を交代しての新章スタートというね、そういう感じだと思いますけどね。まあ、『ロッキー』シリーズ、どういう意義を持っているか?なんて、特に76年の一作目がどういう意味を持っているか?なんてここで説明しなおしている時間はもちろん無いです。
まあ、町山智浩さんの、たとえば『映画の見方がわかる本』の町山さんの名文。読むだけで本当に泣けてくるような名文・名解説。あるいは、以前にこの番組でもね、映像ソフト化してほしい作品特集という特集をやった時に、音声のみですが流させていただいた、荻昌弘先生。月曜ロードショーでの、やはり聞くだけで目頭が熱くなってくる超名解説。まあ、どっかで見れたりはするかもしれませんからね。
こちらを本当にね、3分で理解できますから。見て、聞いていただきたいんですが。まあとにかく、荻先生の言葉を借りれば、『ロッキー』一作目。『これは人生、するかしないか?の分かれ道で「する」を選んだ勇気ある人たちの物語です』っていうことなんですよね。
荻昌弘 映画解説『ロッキー』
で、まあその『ロッキー』シリーズ。今回のを入れて七作とするならば、1990年の第五作目。『ロッキー5 最後のドラマ』以降はですね、スタローン自身の加齢もあって。スタローン自身1946年生まれですから、いま69才。ずっと終わり方というか、終わり場所を探し続けてきた。90年以降、ずっとそうだった。で、『世代交代なしよ』と・・・後味の微妙さがいまとなっては捨てがたくはあるけど、当時は大不評だった『5』を経てですね、16年後。2006年に先ほどメールにもあった通り、『ロッキー ザ・ファイナル』。まさかのロッキー現役復活っていうね、『ロッキー ザ・ファイナル』。
で、特にエンドロールなんですよね。エンドロール。一作目の成り立ちを知っている人には本当に号泣もののエンドロール。1人の売れない役者の情熱と夢が現実に世界を変えたという、それを示すエンドロールで、一応シリーズとしてはこれ以上ないほどきれいに終わっていたというのは先ほどのメールにあった通りだと思います。ちなみにこの『ロッキー ザ・ファイナル』。番組開始直後に、シネマハスラーとか始める直後にオープニングかなんかに曲をかけながら、なんか話をしましたよね。たしかね。
2007年4月に日本公開なんで、たぶん始まってすぐぐらいにちょっと話したと思いますけどね。ただ、その後もちょっと、よせばいいのにね。スタローン、本チャンの『ロッキー』ではもちろんないけど、『リベンジ・マッチ』とかあったじゃないですか。要するに、モロのロッキーじゃないけど、ロッキーのセルフパロディー的な元ボクサーっていうのを、しかもよりによって『レイジング・ブル』のデ・ニーロとコメディー的に演じた『リベンジ・マッチ』という作品。
まあ、作品としてそこまで悪い作品とは思わないけど。でも、やっぱりファンとしては『ええーっ!?「ロッキー ザ・ファイナル」であんなにきれいに終わっているのに、茶化さないでよ』っていうか。晩節を勝手に汚された感じがするみたいな思いがしていたのはファンとしてちょっとあったと。なので、今回の『クリード』もですね、こちらも先ほどのメールにあった通りですね。オールドファンほど、最初に話を聞いた時は『ええっ、まだやるの?ファイナルで終わっているのに・・・』って。これ、誰もが思ったことだと思いますね。
っていうのは、スタローン自身もそう思っていたっていうことなんだから。はい。まあ、若干懐疑的だった人は多いんじゃないでしょうか。それこそ、『誰の意向か知らないけど、まだロッキーで儲けたいの?』なんて、そういう考え方もできたかもしれません。ただ、実際にはこの映画、成り立ちからしてそういう、大方のゲスい想像。『どうせ誰かが儲けたくて、映画会社が勝手に持ち上げた心ない企画なんでしょ?』とは正反対の作品だったっていうことですね。
これはインタビューなどでも、監督、脚本、原案のライアン・クーグラーさんが言っている通り、彼が出世作『フルートベール駅で』という2013年の。これは、実話。地下鉄の駅のところで、手錠をかけられて伏せている青年の背中から撃つところを地下鉄の乗客たちがいろんなスマホとかで撮っていて。それがYou Tubeに流れて・・・っていう。それの彼の、撃たれちゃった青年のバックストーリーというか。その、撃たれるまでの一日を描く『フルートベール駅で』。これも素晴らしい映画でしたけど。
まあ、その出世作の『フルートベール駅で』を作る前から温めていた計画。ライアン・クーグラーが。もちろん、だから全くの無名ですよね。長編映画を撮ったことがないような立場で温めていて。それこそ、スタローンにですね、持ちかけていたという。っていうのも、当然スタローンもちょっと最初から『OK!』っていうわけじゃなくて、渋っていた。当然のことながら、さっきから言っているように、『ロッキー ザ・ファイナル』できれいに終わっているし。あと、なによりもライアン・クーグラーさん。『熱意はいいけども、お前、まだ長編映画撮ったことないでしょ?』って。そりゃ渋りますよねっていうことなんだけど。
まあ、『フルートベール駅で』の成功を受けてもう1回、話を持っていって・・・っていうことらしいんですけど。つまりこれ、映画を見た人ならわかりますけども、劇中の主人公のアドニス・ジョンソン。ドニーこと、アドニス・クリード。アポロ・クリードに対してアドニス・クリード。ギリシャ神話つながりっていうことですね。アドニス・クリードとロッキー・バルボアの関係そのものなわけですよね。かつての、伝説的な存在がもう引退しかけてて。最初は渋ってるんだけど、若い情熱にほだされて、手を貸し、次第に新たな家族になっていくというね。
もう完全にあの映画の2人の関係はもう、ライアン・クーグラーがやったことそのものなわけですね。口説き落としたというね。と、同時に、これも町山智浩さん。『たまむすび』などで話されてましたけども。一作目の『ロッキー』を作った時の無名の映画人たるスタローンっていうのの出発点とも重なるというので。な、わけですね。だから要するに、商売っ気で作られた映画じゃ実はないと。
で、実際に出来上がったこの『クリード』という作品はというとですね、これは私の結論というか。先に断言させていただきますけども。僕はこれ、事前の予想を遥かに・・・まあ、『フルートベール駅で』を撮った人だって聞いたら、悪い映画じゃないんだろうと思っていたけど。僕、これちょっとびっくりするぐらいの大傑作だという風に僕は思っています。昨年度のシネマランキングには間に合いませんでしたけど。入れるとしたら、3位以内は確実ですね。
で、もう順番はよくわかんないっていうぐらい。うん。いや、もう俺、『ええっ!?すごくない、これ?』っていう風に思っています。番組アドバイザーせのちんさん。妹尾匡夫さんがおっしゃっていた通りですね、もう開幕数分。っていうか僕、数秒で『あ、これはいい映画でしょ』っていう風に確信できる感じ。最初に映る画はですね、とてもドキュメンタリック。ものすごい無造作に映された廊下から始まるんですね。
とてもなにか、すごく劇映画的じゃない画角なんですよ。撮り方が。ドキュメンタリックに始まる。で、何が始まる・・・っていうか、『えっ、これ、ロッキーだよね?』っていう感じで始まると、あれよあれよという間に、『えっ、えっ、えっ?なに?なに?』っていうことが起こって。そこからカメラがですね、やおらこう、ドキュメンタリックに手持ちで持っているだけかと思ったら、ステディカムなんですね。これ、実は。スーッと動き出して。そこから一気に物語世界の中に、文字通りグッと引き込まれるオープニングになっている。
効果的なステディカムの長回し
全編に渡って、非常に効果的に使われるステディカムの長回しっていうのでグーッと引き込まれるっていう。で、せのちんさんが指摘してましたけど、たしかに、その後主人公のアドニス。ドニーが子供の時の場面があるんですけど。そこの握っていた拳の演出っていうところがね、きめ細かな人間演出みたいになっていたりして。もうこのオープニングのところだけで、『うわっ、これ、すげーいい映画じゃないの?』っていうのがもうわかるようになっていると。
で、ステディカムの長回しでグーッと引き込まれてしまうと言いましたが、こんな風にですね、この映画『クリード』という作品全体が、特に、たとえば『ロッキー』一作目のスピリット、出発点と重なるって言いましたけど、たしかに70年代アメリカ映画的なザラついたストリートの質感であるとか。あるいは見せるところ。会話シーンとかで見せるところはじっくり抑えたタッチで。長回しの会話とかでじっくり見せる語り口などは、スピリットとして一作目のロッキーを受け継ぎつつも、全体としてはやっぱりさっき言ったような、オープニングのステディカム長回し使いとかですね、大胆かつ緻密な・・・
要するに、長回しでグーッと回っていってずっとカットが続くっていうことは、ショットの構成がすごく緻密なわけですけども。大胆かつ緻密なショットの構成とか。あと、他にすごく今回の映画で印象的なのは音響処理ですね。音響処理。音楽も含めた音の鳴らし方がものすごいいまっぽいんですよね。要するにちょっと自然音風に響かせてから、こうグッと、ガッとメインでかけたり。その逆も然り、みたいな。そういうところでですね、とにかく音の使い方といい、カメラの使い方といい、全てにおいてちゃんと若々しい感性の映画になっているところが本当に素晴らしいと思いました。
要するに、スタイルとして昔の映画をそのまま踏襲するということは別にしていないというあたり。で、その主人公アドニス。子供時代、98年から一気に時代が飛んで、現在の青年になったマイケル・B・ジョーダンという。『クロニクル』とかに出ていたマイケル・B・ジョーダンが演じる現在のアドニスになるわけですけども。
ちなみに、地下ボクシング的なところから始まるっていうのはほぼ一作目を踏襲してるんだけど。ここでのボクシングスタイルが、僕、この間玉袋筋太郎さんと飲んでいて。玉さんが『クリード』、すごく感動していたんだけど。『最初のあのメキシコの試合のところで、アドニスが結構棒立ちでボクシングするから。これ、ダメじゃん?って思ったんだよ。今回、ボクシング指導がなってないんじゃないか?って思ったら、後からちゃんと理由があるのがわかったんだよ!』って。要するに、自己流だからフットワークはぜんぜんできてない。フットワークはロッキーから学ぶ。そしてロッキーももともとはフットワークが苦手なボクサーだったわけですからねというね。まあ、そんなのがあって。
とにかく、現在の主人公っていうのがそこから一幕目。第一幕の主人公の境遇が描かれているんですけど。まあ、はっきり、表面的に言えばかつてのロッキーと非常に対照的ですよね。端的に言って、社会的にはまあ、恵まれているように見えるっていうことですね。これ、マイケル・B・ジョーダンさん、非常に端正な顔立ちなので、そこすごく、『ああ、育ちいいんだな』っていうのが自然に出ていてよかったと思いますが。ただ、端的に言って社会的には恵まれているように見える。劇場でも、繰り返し、ボクサーらしからぬ育ちの良さみたいなのを指摘される場面が何個かある。
これ、あえて言えば、日本の漫画『がんばれ元気』的。これ、高橋芳朗くんも指摘してました。『がんばれ元気』的というか。ただ、アメリカのこういうスポーツ映画で、そういう育ち悪くないコンプレックスみたいなのが描かれるって、結構フレッシュだなと思ったんですけど。ただ、これやっぱ意外と抱えている人は多いコンプレックスだと思うし。そして彼は、社会的には恵まれてはいるけれども、それゆえに、余計に自分の何者でもなさみたいなのが・・・要するに、経済的に恵まれていくらいても、『俺は何者なんだろう?』っていうことは彼の空虚さっていうのは、むしろそれが、空洞が大きいことになっちゃう。
で、要は単に恵まれている・・・俺、恵まれているけど、ボクサーらしからぬけどっていうのはすごく表面的な話で。いちばんキャラクターの抱えているその葛藤の部分でもっとも大きい部分。かつ、普遍的な部分。要するに、あんな金持ちはいないですよ。あんな金持ちはいないですけど、見てる我々が見ていて、『ああー、共感できる』って。誰もが共感できる普遍的に思うことは、要はこういうことだと思うんです。全てが終わってから生まれてきた世代。っていうか、全てが終わってから生まれてきたと思い込んでいるし、思い込まされてきた世代のコンプレックスっていうことじゃないでしょうかね?
全てが終わってから生まれてきた世代
これ、要はですね、なにか真に偉大な人たちが活躍したような時代っていうのはとっくに過去に、伝説の領域になっていて。で、その後にね、ずーっと後に生まれてきた。それこそもう、自分が生まれる前に過去は死んじゃったりしていて。自分たちはその影を追ったりとか、そのコピーを虚しくするしかないのか?みたいな、そういう時代認識。たとえばこれ、映画だってそうじゃないですか。たとえば、『もういまの映画は、見る価値ない』とか。いや、そういう物言いはわかりますよ。
映画の黄金期とか、素晴らしかった時代っていうのがかつてあって。それこそ僕らが生まれるはるか前にそれは終わっていて。それは、たしかにそのものを知っている人からすれば、きっとそうなんでしょう。でも!っていうことですよね。主人公のドニーが実際にはネクタイを締めて、すごいいい仕事をしてるわけですよ。でも、メキシコでボクシングをやったりして。でも、それは周囲に隠してやっていると。で、深夜1人でなにをしているか?っていうと、You Tubeで、会ったこともない父親。アポロ・クリードの試合映像を見ているわけです。
で、その試合映像を見ているうちに、思わず立ち上がってシャドーボクシングを始める。シャドーボクシングを、父親の試合の映像に重ねあわせ出す。あそこが全てを僕、語っていると思うんですよね。さっき言ったように、たとえ全てが偉大な時代は過去であって。つまり、偉大な時代っていうのは全てYou Tubeにアーカイブされた映像でしかない。もうYou Tubeを見ていれば全てが済む時代なのかもしれないんだとしても、体が!動いちゃうんだよ!俺だって、やりたいよ!You Tube世代だって、自分たちで何かをしたいっていう衝動がなくなるわけじゃないでしょう?
過去に偉大な文化のアーカイブがあれば、何も作る気が起きないって言うんですか?だから、そう。だからあのシーンだけで僕はもう、いまを生きる人間として。要するに、たとえば映画ひとつとってみたって、音楽ひとつとってみたって、全てに遅れてきたからこそこんなザマになっている・・・いや、でもさ、ただ何かをやりたいからヒップホップをやるとか、映画をいまだにこんなに熱く語ったりとか。そうだよね!昔の映画だって、昔の試合だって見て、素晴らしいと思うけど。でも・・・俺はどうすりゃいいんだよ!?っていう。
だからもう、あそこだけで涙があふれてくるし。そして、全ての実は『新しいもの』。『新しいもの』っていうのはこうやって生まれてくるんですよね。全てが終わった時代っていうのを前提に、何を始めるっていうね、こちから始まるんじゃないですかね?だから、これはおそらく、若き作り手としてのライアン・クーグラー自身の本当に心の叫びであり、そして俺はやっぱりね、この映画。その場面もそうだし、この映画全体がこれからを生きる全ての人たちを鼓舞する素晴らしいメッセージをたたえているという風に思いますね。そこに、ものすごく感動いたしました。
事実、さっきも言ったようにスピリットはきちんと過去に学びつつ、この間の『スターウォーズ』の話で言えば、おやじ接待映画に終わらないどころか、ちゃんと映画の語り口。文法としては若々しい映画にちゃんとなっているわけですよ。70年代にこういう語り口の映画、ありますか?できないわけですから。たとえばですね、見た誰もがぶっ飛ぶであろう中盤の試合シーン。2ラウンド。ボクシングの試合2ラウンド。本当だったら3分・3分だけど。ちょっと時間のところは進めていますけど。2ラウンドノンストップで長回しで見せると。
しかも、この長回しシーン。これだけでも驚愕なんだけど。デジタル的なポストプロダクションしていないんだ。本当、マジ1テイクなんだそうです。全部で13テイク撮って、11テイク目を使ったってインターネット・ムービー・データベースに書いてありましたけど。とにかく、あそこの何が素晴らしいって、もちろん1ショット長回しの臨場感っていうのも素晴らしいんだけど。要は、ずーっと同じカットが、試合がカーン!って始まって、試合をやって。ずーっとカットが持続してグルーッとカメラが回ったりして。カットが持続することによって、見ている側は、これ、いつカットが変わっちゃうのか?
わかりますか?いつ、この長いカットが切れるのか?つまり、この長いショットが切れるその瞬間、この危うく続いている均衡が崩れて何かが起こる。たとえば、向こうのパンチが来るのか、何なのか。とにかく、何かが起こってしまう。この持続が終わる時、何かが起こる。どこまで続くんだ、この長いショットは!?っていう。
つまり、その予感をずっとたたえながらショットが続くから、映画っていうメディアの特性と物語上のハラハラっていうのがシンクロしているから、見ている間、もう主人公が軽くでもパンチを食らうと、『あっ、いやっ、そこ・・・うわあ・・・』って。もう、思わず目をつぶったり、避けたりしてしまうような。臨場感というか切迫感っていうのが、見ている僕たち自身がそのショットの持続がいつ切れるんだ?というのと一致するというね。この見事な長回しの効果の上げている場面じゃないでしょうかね?
あるいはですね、音楽とか音響の使い方がいまどきのセンスで上手いっていうのもね、さっき言った通りなんですけど。特に、ヒップホップ・R&B使いがすごく上手くてですね。それがいまの映画感っていうのをもちろん出しているんだけど。当然、フィリー勢。フィラデルフィアが舞台ですから。ロッキーと言えばフィラデルフィアっつって、フィラデルフィア名物みたいなのを。音楽もそうだし、食い物もそうだし、場所もそうだし。あと、バイク文化もそうですし。フィラデルフィア名物映画みたいなのもきっちりやっているっていうのも、本当素晴らしいところで。
素晴らしい音楽使い
音楽もね、ミーク・ミルとかね、ニッキー・ミナージュの元カレ・・・まあ、その話はやらなくていいや。ルーツとか、ジョン・レジェンドとか、そういうフィリー勢の起用はもちろんのこと。これも高橋芳朗さんが指摘していたけど、主人公のアドニス、ドニーとロッキーが最初に訓練を始めるシーンで、ナズとオル・ダラっていうナズのお父さんがジャズミュージシャンで。それの作った曲で・・・ああ、これこれ。『Bridging the Gap』。素晴らしい曲ですね。
これがかかったりなんかして。歌詞の意味とそれがシンクロしているとか。まあ、普通にこの世代の音楽感として上手いなというあたり。
あと、あれですね。アドニスの世界戦のチャンピオンと戦う時の入場曲が2パックだったりなんかしましたよね。ああいうのもあった。あと、ヒロインが音楽をやっていると。歌をやっているんだけど、そのヒロインのやっている音楽の音楽像。なんかエレクトロR&Bっていうか、なんていうか。すんごいおしゃれな感じっていうの。あれ、やっぱりフィラデルフィアのライブハウスだったらこういうの、あるかもねっていうね。あのあたりとかね、すごくフレッシュでしたね。
こういう映画だと、だいたいああいうので出てくる歌姫って糞ダサい音楽をやっているんだけど。珍しく、観客よりも一歩進んだ音楽像を提示していて良かったんじゃないでしょうか。音楽で言うと、オリジナル・スコア。メインの劇伴の方はルートヴィッヒ・ヨーランソンさんというスウェーデン出身の方がやっているんだけど。ビル・コンティのすごく有名な音楽。メロディーはそうですし、
あと音色ね。カーン!カーン!っていう、ゴングを使ったあの音色の数々をとても抑制された形で。本編ではここぞ!っていうところで薄っすらだけちょっと流したり。ちょっとだけ短く流して。とっておいて、抑制して抑制してっていうところをやっているからこそ、クライマックス。とっておきの瞬間にドーン!って出すのがまあ効く効くっていう。その直前のね、駆けめぐる走馬灯の中で、最後に一瞬見えたものとは?っていうのとセットで、もうね、目から失禁っていうか。もう、ジョーッ!っていうね。ラストラウンドの始まりの瞬間、僕はもうですね、魂を鷲掴みにされるというか。
ただ泣くというか体が震えるような興奮というか。『すっごい!いや、素晴らしい!素晴らしい!うわーっ!!』って。盛り上がってきましたね。試合の場面で言うと、チャンピオンのコンランの入場の時の演出の映像的なかっこよさの半端なさですね。あの映画のさ、シネスコサイズのあれが、あれだけ長い時間、真っ暗になるのも結構珍しいじゃないですか。で、やっぱりオープニングと同じですけど。『えっ、なになになに?』って思わせておいて、フッとこうね、びっくりするようなビジュアルで登場してくるというね。このあたりも盛り上がるあたりでございました。
とにかくですね、全てが終わった後に生まれてきたコンプレックスを抱きつつも、過去の伝説の輪郭を追い求めるうちに、己の中にもその伝説と同じ本質が息づいているんだ。別に諦めることはないんだ。俺だって、新しい話を始められるんだ。そういうことを学び、ついには自らが新たな物語を紡ぎだす立場になるという。この構造が、そのまま作り手たちの立場とか心情とも重なるという作品という意味で、僕はやっぱり『フォースの覚醒』と同時代性をすごく感じましたし。
その他のいろんな、たとえば他のジャンルの。この間、橋本吉史名誉プロデューサーと話していて。たとえば、格闘界のRIZINとかね。あれとかとリンクするその同時代性みたいな。いま、要するにポストモダンの時代とかいろいろ言っているけど、そっからまたちゃんと新しいことを始めることはできるじゃないか!っていう。なんか時代の力強い一歩を『フォースの覚醒』もそうですし、僕は『クリード』にも感じました。
そこを『商売っ気』みたいなことで片付ける言説を聞くと、とっても頭にくる!っていうことですね。あと、音楽の抑制された使い方。『フォースの覚醒』、そういうところもね、重なりますね。ああー!あの完全老人モードのスタローンの素晴らしさとか、ちょっともうね、ぜんぜん全て、ディテールを語りたくてしょうがないんですけど。はい。ということで、本当に僕はこれ、ちょっとびっくりするぐらい素晴らしい作品になっていると思いました。
全ての、物を作ったりとか、新しい時代を歩んでいこうっていう人たち全てを鼓舞する素晴らしい新時代の一作になっているんじゃないかと思いました。本当に劇場でいま、ウォッチしてください。俺もまた行きます!
(CM明け)
『クリード』話で言うと、さらに玉袋筋太郎さん。飲んだ時にいろいろ話していて。たとえば、主人公のアドニスにロッキーがつけるカットマン。止血係。ああいう人たち全部、最高峰の人たちらしいですよ。あのカットマンの人。もうどんな出血も止めちゃうっていう、魔法のカットマンらしいですよ。なんてもことも。要するに、結構ボクシング描写も、誇張はあるにせよ、いままでの『ロッキー』シリーズとくらべてもいちばんむしろきっちりとしてるぐらいじゃないのかな?というような話でございました。『クリード チャンプを継ぐ男』、ぜひね、見ていただきたいと思います。
<書き起こしおわり>