映画秘宝のアートディレクター高橋ヨシキさんがTBSラジオ タマフルにゲスト出演。著書『暗黒映画入門 悪魔が憐れむ歌』出版記念 映画が残酷・野蛮で何が悪い特集と題し、宇多丸さんと映画の残酷・野蛮表現や自主規制などについて語っていました。
(宇多丸)今夜の一応、問題提起としてね、堅い話じゃないかもしれないけどね。残酷描写や野蛮描写の自主規制が結構いま、日本では厳しい。
(高橋ヨシキ)まあ、厳しい。厳しいっていうか、厳しく勝手にしてるんですね。
(宇多丸)まあ、そうだね。自主規制の問題か。で、そういう風潮に対して、そういう風になっていくとどうなるのか?じゃないですけど。それはどういうことなのか?じゃあ、残酷描写や野蛮描写っていうのは、なぜ必要なのか?とかそういう話にもなっていくでしょうし。といったあたりを、時に真面目に、時にどうでもいい感じで話していければと思っております。
(高橋ヨシキ)はい。
(宇多丸)はい、ということで、前半。いま、本当に暴力描写、残酷描写っていうのは・・・?
(高橋ヨシキ)いや、あるところにはありますよ。そりゃ、もちろんね。たとえば、そういうのが治外法権になっているところがあって。たとえば、三池(崇史)さんの映画とかね。
(宇多丸)ああ。でも三池さんの映画ってのは、どメジャーじゃないんですか?今や。
(高橋ヨシキ)まあ、ですけど。だからああいうのは、一種の治外法権になってるっていうか。
(宇多丸)三池崇史が治外法権っていう(笑)。
(高橋ヨシキ)園(子温)さんとかも、ちょっと治外法権っぽくなってますよね。で、あとたとえば、それで言ったらジブリとかも治外法権ですよね。
(宇多丸)ああー。結構エグい描写、全然ありますもんね。
(高橋ヨシキ)そういうのはいくらでもやっていい人っていうのはいて、で、一方でやっちゃいけないのが残り大半じゃないですか。やっちゃいけないってことに、”されている”。
(宇多丸)別に法律に書いてあるわけじゃないですけどね。
(高橋ヨシキ)当たり前ですよね。これからそういう法律できそうで、もうイライラしてますけどね。
(宇多丸)あ、そうか・・・これ、だいたいどんぐらいから顕著になってきたと思いますか?だって昔は、日本のそういうエンターテイメントって、むしろそういうのやりたい放題だったから、世界的に・・・
(高橋ヨシキ)人気があった。
(宇多丸)そうそう。その話、前もしましたけどね。
(高橋ヨシキ)そうですね。とにかく、エロとグロばっかりだった時代が。その時だって、エロだグロだってブーブー言われてはいたんですよ。でもまあ、すごくそれがあったと。普通に。たとえば寅さん(男はつらいよ)がある一方で、みんなトラック野郎を見に行くみたいな時代があったわけじゃないですか。
(宇多丸)うんうん。
で、80年代からこういうのがそろそろ始まってきたんですけど。要はね、これ何かって言うと、結局80年代に何が変わったかって言うと、おしゃれになっちゃったんですね。
(宇多丸)おしゃれ?
(高橋ヨシキ)おしゃれっていうか、文化っていうものが、生活のために頑張ってなんとかっていうよりも、かっこつけたりするのにお金使ったり。スパゲッティっつっても、ナポリタンじゃなくてパスタって言え!みたいなさ。なんかそういうことになってきて。着るものとか住むところとか、かっこよさに金を使うようになった時代と、俺は実は並行してるんじゃないかとちょっと思ってるんですけど。
(宇多丸)なるほど。まあまあ、豊かになったというか、分かりませんけど。用語が正しいか分からないけど、ポストモダンみたいなそういうような時代に入ってきたっていう。
(高橋ヨシキ)そうそう。で、そのころにたとえばですね、僕の大っ嫌いな一連の映画があったじゃないですか。あの辺が最悪の出だしだと思ってるんですけど。私をどっかへ連れて行けとかそういうヤツですよ。
(宇多丸)(笑)。まあまあね。連れて行くことも必要ですからね。それはね。
(高橋ヨシキ)行っちまえ!とか思ってましたけどね。
(宇多丸)ヨシキさんだって連れてったりしてたじゃないですか?
(高橋ヨシキ)スキーに?行ってないですよ!
(宇多丸)スキーかどうか分かりませんけど、どこぞに連れて行って。
(高橋ヨシキ)ないですよ、そんなの(笑)。
(宇多丸)『ブルー・ベルベット』に連れて行って、置いていったりしてるじゃないですか。
(高橋ヨシキ)ブルー・ベルベットに連れて行ったりしましたね(笑)。
(宇多丸)そして、置いていったっていう。
(高橋ヨシキ)置いていった。まあ、最低なんですけど(笑)。それはいいじゃないですか!
(宇多丸)(爆笑)。そりゃあ、いいやね。
(高橋ヨシキ)で、だから80年代、そのへんからぼちぼち始まってきて。
(宇多丸)要はホイチョイ(・プロダクションズ)的なとかね。いろいろありますけど。
(高橋ヨシキ)で、ああいうところっていうのは結局何かって言うと、やっぱりそのマーケティング志向みたいなことがあってですね。ちょっとイヤらしいんですよ。元々。で、何でマーケティングがイヤらしいかっていうと、結局忖度をするからなんですよね。だから、上から目線で『いまの観客はこういうものを求めてるはずですから、これが当たりますよ』っていうプレゼンをやるわけじゃないですか。で、それってどうなの?って思ってるんですけど。つまり、いまの観客っていうのは、そいつの想像力の範疇にしかないっていう前提でしょ?何でお前、そんなに知ってるの?って話になるじゃないですか。
(宇多丸)なるほどなるほど。
(高橋ヨシキ)だから有名な話ですけど、昔『E.T.』がアメリカで公開前にマーケティング会社にリサーチかけたら、『こんなの、超当たらねー!』って言われたんですね。宇宙人がキモいし、良くて幼児とそれを連れてきた親ぐらいしか入んねえって言われたら、フタ開けたら世界一じゃないですか。
(宇多丸)あ、そうなんですか。
(高橋ヨシキ)だから僕はマーケティング屋とかの言うことは1個も信用しませんよ!
(宇多丸)なるほどなるほど。それでしかも儲かるんだったら、別にみんな苦労しねーやって話だもんね。
(高橋ヨシキ)いや、本当ですよ。
(宇多丸)ただまあそういうものが、強くなってきたと。
(高橋ヨシキ)それがだから何だろう?僕ね、大きいのは90年代後半だと思うんですけども。たとえば、携帯小説が悪いとは言いませんが、携帯小説の映画化とかで、宇多さんとかも大分痛い目にあってきたものがいくつもできてきたじゃないですか。で、そういうのがあるのと並行して、テレビにテロップが入るっていう現象が、非常によく目立つようになってきてですね。つまり、それまでもね、80年代とかだって、テレビとかって大分視聴者のことをね、幼児扱いはしてきてるんですけども。それがさらに加速したのが90年代ぐらいなのかなって。つまりね、何でこれがいま話している話と関係あるかっていうと、残酷なものとかショックとかエロとかってものは、子供向けじゃないからお前らには刺激が強すぎるだろ?って言われてるんですよ。だから、俺たちはバカにされてるの!
(宇多丸)あの、本来大人の・・・だから住み分けができてれば問題ないことなんですかね?
(高橋ヨシキ)住み分けできてなくたっていいぐらいですよ。
(宇多丸)なくたっていいぐらいなんだけど、要は大人向け表現みたいなのが居場所がなくなったと。
(高橋ヨシキ)そうですね。全員お子ちゃま扱いされちゃうみたいな世界になっちゃったってことは、ちょっと思ってますね。
(宇多丸)なるほどなるほど。
(高橋ヨシキ)それで、学校とかで読書感想文とかなんとかで、先生が喜ぶ返事ってあるじゃないですか?そういうことを、なんか観客に求めてるんですよね。『感動しました!』って言えっていうのは、そういうことじゃないですか。
(宇多丸)ふんふんふん。観客にも求めてるし、作り手がそういうある程度内面化して作るようにもなっちゃったということですかね。
(高橋ヨシキ)その内面化っていうのは、大変に大問題ですけど、そう思ってますね。そうやって、手取り足取りやって、人を幼児扱いしてると何が起きるかっていうと、幼児扱いされてる人ってバカになっちゃうんですね。早い話が。バカになっちゃった上に、判断力も低下してきますから。そうすると、それがだんだん狭いものの見方につながっちゃって、『見たいものしか見たくない』とか、そういう幼児的な欲望を平気で口にして、はばかることのない感じっていうのが・・・なんか俺、真面目な話してるな!今日。
(宇多丸)いやいや、いいと思いますよ。っていうのはこれは、まさにこの本(暗黒映画入門 悪魔が憐れむ歌)の冒頭にも書かれてますけど。本来なら目をそむけたいものにショックを受けて、そういうものに一瞬でも目を向けさせるために、残酷表現とか野蛮表現みたいなので、そういうのを見て、現実の、本当の有り方みたいなのを時折だけでも目を覚ますみたいな効果があるんだみたいなことを、最初に書かれてるじゃないですか。
(高橋ヨシキ)ええ。
(宇多丸)前もこの話、したかもしれないけど、僕らがホラー映画だとかそういうのが好きなのは、マジ怖え!って思ってるからでさ。ショック受けてるんだよと。
(高橋ヨシキ)ああ、そうですよ。受けてますよ。
(宇多丸)全然そういうのが平気で、血を見るのが好きだとか、そんなのの真逆だって話をさ、昔したと思うんですけど。いや、だからそれで、そういうことが世の中にはあるし、そういうものなんだってことが分かっているのと、それが『無い』ものとして扱われちゃうものだと・・・
(高橋ヨシキ)そうなんですよね。その、バーチャルワールドになっちゃうんですよ。要はだから幼稚園児の世界みたいなもんで。幼稚園児って、家と幼稚園とを往復して、お母さんとか家が守ってくれるから、ある程度の普通の家だったらね。とんでもないところは別ですよ。すごい地区とかあるって聞いてますけど。そうじゃないところの子っていうのは、だいたい基本的にお母さん、お父さんが守ってくれていて、学校行けば先生がいて、友だちがいて。で、その間しか世界がないじゃないですか。横の道路でヤー公が誰かブッ刺してたとか関係ない世界なんですよね。
(宇多丸)うんうん。
(高橋ヨシキ)だけど、それは現実としてあるから。幼稚園児の目には入らないように、かたくプロテクトされているわけで。ところが俺たちは大人なのにも関わらず、そのものが目にふれないようにって、なんか気遣い勝手にしてくれる幼稚園の先公みたいなヤツがどっかにいるんですよ。だから、何なの、それ?っていうね。俺たちは大人だから、ヤクザがなんかやってたら、ちょっと野次馬的に見たいじゃないですか。どうなの?って。それって何でやらしてくれないのかな?っていう話ですよね。それは。
(宇多丸)これ、でもさ、不思議なのはね、たとえばテレビとか映画も・・・バジェットの話か分かりませんけど、要はね、マンガとかだと普通に大ヒット作がね、結構それこそヤクザがね、ブッ刺してる話をさ。たとえば『(ヤミ金)ウシジマ君』なんて大ヒットなわけじゃないですか。で、みんな普通に読むわけじゃないですか。マンガとかだと割とポップ表現としてそういうの、全然まだ成り立ってるのに・・・
(高橋ヨシキ)ありますよね。『シグルイ』とかね。
(宇多丸)そうどう。なんでこの差があると思います?
(高橋ヨシキ)あれ、何なんですか?僕もすごい謎で。だってそれって小説だってやったっていいわけでしょ?
(宇多丸)小説も。マンガ・小説は比較的ね。まあ、小説はたぶん読む人が比較的その時点で限られるっていう線引きがあるのしれないけど。
(高橋ヨシキ)テレビですよ。テレビ。
(宇多丸)テレビ。
(高橋ヨシキ)映画もだってテレビ局がすっげー出すようになってるんで。今、お金とか。
(宇多丸)テレビ基準になってきてる。
(高橋ヨシキ)テレビ基準になっている上に、テレビもだからその、地上波しかないんですよ。他のテレビっていっぱいあるけど。CSとかあるけど。その人数とか影響力で言ったらね。
(宇多丸)まあ、そうですよね。いくらテレビ見なくなったって言ったってね。
(高橋ヨシキ)いや、みんな超テレビばっか見てるじゃないですか。そうじゃなかったら、何だっけ?宮崎アニメの変な呪文でtwitterが落ちるとか。落ちたんだか知らないですけど。
(宇多丸)ああ、『バルス』ですか。
(高橋ヨシキ)あれ、見たことないんですけども。なんかそういうの、あんでしょ?お祭りみたいなのが。だからそれって、みんな超テレビ見てる!ってことじゃないですか。
(宇多丸)俺、ライムスターがね、これだけいろいろ活動してきて、言われるのがあの、『(笑って)いいとも』出演のことだけっていうね・・・
(高橋ヨシキ)ああ、そういうことですよ。恐ろしいことだなって思ったんですけどね。だから、テレビのこととかね、ネット好きな人とか若い人で、ネットにどっぷりの人ってすごいテレビの悪口を言うけど、実は超見てますよね。
(宇多丸)いや、そう思います。って言ってる人が、一番テレビしか見てない気がします。
(高橋ヨシキ)そうそう。見て怒ってるの。
(宇多丸)うん。っていう感じはあるな。ちなみに、その表現とかで『ゾーニング』っていうの、あるじゃないですか。さっき言った大人向けなら大人向けの線引きみたいなのが。それがちゃんと出来てればいいっていう考え方なのか、それとも、そんなもんは!ってことなのか?
(高橋ヨシキ)ゾーニングはある程度はあった方がいいと思いますよ。それは。だって僕だっていくらなんでも、あった方がいいです。それは。
(宇多丸)昔はだからある意味、そこは野放しでしたよね。
(高橋ヨシキ)かなり野放しでしたね。
(宇多丸)それがある意味、日本がそれこそさ、本当に野蛮な状態にあったからかもしれないけど。
(高橋ヨシキ)そうですね。まだ野蛮だったですね。
(宇多丸)ある種、ちょっとポリティカリー・コレクト的なさ、あれが浸透してきて、それが過剰にしてるのが今の状態で。もっと成熟してきたら、じゃあ線引きしてやりましょうってことになったりとかならなかったりとか・・・
(高橋ヨシキ)なってもいいと思うし。それにしても、そのゾーニングはいいですよ。たとえば、とんでもないスカトロポルノとかを子供の目のつくところに置いておけ!とか俺は言いませんよ。そんなことは。当たり前じゃないですか。だけど、ゾーニングにしたって、じゃあゾーニングで分けてこっちの子供の見ていいものっていうのは、全部ふ菓子みたいなもんでいいのか?って思いますね。
(宇多丸)完全に無害なものであるっていうのは行き過ぎだし。
(高橋ヨシキ)完全に無害なものなんて絶対無いし。
(宇多丸)そう。これ、突きつけてくとそういう話になるんですよね。エクソシスト見て、人死が出ました。だからエクソシストは上映禁止とかそういう話なのか?っていうね。
(高橋ヨシキ)本当にそうなんですよ。
(宇多丸)そういう話につながってきますけどね。あとさ、我々大人側も、大人になる手前の部分で『これ、ヤバイよね・やっちゃいけないものだよね』を内面化しちゃってると、せっかくゾーニングがあっても、でも結局ヤバイよね・・・になっちゃって。たとえばゲームとかでさ、あったじゃないですか。完全に成人指定されているのに、なぜか表現がその、オリジナルからソフト化・・・
(高橋ヨシキ)そうそう。『ゴッド・オブ・ウォー』。ギリシャ神話の女神がオッパイ丸出しで出てくるから楽しみにしてたのに、日本版だけ布がついてたりするんですよ。
(宇多丸)マジですか!?そんな、シレーヌみたいなことに!マジですか!?
(高橋ヨシキ)そうそう。しかもSEXできるんですよ。ゲームで。なのに、そうなんですよ。しかも、侍女がレズるんですけど、そっちも胸に布が張り付いてて。俺がどれだけガッカリしたか!
(宇多丸)(笑)。でも、それは大人向けゲームになってる・・・
(高橋ヨシキ)そうなの。だから、だったらゾーニングとかなんとか言うんだったら、今だって映画だってレーティング、あるじゃないですか。レーティングあるんだったら、そこから先は大人の裁量なんだから、ボカシも何もかも、ハードコアでも何でもね、全部オッケーだっていうんだったら、俺はその契約っていうか、そういうディールは乗りますよ。
(宇多丸)うんうんうん。
(高橋ヨシキ)だけど、そうじゃないんだもん!大人向けのもんが、大人のチンチン見ちゃいけないとかね、意味が分かんないですよね。
(宇多丸)チンチン、見たことあるよ!っていうね。よく見てるよ、これ!っていう話ですもんね。という、問題意識をもとに、じゃあ具体的にいろんな作品のね、アレを見ていくっていうか。こんなに立派な作品もあったんだよっていう話をしていくっていう・・・
(高橋ヨシキ)なんかでもさ、あと宣伝の変な話もあって。最近だからちょっと話題になってるのは『ワールドウォーZ』ですけども。
(宇多丸)はいはい。まだ見てないですけど。当然。
(高橋ヨシキ)僕、ちょっとこれ、うろ覚えなんで正確じゃなかったら申し訳ないですけども。雑誌か何かの広告で、『Z、それはアルファベットの最後の文字』みたいなことが書いてあって。つまり、人類の終焉を意味する言葉をひっかけて『Z』ということが書いてあったわけですけど。言っちゃ悪いですけど、あれはゾンビ(Zombie)の『Z』だから。はっきり言いますけど。何、言ってるの?っていう。
(宇多丸)まあ、予告もワーッ!ってくるから、ゾンビかな?って思うけど。
(高橋ヨシキ)でも、『疫病が蔓延して・・・』とか言ってますよ。あれ。
(宇多丸)まあ、ゾンビは一応疫病か分かりませんけど、あれは・・・まあ、分かるようになってたけど、あんまりそこを推して宣伝してないっていうパターンは。なんかその、ジャンル映画っぽいところは隠して宣伝するっていうのは、結構あるじゃない?普通の宣伝のやり方として。流れとして。
(高橋ヨシキ)あの、まあね、そういうのの一番最悪な例が、よく言ってるけど『これはただのホラー映画ではない!』とか言うんですよね。
(宇多丸)はいはい。ただのホラー映画で何が悪いんだ?っていうね。
(高橋ヨシキ)本当に。ただのホラー映画見たくて来てるのに、なにそれ?っていう話になると思いますよね。
(宇多丸)でもそれは、だからゾンビ映画って言ったら観客が狭められちゃうからっていう。理屈としては・・・
(高橋ヨシキ)これはだから『ブラピが出てるゾンビ映画だ!』って言えばいいじゃないですか。
(宇多丸)まあ、そりゃそうだ。それが売りだもんね。実際ね。ゾンビ映画で、ブラピで、このバジェットで。なんてスゴいところまでゾンビ映画は来たんだ!っていう。
(高橋ヨシキ)これは金のかかったブラピの出てるゾンビ映画です!って言えば、ヤベエ!って話になるじゃないですか。
(宇多丸)1個も間違ってないんだけどね。うん。
(高橋ヨシキ)なんかそういうのもね。
(宇多丸)何でもいいからソフト化しておけ!みたいな感じがあるということなのかな?
(高橋ヨシキ)そう。ソフト化するっていうか、そうなんですよね。角を取って丸くしたいとか。あとね、今度は『不謹慎』とか言うんですよね。なんでもね。その話、後でもしますけど。ただ僕はその表現とかに関して言えば、映画とかでもそうですけど、尖ったところを無くしちゃったら、それはもう表現としての価値が消え失せることだと思ってますね。当たり前ですけど。暴力シーンを取った『時計じかけのオレンジ』に意味が、価値があるか?って言ったら、ゼロだと思います。
(宇多丸)そしてその時計じかけのオレンジも、さっきのエクソシストじゃないけど、それが存在することで世の中にネガティブなエフェクトを確実に起こしてしまった作品じゃないですか。
(高橋ヨシキ)本当ですよ。
(宇多丸)つまり、それはあの映画の危険なまでの力があるってことじゃないですか。だから芸術ってやっぱりそういう・・・
(高橋ヨシキ)芸術っていうか、表現っていうのは必ずそうですね。つまり、人に影響を与えないんだったら、それは表現じゃないんですよ。表現っていうのは、たとえば人と話ってことも表現でしょ?自分の考えを伝えるってことじゃないですか。考えを伝えるってことは、影響を与えるってことに他ならないんで。それがないんだったら、それ何?っていう話になるじゃないですか。全然意味が分かんないです。それは。
(宇多丸)なんだけど、そういうものが危険視されるような傾向がある。
(高橋ヨシキ)何か、人に悪い影響がって言われちゃうんですけど。いい影響とか悪い影響って、誰が決めるの?みたいなね、ことにもなりますね。
(宇多丸)それはやっぱり、子供扱いの範囲なのかな?最初からネガティブなものとアレが線引きされてるっていうのが。
(高橋ヨシキ)そうそう。お子ちゃま扱いされてるんですね。
(宇多丸)で、やっぱり世の中からグレイゾーン的なところを排除していくような動きみたいなものに。
(高橋ヨシキ)そうそう。白黒つけたいみたいなね。幼児的ですよね。
(宇多丸)この空気感と通じるのかな?って感じはしますね。要するにさ、悪い場所ってさ、必要っていうか。なのに、それを排除っていうか、少なくとも自分の目のふれないところに置いてしまう。でもそれって実は、本当にもっと危ないことになりかねないっていうかさ。ことでもあるし。これ、たとえばクラブ問題でも何でもいいですけど、ちょっとそれとも通じる話かなと。
(高橋ヨシキ)そうですね。だから白黒つけられないものなんて、いくらでもあるし。そっちが当たり前ですけど。それで、その白い側に立ってると思ってる人は、いくらでも残酷になれますから。
(宇多丸)自分に残酷な、野蛮なところ、汚いところが無いと最初から思い込んでる人が・・・
(高橋ヨシキ)一番凶悪。一番凶悪ですね。そういう人は誰でも殺しちゃうもん。悪いと思ってないから。
(宇多丸)だからやっぱりその、俺たちにはこういう野蛮なところ、あるよね!?残酷なところ、あるよね!?ああ怖い!!ってこう・・・毎回こう・・・
(高橋ヨシキ)本当ですよ。それをね、そこをちゃんと考えないことについては、なんか今日真面目ですね。あのね・・・
(宇多丸)(笑)。じゃあ時々、オッパイとか言ってくださいよ。
(高橋ヨシキ)オッパイとか言います。オッパイの話は大事。だから本当は最初に言おうと思ったんだけど。だって、映画なんて人がバンバン死んでオッパイが出るから見に行くんじゃないんですか?はっきり言って。
(宇多丸)まあそれ以外の映画もアンタ見てんだろ?って話をね、毎回してますけど。
(高橋ヨシキ)(笑)。まあ、毎回言ってますけどね。でも、いま言った話で言えば、たとえばね、この間も麻生とかいう人が、ナチがどうたらと不勉強な話をして大問題になりましたけど。たとえばね、ナチのことを考えた時に、下っ端の兵隊がですよ、将校とかもそうですけど、シンドラーのリストとかで言うとアウシュビッツとか収容所で働いているヤツは本当に全然普通に人をバンバン殺しちゃって。あれでも大分みんなね、神経やられたんですけど、やってりゃ慣れちゃうんですよ。いっぱい殺したりしてるうちに慣れちゃって、拷問もできるようになるし。これ、人間じゃないんだなっていう扱いは、日々やっていくうちに、あっという間に慣れちゃうっていうのが・・・
(宇多丸)あの、やる側もある種精神を守るために、そうなっていくっていうのもあるかもしれない。
(高橋ヨシキ)っていうは、俺、前からそれ考えてて。自分、その場にいたら超それになっちゃうなって思ってますよ。超やっちゃうと思う。
(宇多丸)でもその感じ、分かります。そういう時代になったら、俺、超順応しちゃうだろうなっていう。
(高橋ヨシキ)超やっちゃうと思う。だから、ほら、監獄実験みたいなやつで、映画でもあったじゃないですか。看守と囚人に分けて・・・
(宇多丸)ああ、ミルグラムの服従実験。
(高橋ヨシキ)服従実験とかやると、ああなっちゃうっていうのを、割とみんな、『とは言っても俺は平気じゃねーか?』って思ってる人が、一番危険だと思ってるんです。やっぱりね。これって、騙されないと思っている人が詐欺にかかるとかとちょっと別の問題で。何でか?っていうと、騙す・騙されない以前に人間は本質的に絶対そういうところあるんだから、やっちゃうと思うんだけど、そう思ってない人が俺は怖いなっていう話なんですね。
(宇多丸)だからね、ヨシキさん、ナチスの話よくするけど、それちょっと怖いな!って話をしてるわけですよね。
(高橋ヨシキ)めっちゃ怖いですよ。
(宇多丸)怖いよね。で、そういうのをちゃんと、めちゃ怖いと思わずに、そういうのをヘラヘラ口にだすから世界的に非常識ってことになる。
(高橋ヨシキ)問題になる。それは本当にそうで。だってね、たとえばだから弱いものいじめしてね、村八分にしたりね、誰かにオフィシャルに許可を与えられた形で暴力をふるったり、暴動やったり、もの壊したりするの、楽しいに決まってるじゃないですか。
(宇多丸)でまあ現に、それに近いね。犯罪扱いされなくても、そういうことやってるじゃん?っていうね。みんな全然やってるじゃん?っていうことですよ。
(高橋ヨシキ)だから、そういうことが楽しいし、そういうとこに行った時の一種のアゲ感みたいなのがあって、アドレナリンが出るしね。っていうことを、自分がやっちゃうんだぜってことを、絶対いつも考えておかないと危ないな、みたいなことなんですね。
(宇多丸)だからやっぱりその、それこそ教育的にね、さっきのゾーニングでね、子供に見せるものが無害化するってわけじゃないっていうか、やっぱり時々脅かさないとダメだよね。やっぱりそれはね。
(高橋ヨシキ)そうそうそう。やっぱり時々フェイントがあった方がいいんですよね。それはね。
(宇多丸)だからやっぱりさ、学校の図書館にいきなり『はだしのゲン』あって、それを小学校3年ぐらいになったら間違って手にとって、ギギギッ!っていうのを・・・
(高橋ヨシキ)ギギギでね。
(宇多丸)ギギギを知らないヤツはダメじゃないですか。それは。だからなんか、そういう・・・
(高橋ヨシキ)そうなんですよ。昔とかだから、テレビとかで日曜洋画劇場でそれこそ13禁とかやってた時代ですから。だから絶対間違って見ちゃうこととか、あるんですよ。ゲゲッ!?っていう。
(宇多丸)僕は、今日はテレビでエクソシストやるから、絶対6チャンネルは回すな!っていう厳命とかね。
(高橋ヨシキ)(笑)。怖いから。
(宇多丸)本当に。見てはいけないものだっていう意識はありましたからね。本当ね。という。じゃあ、具体的にね、こんなに恐ろしい世界を覗かしてくれる作品の数々っていう。
(高橋ヨシキ)作品の数々って、俺思ったんですけど。だって今回、本でもでっかく取り上げてますけど、そりゃあ宇多さんが話したいのは『アポカリプト』じゃないですか。
(宇多丸)いやいやいや!他にも別にヤコペッティの話とかしたいですしね。全然。ボブ・グッチョーネの話だって、したいよ。それは。
(高橋ヨシキ)まあ、『鮮血の美学』とかも載ってますけどね。『鮮血の美学』もいい映画ですね。
(宇多丸)いい映画の話ばかり載っているね、悪魔が憐れむ歌の話、具体的に伺っていきたいと思います。
<書き起こしおわり>
https://miyearnzzlabo.com/archives/15921