安住紳一郎 遠軽・北海道家庭学校の加藤先生との思い出を語る

安住紳一郎 遠軽・北海道家庭学校の加藤先生との思い出を語る 安住紳一郎の日曜天国

安住紳一郎さんが2024年6月30日放送のTBSラジオ『日曜天国』の中で5歳の頃に池北線で出会った北海道家庭学校の加藤先生との思い出についてトーク。以前、ラジオで話したことで加藤先生の関係者や家族の方からメールが届いたことなどを紹介していました。

(安住紳一郎)それからもうひとつ、実は嬉しい出来事がありました。この番組がきっかけということなので、ぜひ皆さんにも知ってもらいたいと思います。きっかけはですね、2ヶ月前になると思うんですが。4月28日の放送です。私が5歳くらいの時、姉と2人で祖母、おばあちゃんの家まで地元のローカル線、汽車に乗って出かけた。当時は国鉄なんですけども。4時間くらいかかる道のりだったんですけれども。2人旅をしたんですが偶然、その時に乗り合わせていた学校の先生に私たちきょうだいは面倒見てもらったんですよという思い出話をしたんですが。皆さん覚えてますでしょうか?

(中澤有美子)そうでした。

(安住紳一郎)その話をした時の録音です。

<音源スタート>

(安住紳一郎)昨日は北日本で記録的な暑さとなりまして。北海道の遠軽町で30.1℃。青森の三戸町で31.2℃を記録しています。北海道遠軽はオホーツク海側ですからね。ついこの間まで、流氷のあったところですから。ちょっとこの4月、桜がたぶんまだ咲いてないと思いますが。遠軽で30℃といいますと、私も18まで北海道でしたが。びっくりしています。

(中澤有美子)ねえ。網走とか、あっちの方ですね?

(安住紳一郎)そうです、そうです。遠軽町。北見とか網走とかのあたりですね。ちょうど私は遠軽の近くの美幌というところに4年間、住んでいまして。そこから汽車で……当時は池北線っていうのがあったんですけど。あ、かなりちょっとローカルな話になりますよ。すいません。ちょっとね、北海道でもあっちの道東の方に住んでる人にしか伝わらない話で。しかも40年前の話ですからね。これ、なかなか、聞いてる人で2人ぐらいわかればいいかなっていう話なんですが。

ちょうど池田と北見を結ぶ池北線。その後、第3セクターになりまして既に今はもう跡形もありませんけれども。池北線に乗って、ちょうど帯広にいるおばあちゃんの家に二つ上の早智子と一緒にその池北線に乗せられて。それで、4時間半ぐらいかかるのかな? 普通電車で。汽車、ディーゼルカーですね。

(中澤有美子)ええ、ええ。

(安住紳一郎)それで、ちょっとやっぱり当時は私、小学校に入ってなかった気がしますね。なんで、うちの姉の早智子は小学校2年生とかで。私が幼稚園の年長さん。その2人で4時間半ぐらいの。なかなかね、うちの母もスパルタ体質なんで。「行ってきなさい」なんて言って。そしたら、ちょうど夏休みの帰省のシーズンで。北海道の遠軽町に家庭学校っていう、ちょっと家庭にいろいろトラブルがあって。

家ではなかなか生活が難しいっていう風に判定された子供たちが預けられている……しかもそれ、民間なんですよ。大変珍しいんです。で、その家庭学校に預けられてる子供たちが夏休みになると、いろいろ他の都市に帰省するっていうので。で、その引率している加藤先生っていう先生が電車に、汽車に乗っていて。

(中澤有美子)へー! よく加藤先生って。

(安住紳一郎)覚えてますよね。それで、うちの母親は行商をやっているおばあちゃんに「帯広になったら降ろしてください」みたいなことを……これ、戦後の話じゃないんですよ? すいません。

(中澤有美子)だいぶ経ってる(笑)。

(安住紳一郎)だいぶ経ってますけどね。昭和55年ぐらいの話なんで。そんな、決して戦争が終わって2年とか3年の話じゃないんですけども。そうですよね。うちの母親がその行商やってるおばあさんたちに「この2人の子供が帯広で降りるから、よろしくお願いします」みたいなことを言って、預けるわけですよね。

(中澤有美子)「様子をちょっと見てください」っていうことですね。

(安住紳一郎)そうですね。で、もうドキドキしてるんですけどね。で、私なんかは結構、比較的小さい時から「1人の社会人としてしっかりやりたい」みたいな気持ちがあるから。小さいバスケットのトランクみたいなのを持って。「よろしくお願いします!」みたいなことを言ってさ。しっかりしてる少年だったんですけどもね。信じられないですけど私、ベレー帽とかかぶっていたんですよ(笑)。

(中澤有美子)僕ちゃん!

(安住紳一郎)僕ちゃんだね。結構、田舎に住んでる時はおしゃれだったんですよね。小さい、ありますでしょう? 小さいバスケット。下がパコンってなって。ほとんど何も入らないっていう。

(中澤有美子)そうそう。でも、おしゃれでかわいいですよね。

(安住紳一郎)中にはあらいぐまラスカルのぬいぐるみが入っていましたけども。で、ベレー帽ね。黄色いベレー帽をかぶってね。紫だったかな? おしゃれですよね。

(中澤有美子)坊や、かわいい!

(安住紳一郎)坊や、かわいい。白いタイツね。そして、黒い革靴を履いていたんですけどね。非常にね、エリート臭のする幼稚園児だったんですけども。まだ当時、いたんですよね。行商の皆さんがね。「よろしくお願いします!」なんて言ったら「ああ、私たちはね、ちょっと小さい子はあれだから。隣の車両に家庭学校の加藤先生が乗ってるから、加藤先生にお願いしたらいいんじゃないか」なんて言われて。「どういうことだろう?」と思ったら、その家庭学校の加藤先生がいて。男の先生でね、60ぐらいだったと思いますけど。で、「帯広に行くんです」って言ったら「ああ、そうか。この子たちもいますから」って。ところがそれ、家庭学校だからさ、結構さ、荒くれ者なのよ。「もう、きついな」って幼稚園児ながらに思ったね。「怖えな」って思ってね。

(中澤有美子)なんか雰囲気、伝わって?

(安住紳一郎)「なんだい、君たちは。帯広で降りるのかい?」なんて。「まあまあ、気楽にやってよ」みたいに言われて「はい!」なんて言って。「なに? 帯広でおばあちゃんが? ああ、ここに座りなさい」なんて言われて。小学校2年生ぐらいの先輩なんだよ? 「僕はね、池田で降りるんだ。そうかそうか」ってやって。で、加藤先生はすごい、車窓を眺めながらニコニコしてましたけどね。懐かしいな。

(中澤有美子)そうですかー。

(安住紳一郎)加藤先生ね、もう一度お会いしたかったなと思いましたけれどもね。おかげさまでこんなに大きくなりまして。ありがとうございます。ねえ。「北海道遠軽町で30℃」という、この1行からいろいろな思い出の蓋が開いてしまいましたけれども。

(中澤有美子)そうですね。

(安住紳一郎)北海道はいろいろな経緯で開拓に入っていまして。いろいろ、屯田兵が……。

<音源終わり>

(安住紳一郎)ちょうど4月28日の放送でした。改めて私も自分の話を聞いてみますと、完全に思い出の蓋が開いてるなっていう感じがしますね。

(中澤有美子)そうですね。

(安住紳一郎)関東の皆さんにとっては知らない地名ばかりで申し訳ないなと思いつつですが。ちょっと、あとは「えっ、本当に1973年生まれ?」って話ですよね。なんかちょっと行商列車に乗せられたとか、なんか『この世界の片隅に』みたいな感じですけども。

(中澤有美子)なんですかね? 行商っていうワードがそうさせるんですかね?

(安住紳一郎)行商のおばあさんたち、いましたよね? 中澤さん、違いますか? 同世代ですけども。

(中澤有美子)そうですね。いや、聞くばかりで見たことはないですね。

(安住紳一郎)ああ、そうか? あの大きな、びっくりするぐらい大きな荷物を首の前で風呂敷をこう結んで。「よっこいしょ」って言って立って。行商のおばさんたちがたくさん乗っている列車に乗せられたっていう……「乗せられた」って言い方はおかしいですよね。乗って、遊びに行ったんですけどもね。

(中澤有美子)なんだか目に浮かぶような列車の風景です。

(安住紳一郎)そうそうそう。ちょうど青いモケットっていうの? ローカル線でボックス席なんで、4人向かい合わせでまっすぐの背もたれでね。それでですね、この時の放送を聞いたという人で実はかつて、ご両親が家庭学校で働いていたという。今、九州にお住まいの方なんですが、女性の方がですね、そのお父様を通じて連絡をしてくださって。嬉しいですよね。そうしましたら、加藤先生の娘さんから私、メールをいただいたんです。こんなことがあるんですね。45年前の出来事なんですけれども。縁というものを感じますけれど。45年前の、たった1日というか、半日の出来事なんですけれども。こうやってまた、ご縁が繋がってということで、嬉しいですよね。

加藤先生の娘さんからのメール

(安住紳一郎)娘さんからお便りをいただきました。「こんにちは。突然のメール、失礼いたします。私は北海道紋別郡遠軽町に住んでいる者で、旧姓は加藤です。父は加藤正志。北海道家庭学校の教諭でした。実は父の元同僚の方から連絡があり、安住さんがラジオで遠軽の話をしてその際、父の名前を出してくださったと伺いました。後からYouTubeで拝聴しました。当時、父が幼いきょうだいと国鉄の車中で知り合いになり、とてもかわいらしいきょうだいだったことや、その後もお手紙をもらい、嬉しそうにしていたのを私はそばで母と一緒に見聞きしていました。

ひらがなで『あずみしんいちろう』と書かれた手紙の文字も覚えています。父はその後も安住さんがテレビで活躍なさっている姿をニコニコして見ておりましたが、2015年に亡くなりました。到底、父との旅先での出会いなどは幼い安住さんの記憶にはないと諦めていましたが、安住さんが父のことを覚えていてくださったことにびっくりしましたし、とても嬉しく思いました。そして父がいつもテレビの中の安住さんを応援していたことを知っていただきたくて、メールを送らせていただきました。これからもご活躍を楽しみにしています。お体、どうかご大切に」という。嬉しいよねえ!

(中澤有美子)そうですか!

(安住紳一郎)私はね、今は泣くのを我慢してるけども。これを読んだ時は涙が止まりませんでしたよ。今ね、私はこれから大事な話をしなくちゃいけないんで、ぐっとこらえてますけどもね。嬉しいですよね。

(中澤有美子)そうですね。

(安住紳一郎)本当に。9年前に先生、亡くなったということなんですけども。先生もね、私のことをちゃんと覚えていて。テレビで私のことを見てくださっていたっていうんですよ。もう……。遠軽に向けて手を合わせましたけども。当時、5歳なんですけどもね。なんか自分にとっては知らない大人とか年上の少年を相手に、やっぱり大興奮したみたいで。特に家庭学校の生徒の皆さんということで、自分の生活を改めているという。少し律した生活をしているっていうこともあり。また、それを指導している立派な先生ということもあって、私はね、ものすごくたぶんそこで刺激を受けたんだと思うんですよね。

なので、こうして5歳のたった1日の出来事なんですけど。いまだにしっかり覚えていて。自分のアウトラインっていうか、自分の個のベースみたいなのがこの日にできたんじゃないかな、なんていう風に勝手に思ってるわけなんですけれども。まあちょっとね、私の昔の記憶が結構しっかり残ってるのが病的にやばいっていう風な指摘も受けてるんですけども。私、この時に話したことも覚えていて。「幽霊がいるか、いないか」っていう話をしたりですね。

あとは「こんにゃくが好きか、嫌いか」っていう話をね、少年たちとしたのを覚えてるんです。で、また悪いことに私、5歳にしてたぶん今とそんなに変わってないんで。受けを狙ってちょっと作り話をしたんだけれど、5歳なので作り話の精度が低くて、場が一瞬、白けたんだよね。

(中澤有美子)フハハハハハハハハッ! あら?

(安住紳一郎)で、その時に先生や家庭学校の生徒たちが笑ってくれたんだけど、全員が目で私を諭そうとしていたっていう。その空気も覚えているの。「ちょっとそれは話が違うな?」みたいな感じでね。でも、自分としてやっぱり大興奮の1日で。で、家庭学校自体がキリスト教をベースにして運営されてるんで。クリスマスプレゼントがね、家庭学校から届いたりして。あとは年賀状も届いて。「なんでこんなに優しくしてくれるんだろう?」と当時はね、不思議に思うくらいでしたけど。

やっぱり家庭学校の先生だということもあるんだろうと思うんですが。とにかく縁ある人に愛情を持って接する。家族のようにという理想を実践されていたんだと思うんです。おかげで二つ上の姉も私も幸せにその後、生活することができたということで。本当に加藤先生のおかげだという風に思っています。それから、もう1通メールが来ていまして、紹介します。これは東京の女性の方なんですが。ありがとうございます。「4月28日の放送で『これは』と思い、主人にこの日の放送を聞かせました。主人は59歳。貫禄たっぷり。安住氏の話を聞いて、自慢のおなかを上下に揺さぶりながら大笑いし、つぶらな瞳にはうっすら涙を浮かべていました。

そうです。主人は遠軽の家庭学校に入っていました。主人の話によると、小学校でいじめに遭い、その頃の家庭はというと両親の喧嘩が絶えず、子供心に『いっそのこと、離婚すればいい』と思っていたそうですが、親に『あんたたちがいるから離婚できないんだ』と言われ……3歳上の姉と主人がいるから離婚できないと言われ、今となっては『子供たちのために離婚しない』という意味だったと理解できるそうですが、当時は親からそのような言葉を言われてショックを受けていたそうです。

その反動から、中学に入った途端、荒れた生活をするようになり、親にもだいぶ迷惑をかけたそうです。『池北線、あったあった。懐かしい』と笑い、『加藤先生、懐かしい』と遠い目をして涙をたたえ。『安住さん、白タイツ、履いていたのか』と爆笑していました。ローカルすぎる話でしたが、主人をあの時代に一気に連れて行った瞬間を目の当たりにしました。良くも悪くもあの時代の経験が主人の血となり肉となり、今はよい歳の取り方をしているのではと思います。念のため、主人の名誉のために言っておきますが、今は母親に毎月ずっと仕送りをしており、母の日にはカーネーションを贈っています。でも、カーネーションは毎年、私が主人の名前で送っています。テヘテヘ。ラジオを聞かなくなって幾久しいですが、最近また聞き始めました。主人と聞くこともあります。別々の部屋ですけどね。中澤さんの笑い声が最高の癒しです」という東京の方からいただきました。ねえ。いろいろと。

(中澤有美子)よかったですね。こうやってお便りをいただいて。

(安住紳一郎)ねえ。こうやって繋がるんですね。で、加藤先生や、この連絡を取ってくださった方のご両親が働いていた家庭学校っていうところなんですが。皆さんは知っていますか? どうだろう? なんとなくイメージ、できますかね。今、全国に二つだと思いますが。ずいぶん前はね、神奈川の茅ヶ崎にもあったようなんですが。今は東京の杉並とこの北海道の遠軽の2ヶ所ということですが。児童自立支援施設のひとつ、種類ということになるんですが。全国で自立支援施設は60くらいあるんですが。民間経営でやってるのはこの二つだけ。

昔は東京と北海道、経営が一緒だったんですけど、今はわかれていて別々ということですよね。で、北海道家庭学校、遠軽はとっても広くて。元々は1000ヘクタール、あったのかな? これ、古い話なんですが。それを大正時代に自分たちで開墾して。その開墾した土地を農家に売って、運営費に充てたり。今もね、森から木を切って、それを学校の運営費に充ててたりするんです。土地はずいぶん売ったんで。それでも半分の400ヘクタールぐらいあるのかな? 130万坪ですから。東京ディズニーランドが50ヘクタール。ディズニーシーも50ヘクタール。っていうことはランドとシーを合わせて100ヘクタールでしょう。

なので、遠軽の家庭学校が400ヘクタールあるから、ディズニーリゾートを四つ入れてもまだ、余りがある感じか。とにかく広いですよね。作ったのは留岡幸助という人で、明治時代の牧師さんなんですが。牧師になるまでも紆余曲折あったんですが。明治時代ですからね、ずいぶん前ですけども。空知集治監……集治監ってわかりますかね? 国立刑務所ですけどね。明治の集治監っていうと、もう『ゴールデンカムイ』の世界ですが。『ゴールデンカムイ』は樺戸集治監とか網走集治監。監獄から逃げてきたりしますけれども。その空知集治監、国立刑務所で留岡先生は働いていて。

留岡幸助の教え

(安住紳一郎)で、「なんで人は罪を犯すのか? 調べてみたら8割ぐらいの人が少年時代から罪を犯している。では、犯罪に至る原因は少年時代の環境にあるんじゃないか? 普通の家庭で愛情をかけられて、褒められて、楽しいっていう経験のある人は人を傷つけないんじゃないのか?」っていうことをこれ、明治の中頃に気づいて1人で行動を取ってるってのがすごいと思うんですよね。

で、刑務所の同僚から寄付を出してもらって、アメリカに先生は留学して。で、アメリカの刑務所を1人で見て回って、2年間はアメリカの囚人とともに檻の中で生活するんですよ。で、帰国して明治32年、東京の巣鴨に家庭学校を作る。で、大正に入って北海道の遠軽に2校目を作った。以来、130年、110年と綿々と歴史が続いているっていうんですよ。

(中澤有美子)へー!

(安住紳一郎)遠軽の家庭学校を作った時、留岡先生は50歳だっていうんですからね。本当に理想に生きた、見事な偉人だっていうことがわかると思いますが。で、400ヘクタールの家庭学校に何人の生徒いるか? 何人、いると思いますか?

(中澤有美子)そんなに広いなら、多いのでしょうか? でも、わからないな。

(安住紳一郎)そうだよね。100人ぐらい、いると思います? 定員はね、41人でね。実際は30人くらいで生活してると思います。で、在籍も短くて。2年ないくらい。で、小学校3年生くらいから入る人もいれば、高校卒業してちょっと残る人もいるというね。ちょっともう、経済優先で利益を効率的に生み出す今の時代に奇跡みたいな教育が110年間、ずっと続けられてるんですよね。

なんでトータルの卒業生でもたぶん2500人ぐらいだっていう。少年院とか鑑別所がその少年少女たちが道を踏み外した時に入る施設としては有名だと思いますが。児童自立支援施設っていうのはその生活指導に重きを置いていて。さらに家庭学校では、先生と先生の奥さんが暮らす家で一緒に生活して。そして喜びも悲しみも一緒に血や肉にして、ということで。このやり方で110年、続けているということなんですよね。そこで加藤先生も働いていたということですね。

(中澤有美子)そうですか。

「流汗鍛錬」

(安住紳一郎)あとはちょっと今回、私もいろいろ見聞きしましたけども。「本当にそうだな」と思ったのは留岡先生のもうひとつ、「流汗鍛錬」っていう言葉があって。それも理想のひとつなんですが。とにかく人は汗を流して、初めて何かがわかる。なので自分で薪を切ってくれば薪を大切に使うし。ペンも紙もお米も車が動くのも、世界のどこかで誰かが汗を流しているからだ。自分で汗を流せば、世の中のことがわかり、苦労がわかる。だからとにかくよく働け。よく食べろ。そしてよく眠れ。それをみんなでやろうっていうね、そういう理想で。今も、家庭学校の生徒の皆さんは、勉学と作業……作業を重視していて。山の仕事、味噌作り、バター作り、酪農、炊事、洗濯。これを朝6時から起きて、みんなでとにかくやるっていうね。

で、馬や牛たちがおのずと先生になり、生徒たちを導いてくれるだろうというその理想を今も綿々と続けているという。なにかちょっと心、洗われませんか?……ちょっと遅くなったんですけど、私も加藤先生の教えがだいぶ入ってきた感じがしますよね。なんか、やっぱりモラルとか道徳がなくなってきたと言われる……今、私も含めてですけどね。なんか、こう、うん……何をしたらいいか?っていうことを皆さんも感じてくれたら嬉しいなと思って。ちょっとそんな話をしました……。

ちょっとね、なんか真面目に話をしてしまったんですけども。やっぱりちょっとこの、あの池北線の時の注意を受けた感じがちょっと思い出されまして。ちょっと真面目に今回、やってみました。ねえ。ちょっとなんか、家庭学校のことをもう少しね、早く知るべきだったなという風に思いましたし。加藤先生にもね、ちゃんと生前、ご挨拶行けたらなというふうな感じがいたしました……。ちょっと皆さんも興味があったら、調べてみてください。

<書き起こしおわり>

安住紳一郎 北海道・遠軽町と池北線の思い出を語る
安住紳一郎さんが2024年4月28日放送のTBSラジオ『日曜天国』の中で北海道・遠軽町についてトーク。幼稚園児の頃、2歳上の姉と2人で池北線に乗り、帯広のおばあちゃんの家まで行った際の思い出を話していました。
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