安住紳一郎 北海道・遠軽町と池北線の思い出を語る

安住紳一郎 北海道・遠軽町と池北線の思い出を語る 安住紳一郎の日曜天国

安住紳一郎さんが2024年4月28日放送のTBSラジオ『日曜天国』の中で北海道・遠軽町についてトーク。幼稚園児の頃、2歳上の姉と2人で池北線に乗り、帯広のおばあちゃんの家まで行った際の思い出を話していました。

(安住紳一郎)連休は少し天気に恵まれないというような長期予報が出ていましたが。ここに来て、今のところ休み・旗日は全部晴れそうですね。よかったですね。お出かけの方も多いと思います。昨日は北日本で記録的な暑さとなりまして。北海道の遠軽町で30.1℃。青森の三戸町で31.2℃を記録しています。北海道遠軽はオホーツク海側ですからね。ついこの間まで、流氷のあったところですから。ちょっとこの4月、桜がたぶんまだ咲いてないと思いますが。遠軽で30℃といいますと、私も18まで北海道でしたが。びっくりしています。

(中澤有美子)ねえ。網走とか、あっちの方ですね?

(安住紳一郎)そうです、そうです。遠軽町。北見とか網走とかのあたりですね。ちょうど私は遠軽の近くの美幌というところに4年間、住んでいまして。そこから汽車で……当時は池北線っていうのがあったんですけど。あ、かなりちょっとローカルな話なりますよ。すいません。ちょっとね、北海道でもあっちの道東の方に住んでる人にしか伝わらない話で。しかも40年前の話ですからね。これ、なかなか、聞いてる人で2人ぐらいわかればいいかなっていう話なんですが。ちょうど池田と北見を結ぶ池北線。その後、第3セクターになりまして既に今はもう跡形もありませんけれども。池北線に乗って、ちょうど帯広にいるおばあちゃんの家に二つ上の早智子と一緒にその池北線に乗せられて。それで、4時間半ぐらいかかるのかな? 普通電車で。汽車、ディーゼルカーですね。

(中澤有美子)ええ、ええ。

(安住紳一郎)それで、ちょっとやっぱり当時は私、小学校に入ってなかった気がしますね。なんで、うちの姉の早智子は小学校2年生とかで。私が幼稚園の年長さん。その2人で4時間半ぐらいの。なかなかね、うちの母もスパルタ体質なんで。「行ってきなさい」なんて言って。そしたら、ちょうど夏休みの帰省のシーズンで。北海道の遠軽町に家庭学校っていう、ちょっと家庭にいろいろトラブルがあって。家ではなかなか生活が難しいっていう風に判定された子供たちが預けられている……しかもそれ、民間なんですよ。大変珍しいんです。全国でもたぶん、ひとつか二つしかないと思うんですが。北海道家庭学校っていうのが遠軽町にありましてね。で、その家庭学校に預けられてる子供たちが夏休みになると、いろいろ他の都市に帰省するっていうので。帯広方面に戻る家庭学校の皆さん方を引率している加藤先生っていう先生が電車に、汽車に乗っていて。

(中澤有美子)へー! よく加藤先生って。

(安住紳一郎)覚えてますよね。ええと、それでうちの母親は行商をやっているおばあちゃんに「この2人が帯広のおばあちゃんところまで行きますから、帯広になったら降ろしてください」みたいなことを……これ、戦後の話じゃないんですよ? すいません。

(中澤有美子)だいぶ経ってる(笑)。

(安住紳一郎)だいぶ経ってますけどね。昭和55年ぐらいの話なんで。もう最近の話というか。そんな、決して戦争が終わって2年とか3年の話じゃないんですけども。そうですよね。うちの母親がその行商やってるおばあさんたちに「この2人の子供が帯広で降りるから、よろしくお願いします」みたいなことを言って、預けるわけですよね。今だったらちょっとね、ネグレクト的なことになってるかもしれないですけど。昔は牧歌的だったんで。

(中澤有美子)「様子をちょっと見てください」っていうことですね。

(安住紳一郎)そうですね。で、もうドキドキしてるんですけどね。で、私なんかは結構、比較的小さい時から「1人の社会人としてしっかりやりたい」みたいな気持ちがあるから。小さいバスケットのトランクみたいなのを持って。「よろしくお願いします!」みたいなことを言ってさ。しっかりしてる少年だったんですけどもね。信じられないですけど私、ベレー帽とかかぶっていたんですよ(笑)。

(中澤有美子)僕ちゃん!

当時はおしゃれだった安住紳一郎少年

(安住紳一郎)僕ちゃんだね。結構、田舎に住んでる時はおしゃれだったんですよね。小さい、ありますでしょう? 小さいバスケット。下がパコンってなって。ほとんど何も入らないっていう。

(中澤有美子)そうそう。でも、おしゃれでかわいいですよね。

(安住紳一郎)中にはあらいぐまラスカルのぬいぐるみが入っていましたけども。で、ベレー帽ね。黄色いベレー帽をかぶってね。紫だったかな? おしゃれですよね。

(中澤有美子)坊や、かわいい!

(安住紳一郎)坊や、かわいい。白いタイツね。そして、黒い革靴を履いていたんですけどね。非常にね、エリート臭のする幼稚園児だったんですけども。それで行商のおばさんね。風呂敷をやって。まだ当時、いたんですよね。行商の皆さんがね。「よろしくお願いします!」なんて言ったら「ああ、私たちはね、ちょっと小さい声はあれだから。隣の車両に家庭学校の加藤先生が乗ってるから、加藤先生にお願いしたらいいんじゃないか」なんて言われて。「どういうことだろう?」と思ったら、その家庭学校の加藤先生がいて。で、加藤先生はもう慣れたもので。男の先生でね、60ぐらいだったと思いますけど。で、「帯広に行くんです」って言ったら「ああ、そうか。この子たちもいますから」って。ところがそれ、家庭学校だからさ、結構さ、荒くれ者なのよ。「もう、きついな」って幼稚園児ながらに思ったね。「怖えな」って思ってね。

(中澤有美子)なんか雰囲気、伝わって?

ちょっと雰囲気が違う家庭学校の生徒たち

(安住紳一郎)雰囲気はね、瞬間的に伝わった。まあ、こんな言い方は失礼かもしれないけどね。やっぱり、うん。なかなか、いろいろ見てきたんだなっていう雰囲気を出してきてる人たちだったよね。でも、やっぱりちょっとそういうそういう状況にいる年少者たちに対して、ものすごく優しいんだよね。「なんだい、君たちは。帯広で降りるのかい?」なんて。「まあまあ、気楽にやってよ」みたいに言われて「はい!」なんて言って。当時、昭和50年代の道東の小学生・幼稚園児の世界ですよね。「なに? 帯広でおばあちゃんが? ああ、ここに座りなさい」なんて言われて。小学校2年生ぐらいの先輩なんだよ? 「僕はね、池田で降りるんだ。そうかそうか」ってやって。で、加藤先生はすごい、車窓を眺めながらニコニコしてましたけどね。懐かしいな。

(中澤有美子)そうですかー。

(安住紳一郎)加藤先生ね、もう一度お会いしたかったなと思いましたけれどもね。その後、1回2回ぐらい、手紙のやり取りがあったと思いますけれども。おかげさまでこんなに大きくなりまして。ありがとうございます。ねえ。「北海道遠軽町で30℃」という、この1行からいろいろな思い出の蓋が開いてしまいましたけれども。

(中澤有美子)そうですね。

(安住紳一郎)北海道はいろいろな経緯で開拓に入っていまして。いろいろ、屯田兵がそのまま開拓をしたり。あるいは刑務所があって。刑務所に入っていた人たちがその後、出所してその土地を開拓したり。あるいは、その民間の開拓団体を作って、会社になって入ったりとか。あるいは東京の財閥がそれぞれ開拓をしたりとか。いろいろな開拓の歴史あるんですが。遠軽町ってのはキリスト教の教会主催で開拓団を募って遠軽に開拓しているっていう経緯がありまして。またちょっと北海道内の中でも、街の成り立ちとしては非常に特異な。そういうこともあって家庭学校があったのかもしれませんけれども。という開拓の歴史もありながら。面白いところであります。遠軽町の話でした。

(中澤有美子)はい。急に身近になってきました。想像が膨らんで。ありがとうございます。

(安住紳一郎)私がいきなりこんなに饒舌になってるにも、理由がありまして。コロナの陽性になりまして。4日間ほど自宅で療養していまして。誰にも会っていませんでしたので。今、すごく何か話したい欲求が強くなっていますね。

(中澤有美子)ああ、なるほど。

<書き起こしおわり>

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