石野卓球さんと高木完さんが2023年10月24日放送のJ-WAVE『TOKYO M.A.A.D SPIN』の中でYMOやヒカシューについて話していました。
(高木完)じゃあその『Funkytown』とか『Coming Up』もディスコで……それが元になって割とずっと?
(石野卓球)そうですね。で、その後にYMOになるんですよ。
(高木完)ああ、そうか。そしてYMO。でもYMOもディスコ系をやっていたから。
(石野卓球)いまだにね、俺がYMOで好きなのはYMOのディスコっぽいやつなんですよ。初期の。
(高木完)初期の。だから『BGM』以降じゃなくて。
(石野卓球)もちろん、あっちも好きなんですけど。でもやっぱり好きなのは『Firecracker』とか。
(高木完)ノイズ的な手法をやる前の。
(石野卓球)ディスコのノリが。
(高木完)じゃあ、ディスコが……それ、小学生の時?
YMO初期のディスコっぽいのが好き
(石野卓球)でもその頃は「自分はディスコが好きだな」っていうのはもちろんわかってなくて。後から振り返ってみるとそうだったなっていう。
(高木完)あれ、だって歌舞伎町のディスコとかでも流行っていたもんな。『Funkytown』とかは。ツバキハウスとかでもかかって……もうその時代だったかも。70年代終わりから80年代。
(石野卓球)で、YMOとか、その頃はシンセサイザーっていうのがもう、とにかく衝撃的で。その楽器っていうのが。それで、当時はそのシンセサイザーの音楽っていうのはもう一番未来的なものとイメージとしてリンクしていて。そこがすごい惹かれて。で、俺は左利きなんで、ギターとか練習しても全然弾けなかったんですよ。
(高木完)ああ、そうなんだ。レフティーなんだね。教則本がね、だいたい右利き用になっているし。
(石野卓球)で、もう全然指も動かなくて。で、あとはさっきも言ったけど保育園の頃に左利きの矯正でいろんな習い事とかがあって。その中のひとつにオルガン教室とか行っていたんですけど。で、オルガン教室に行っていたんで、家にオルガンがあったんですよ。電子オルガンが。それで、シンセサイザーとかだと入りやすいっていう。
(高木完)じゃあ、鍵盤はずっとやってたんですね。
(石野卓球)そうですね。だから、シンセサイザーとかも身近に感じるっていうか。当時はもちろん持ってないんですけど。
(高木完)じゃあ、YMOとかが普通に……YMO、中学生ぐらい?
(石野卓球)小学校ですね。
(高木完)で、それは買ってもらって自分で家でも聞いていたの?
(石野卓球)そうですね。ラジオでかかってたのをエアチェックして。で、それを何度も何度も聞いて。
(高木完)カセットテープでね。
(石野卓球)それで、最後のフェーズアウトの時にDJの人がしゃべった声まで込みで、曲として覚えているみたいな(笑)。
(高木完)誰がしゃべっていたかまで(笑)。あの頃、よくかかっていたからね。それが79とか80か?
(石野卓球)うん。80年とかですね。
(高木完)じゃあちょうど先週話したテクノポップって言葉が普通にあれで、P-MODEL、プラスチックス、ヒカシューのレコードを……。
(石野卓球)全部「ハ行」っていう。レコード屋さんに行くとハ行のところにあって。
(高木完)ああ、そうだ!
(石野卓球)あいうえお順に並んでいて(笑)。
(高木完)YMOは違うけど、全部「ハ」だ。
(石野卓球)真っ先にそこに行って見るっていう。
(高木完)じゃあもうその頃、テクノポップ御三家って言われてたけど。そっちもチェックを?
(石野卓球)そうですね。ヒカシューが俺は好きだったんですけど。
テクノポップ御三家ではヒカシューが好きだった」(石野卓球)
(高木完)ああ、やっぱりそうなのか。それはなんでなんですか? だって、YMOとはあんまり、ちょっとイメージが違くない?
(石野卓球)YMOと共通するところがあんまりなかったからだと思うんですよね。
(高木完)割と歌だし。
(石野卓球)そうそう。で、やっぱりまだ子供だったし。アニメソングとかの歌唱法にすごい、巻上さんの歌い方が……。
(高木完)たしかにね。水木一郎さんみたいな。割と歌い上げる感じでしょう?
(石野卓球)そうそう(笑)。
(高木完)巻上さん、演劇をやってたから。
(石野卓球)筆の太文字で歌詞が聞こえてくる感じで(笑)。
(高木完)ああ、そう言われてみればアニソンを歌うとよさそうな……尾崎紀世彦じゃないけど、そういう。歌い上げるっていうね。ヒカシューかー。でも、それはわかりますね。
<書き起こしおわり>