江口寿史さんが2024年5月25日放送のJ-WAVE『TOKYO M.A.A.D SPIN』の中で鳥嶋和彦さんと山上たつひこさん、鴨川つばめさんから受けた影響について話していました。
(鳥嶋和彦)ちょっと漫画の話に戻りますけど。鴨川(つばめ)さんとか山上(たつひこ)さんは江口さんにとって、やっぱり衝撃だった?
(江口寿史)。衝撃でしたね。特に山上さんはもう血肉になっているっていうあれなんですけど。鴨川さんはライバルで、年も近いからかなり嫉妬の部分が大きいというか。山上さんに対しては嫉妬というよりも全部、尊敬なんですけども。
(鳥嶋和彦)もうちょっと前だよね。『がきデカ』は74年だから。
(江口寿史)そう。年も10ぐらい上だし。だからもう、ライバル視してましたね。
(鳥嶋和彦)『喜劇新思想大系』が話題になったあの頃から?
(江口寿史)それは後追いです。僕は『がきデカ』から。もちろん、その前の『光る風』とか読んでたから、急にギャグを書き始めたので。
(鳥嶋和彦)そうだよね。『光る風』の人って、僕はびっくりしたから。
(江口寿史)ああいうSFばっかり、少年マガジンでは書いていたから。それはびっくりしましたね。
(鳥嶋和彦)山上さんはどこが衝撃でした?
(江口寿史)ストーリーの絵のまんまでギャグをやっていいんだっていう。
(鳥嶋和彦)ああ、ギャグの絵じゃないもんね。
「ストーリーの絵のままギャグをやっていいんだと思った」(江口)
(江口寿史)そう。だから僕、ギャグはずっとやりたかったんだけど。赤塚不二夫さんとか谷岡さんみたいな絵じゃないか。「これは難しいな」と思ってたんですよね。で、ストーリーにしても手塚治虫さんみたいなストーリーは書けないし。というところに山上さんがストーリーの絵でギャグをやったんで。
(鳥嶋和彦)要するに、道が開けたんだ。
(江口寿史)そう。道が。「ああ、これならできる」っていう言い方はあれだけど。「僕にも道がある」みたいな。それで「プロになれるかも」って思ったのは山上さんのおかげですね。
(鳥嶋和彦)鴨川さんに関しては、どのへんが?
(江口寿史)鴨川さんはだから、俺がやろうとしてたギャグに近かった。
(鳥嶋和彦)近すぎて、素直に認められなかった?
(江口寿史)いや、もう上手いから。悔しさが先に立って。「こいつ、◯◯ねえかな」って思って(笑)。連載の時、ずっと思っていたからね(笑)。
(鳥嶋和彦)わかる、わかる。
(江口寿史)でも、あれなんですよね。ギャグってやっぱり消耗が激しいから。特にこの人、身を削って書いていたのがわかるんですよ。6巻目ぐらいまでのすごみが……。
(鳥嶋和彦)異様なテンションだったからね。
(江口寿史)異様で。それがね、どんどんテンションが下がっていくのがね、すごく見ていて寂しかった。
(鳥嶋和彦)寂しいし、つらかったでしょう?
「『マカロニほうれん荘』が終わって一番悲しんだのは自分」(江口)
(江口寿史)あれだけ「◯◯すればいいのに」って思っていたのに。終わった時に一番悲しんだのは、たぶん俺ですよ。ぽっかりしちゃったもん。これが終わった後。力が抜けちゃって。
(鳥嶋和彦)じゃあ、江口さん中で一人あしたのジョー状態だったんだ?
(江口寿史)そうですね。
(Naz Chris)それが、江口先生がしてきた80年代の大いなる予告に対して、80年代が社会全体がふざけてきたっていうところで、ギャグ漫画ブームがだんだん、ちょっと下降していくっていう。
(江口寿史)そっちの方に行っちゃったんでね。漫才ブームとか。だから漫画が明らかに一番笑いの最先端だったのが、芸人さんたちとか、パルコ文化とか、素人のそういう……。
(鳥嶋和彦)サブカルチャーが漫画からはみ出していって。
(江口寿史)もう置いてかれちゃって。しかも俺が競ってライバル視してた鴨川さんとか、山上さんも終わっちゃったし。あと田村信っていうのもすごい好きだったんだけども。『できんボーイ』の。これらが全部終わっちゃったのが79年なんですよ。それでもう、俺はギャグをやる気がちょっとなくなっちゃって。
(鳥嶋和彦)『すすめ!!パイレーツ』は何年やってた?
(江口寿史)3年。
(鳥嶋和彦)3年? それしかやってない?
(江口寿史)やっていない。80年に終わらせたから。でもね、それに代わって出てきたのが大友克洋さんを始め、絵の新しい人たちですよね。
(鳥嶋和彦)出ました!
(江口寿史)それで僕、「自分の絵はこれじゃダメだ」と思いだして。ギャグよりも絵の方に興味が行っちゃって。それで、だんだん絵が緻密になっていくっていう流れです。
<書き起こしおわり>