吉田豪さんが2020年3月31日放送の『猫舌SHOWROOM 豪の部屋』の中で自身の紙のプロレス時代を振り返り。紙のプロレス編集部からの引越をTBSの橋P(橋本吉史)に手伝ってもらった話をしていました。
僕が雑に作ったビデオ会議用画像……「吉田豪さんの部屋」です!(サイズは調整してません) pic.twitter.com/naSb6r3Q3C
— みやーんZZ (@miyearnzz) April 2, 2020
(吉田豪)(コメントを読む)「なんで(『書評の星座』は)紙プロ、ダメだったんですか?」。ああ、そういう事情も知らない人が出てきたみたいですけど。まあ無事、この『書評の星座』が売れまして、増刷されたことによって僕が紙のプロレス時代に書いてたものも単行本化しようという話が来まして。1冊でまとまるかどうかも知らないですけども。「担当編集が国会図書館に行ってコピーを始めている」という話なので、それを見れば全てがわかると思いますけど。ただ、相当直さないと出しちゃいけないぐらいのひどいことを書いてるはずなので。うん。
(コメントを読む)末期は豪さんの記事は携帯サイトだけでしたっけ?」。そうですね。紙プロhandで僕の語りおろしの連載はやっていたと思います。(コメントを読む)「『書評の星座』、買いました。暇つぶしに最適ですね」。本当、そうですよ。こういう、今の時期だからこそこんなに日持ちする本、ないと思いますからね。
(コメントを読む)「豪さん、紙プロを離れて20年ぐらい?」。でも、どうなんですかね? だからこの本が15年分のことだったから、そんなもんなんですよね。たぶん紙プロを離れた翌年ぐらいにゴン格で仕事が始まったので。16年前とかですかね? ちょうど紙プロから引っ越す時に……まあね、その大人の事情で紙プロが、紙のプロレスという雑誌がありまして。ミニコミから始まって、ミニコミから毛が生えたぐらいの状態の時に僕が入って。それで判型も大きくなって、売れるようになり。それでいろんな団体のビジネスもするようになり。
団体のビジネスをするようになると、僕らとかに聞かれたらいけない話を編集長がするようになるんですよ。だから会社に来ても車の中でずっとそういうような連絡とかしてたりとかしてて。でも、それがしんどいので、そういう電話ができるような部屋のあるところに移りたいということで、ちょっといい、社長室があるようなマンションに移ということになって。その直前になって「引越先には豪ちゃんの席はないから」と当時の編集長夫人に言われて。「おおう……」となって。
急遽、編集部から引越をすることになる
急拠、引っ越さなきゃいけなくなって、荷物を全部実家に……ものすごい数の荷物を会社に置いてたんで、大量の荷物を持って帰らなきゃいけないのでどうしよう?って時、ちょうどその時にもうTBSラジオの『ストリーム』に出始めていて。で、「じゃあ『ストリーム』の若手のスタッフに手伝わせますよ」って言ってレンタカーかな? ワゴン車を借りてきて運転して僕の引越を手伝ってくれたのが今のTBSラジオの橋P(橋本吉史)なんですよね。という流れです。
(コメントを読む)「柳沢さんは今、どうしているんだろう?」。柳沢さんというのは紙のプロレスの発行人ですね。今は桜庭の興行をやっているはずですよ。(コメントを読む)「サムライさんも手伝ったの?」。それはもっと後です。最初の事務所からの引越を手伝ったのは橋Pのみですよ。橋Pが上司に言われて来たけども、橋Pはただの紙プロの読者だったから、何も知らずに紙プロの編集部に来てテンション高まっていて。そしたらそういう歴史的な瞬間だったことを後で知ったという。
橋Pがまだペーペーだった時に手伝ってくれてっていう流れですね。そう。橋Pがだからプオタだったんで僕の担当になって。それで、なんかライムスターとかも興味あるみたいな感じだったんで。「じゃあ武道館ライブとかも来ればいいじゃん」って言って、武道館で初めて紹介したのかな? それが今に至る流れってことですね。
ライムスター・武道館公演に誘う
(コメントを読む)「『マンガ地獄変』の中に金髪じゃないアーリー吉田豪の写真が」。会社員時代は基本、黒かったですからね。会社員時代が黒くて、会社辞めた時にまた戻したのかな? という流れですね。
だから紙のプロレスの編集部時代は黒髪だったと思う。違うかな? 金髪になっていたっけ? 覚えてない。(コメントを読む)「橋Pとライムスターを結びつけたの?」。結びつけたっていうか、だからちょうどあの時にライムスターの武道館で。活動休止前のゲストを山ほど呼んだやつ。
あれにコンバットRECだのOka‐Changだの掟さんだの、みんなで行って。そこにTBS勢も初めて行った感じで。そのへんがみんな、最初に会ったのがあの時だと思う。うん。ですね。で、終わった後、打ち上げで武道館の近くはあんまりいい飲み屋がないから、新宿2丁目まで来てみんなで飲んでた記憶がある。(コメントを読む)「橋Pとのつながりはそこから」。そうなんですよ。
(中略)
(吉田豪)無職時代はでも、本当たぶん一番……でも「漫画家」になろうと本気で考えたのは無職時代ぐらいじゃないですかね? (専門学校に入る前の)無職期にミニコミをやっていて、漫画を書こうとして……みたいな時期ですね。それで漫画を書くなら『花とゆめ』でデビューするのが一番いいと思って。その当時、『花とゆめ』が大好きだったので、『花とゆめ』を捨てるのに苦労してた時代ですよ。本当に。
(コメントを読む)「その絵を見せて」。でも何度かね、僕の絵は普通にいろんなものに載っていて。紙のプロレスとかにもいっぱい載ってますよ。『Rintama(リンタマ)』っていう、『紙のプロレス』がなくなって『紙のプロレスRADICAL』になる前にテレビ朝日の『リングの魂』っていう番組と組んで『Rintama』っていう雑誌を3冊、出していたんですけども。その時にはスタッフが全然足りないから、イラストも自分で書くみたいな感じで。僕がイラストを20点とか書いていましたよ。
『Rintama』などでイラストを書いていた
『紙のプロレス』のアンケートハガキのはがきの部分に書くイラストとかは僕がずっと書いてましたね。(コメントを読む)「ナンちゃんの印象が悪かったんだよね?」。「悪かった」っていうか……そんなに接点がないからね。当時、たぶんテレビの世界も予算がすごいあって。打ち合わせとかに何度か参加したり。終わった後もすげえ……あれはなんだったんだろう? 個室のすげえいい飲み屋でスタッフとナンちゃんとかがやってる打ち上げに僕と山口日昇とかが行って仕事の話をちょっとするみたいな時とかに……まああんまりいい印象は正直なかった。うん。
<書き起こしおわり>
僕が若手時代に吉田豪さん担当になり紙プロからの引越しを手伝った帰路の車中「手伝ってくれたんで話しますけど…」ってメディアで言えない話をたくさんしてくれたんですよね。その日が歴史の転換点だったってことはそれこそ後に書籍で知って驚愕して、昭和新日の事件史に立ち合ってたのか俺みたいな。
— 橋本吉史 (@nakapiro) April 4, 2020
で、そこからストリームのコラムの花道を中心に「サブカル路線」的な方向を強化していくディレクターに。宇多丸さんはその流れで、マブ論とかやってた文脈で僕が呼んでガッタスの本を紹介してもらったのが最初。なので正確な時系列は武道館の日すでにタマフル開始直前ですね。https://t.co/9obJj4pQlM
— 橋本吉史 (@nakapiro) April 4, 2020