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カルロス矢吹とピエール瀧 気仙沼バッティングセンターの親子の絆を語る

カルロス矢吹とピエール瀧 気仙沼バッティングセンターの親子の絆を語る たまむすび
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カルロス矢吹さんが2017年10月にTBSラジオ『たまむすび』に出演。ピエール瀧さん、外山惠理さんと東日本大震災で被災した親子が設立した宮城県気仙沼市のフェニックスバッティングセンターについて話していました。

(外山惠理)で、ここからが本題。バッティングセンターを巡る親子の物語。

(ピエール瀧)急にバッティングセンターってなんですか?

(カルロス矢吹)実はこの秋に『野球的』という雑誌が双葉社から創刊されることになりまして。そこで僕が新しく連載を始めることになりまして。そのタイトルが「全日本バッティングセンター列伝」。

(ピエール瀧)なるほど。伊集院(光)だ。伊集院もバッティングセンター巡りしていますからね。

(カルロス矢吹)で、日本中のいろんなバッティングセンターのオーナーさんに話を聞くという企画を立てたんですけども。いま、バッティングセンターって年々減り続けているんですよ。70年代にすごくブームになった時がありまして、それをピークにずっとバッティングセンターの数って減り続けているんですけども。ちょっと質問なんですが、バッティングセンターを1軒作るのに、ざっくりどれぐらい(お金が)かかると思います?

(ピエール瀧)正直、伊集院の番組でも言ったことがあるけど、バッティングセンターを経営したいんですよ。ちょっといいなと思って。でも、あれマシンがたぶん1台、アーム式のやつだったら4、50万するだろうから、5個で250万……1500万。

(カルロス矢吹)全部でですか?

(ピエール瀧)あ、土地と全部? じゃあもっと行くかなー。でも、3000万。

(カルロス矢吹)外山さんはどのぐらいだと思いますか?

(外山惠理)全然想像つかないけど、じゃあ5000万円ぐらい。

(カルロス矢吹)正解は一般的に1億はかかると言われています。

(ピエール瀧)ええーっ! そんなすんの?

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バッティングセンター建設にかかる費用:1億円

(カルロス矢吹)もう全部、自分で一から始めようとすると1億はかかると言われています。

(ピエール瀧)土地が安いところでもそんぐらいかかるってこと?

(カルロス矢吹)そのぐらいはかかると思ってください。だから地方で国道沿いに1軒ポツンとたっているところ、あるじゃないですか。あれ、1億だと思ってください。

(ピエール瀧)あ、そうなの!

(カルロス矢吹)だいたいそれが底値と言われています。で、そこからプラス、たとえば都心に作りたいと思ったら、もうどんどんどんどん上がっていきます。

(ピエール瀧)まあ、そうだよね。あとマシンを、最近はプロ野球選手の映像が流れるやつとかあるんです。ああいうのを導入しようと思ったら、どんどん跳ね上がっていくと。

(カルロス矢吹)そうですね。いま、空気圧でどんな変化球でも投げられるマシンとかもあるんですよ。あれなんかは1台1000万以上かかるはずなんで。

(ピエール瀧)そうなんだね。そんなするんだ。

(カルロス矢吹)すっごいかかるんですよ。

(ピエール瀧)じゃあ、気軽に始められるものじゃないっていう。

(カルロス矢吹)でも、減り続けている中でも、ここ最近でできているバッティングセンターとかもあるんですよ。しかも、個人経営でやっているところもあるんですけど。それ、1億円ぐらいの投資をした上でバッティングセンターを始めているわけです。じゃあ、そのオーナーさんのバッティングセンター。野球にかける情熱の源ってなんなんだろう?っていうのを聞いていく連載を今度、『野球的』という雑誌で始めようと思って。

(ピエール瀧)なるほど。えらいところを突いてくるね(笑)。

(カルロス矢吹)で、その連載の僕の個人的なテーマとしては、「バッティングセンターとは名もなき男たちのフィールド・オブ・ドリームスである」という。『フィールド・オブ・ドリームス』っていう映画、あったじゃないですか。あれは(トウモロコシ畑に)野球場を作る話でしたけど、日本でバッティングセンターを作るというのは自分のスタジアムを作るぐらい、人生を賭けて作っているものなんで。その情熱の源を探るという連載で1回目が宮城県気仙沼市のフェニックスバッティングセンターのオーナー、千葉清英さんにお話をうかがってきました。

(ピエール瀧)はい。

(カルロス矢吹)千葉清英さん、東京都出身で現在47才。気仙沼フェニックスバッティングセンターは2014年3月30日にオープンしたんです。

(ピエール瀧)最近ですね。

(カルロス矢吹)めちゃめちゃ最近なんですよ。で、千葉さんはもともとは高校球児なんです。西東京大会で公立高校をベスト4まで導いたことがある、すごい野球をちゃんとやられていた方で。就職してから東京で知り合った奥様と結婚をした際、奥様が実家が気仙沼だったんですね。で、奥様の実家が牛乳の配送所を経営されていて、婿養子に入ると同時に気仙沼に移って、奥様の実家の家業を継ぎます。3人の子供に恵まれ、長男の瑛太くんも小学校に上がった時から野球を始めます。そんな折、起きてしまったのが2011年3月11日の東日本大震災だったんですけども……。

(ピエール瀧)はい。

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東日本大震災

(カルロス矢吹)この震災で、千葉さんと長男の瑛太くん以外、2人のお子さん、奥様、奥様の方のご両親と奥様の妹さん、そのお子さん、7人を津波で亡くされています。

(ピエール瀧)そうなんだ……。

(カルロス矢吹)千葉さんと瑛太くん以外のご家族はちょうど配送所で仕事をされていたので、地震の時はみんな配送所にいたんですけども、地震発生から津波まで30分ぐらいタイムラグがあったんですね。で、地震が起きて「これはただ事じゃないから、お前らみんな帰れ」と千葉さんが家族を帰して。それでいろいろと書類整理などの作業をしている時に、いきなり津波がやってきて。「これはヤバい。黒い壁がそそり立っていて、これはとんでもないことになる」と思って、慌てて事務所の屋根に登ったらしいんですよ。それで事なきを得て……もう間一髪のところで、屋根に登った瞬間に津波にが会社を流していったらしいんですけども。

(ピエール瀧)うん。

(カルロス矢吹)もう辺り一面は真っ黒で。「これからどうなるんだろう?」と思いながら、とりあえず水が引くのをまっていたそうです。で、水が引いたら、歩いて歩いて歩きまくって、まず家族を探したわけですよ。長男の瑛太くんはもう小学校に行っていたので、たまたま小学校は無事だったんですね。小学校はちゃんとみんな避難をしていたので、その小学校は無事だったんです。遠い親戚の方が瑛太くんを見つけて、そこの家で保護をしてくれていたらしいんですけども。で、瑛太くんは無事だということはわかったんですけど、他のご家族は見つからず。瑛太くんと歩いて探し回って、いろんな小学校の遺体の安置所とかを見て回ったところ、車ごと津波で流されていたご家族7人を見つけまして。

(ピエール瀧)うん。

(カルロス矢吹)最初は瑛太くんには言えなかったらしいんですね。その遺体安置所の方に言われたのは「火葬場がない。(遺体は)土葬にしてくれないか?」っていう風に言われたらしいんですね。でも、「この7人全員をきれいな状態で火葬してあげることが自分の務めだ」と思って、まだインフラも復旧していない時なんですけども、自分で軽トラを運転して、仙台とか盛岡とかからドライアイスをかき集めて。なんとか遺体をきれいなまま保存して。それも1日おきに1人あたり15キロ、ドライアイスが必要らしいんですよ。それを2週間続けて、なんとかきれいな状態を保って、「火葬ができる」っていう風になった時、はじめて瑛太くんに言ったらしいんですね。

(ピエール瀧)「実はな」って。

(カルロス矢吹)それで「ダメだったよ」って言ったら、瑛太くんも「そうか……」というので、2人で送り出したらしいんですけども。

(ピエール瀧)うん。辛かったろうね……。

(カルロス矢吹)実は千葉さん、ご家族を探しながら、それと同時に牛乳配送所で働いていた従業員も探されていて。その時に、たまたま従業員のみなさんが無事だったんですよ。それで、3月11日に地震が起きたじゃないですか。3月25日は千葉さん、全員のところに行って給料を渡しているんですよ。銀行も、ATMなんかも全部流されているんで、通帳も何もないんですけども、銀行がなんとか顔パスで金庫からお金を下ろしてくれるというので、社長としての務めを果たすため、ちゃんと従業員のみなさんのところに手渡しでお給料を出して。

(ピエール瀧)うん。

(カルロス矢吹)そして取引先がたまたま学校とか幼稚園とか保育園だったそうなんですね。だからその時に、家族や従業員を探すついでに取引先のところにも「うちは絶対にまたやりますから。だから、取引を続けさせてください」って言って、もう5月1日には仕事を再開したらしいんですよ。

(ピエール瀧)うん。強い人だね。

(カルロス矢吹)で、ご本人が「(出身地の)東京に戻らなかったのは、従業員の方が生きてらっしゃったからだ。仕事がなかったら絶対に東京に戻ってしまっていたと思う」と。

(ピエール瀧)責任感がそうさせたということだね。

(カルロス矢吹)はい。そうですね。で、5月に入ってから、被災地復興の講演などなどで盛岡とかいろんなところに講演で呼ばれるようになって、それに瑛太くんも同行して、一緒に行っていたんですけども……野球の話ですが、当たり前ですが、野球なんかできる環境じゃないわけですね。

(ピエール瀧)そうでしょう。

(カルロス矢吹)もう(瑛太くんの)チームも自然消滅しちゃって。瑛太くんも学校を転校したらしいんですね。で、転校した先でなんとか、野球らしきことはやっていたらしいんですけど、そんな状態だった時に、瑛太くんと一緒に行った出張の帰りに、奥州市の前沢バッティングセンターっていうところがあるんですけど、それを見つけて。「ああ、バッティングセンターがあるね。ちょっと久しぶりに打っていこうか」って。で、行ったらもう瑛太くんが一心不乱に1時間ぐらい、延々に汗だくになりながらバットを打っていて。その姿を見た時に、「ああ、これだな」と思ったらしいんです。何もかも忘れて野球に打ち込む子供の姿というのを見て、グッと来たらしいんですね。

(ピエール瀧)うん。

(カルロス矢吹)で、その前沢バッティングセンターから気仙沼のご自宅まではだいたい片道で1時間半ぐらいかかったんですけど。もう帰りの90分はずっと野球の話。その時に、はじめて家族が亡くなったこととか地震のこととかを2人とも忘れられたらしいんですよ。その野球の話をしている時に。それから、往復で3時間はかかるんですが、毎月1回ぐらいはバッティングセンターに……そこがいちばん近いところだったんで、行こうっていう話をしていたんですけど、で、そういうのを繰り返していた時に、ある時いきなり瑛太くんが「僕はこうやってお父さんに連れて行ってもらえるから野球ができるけど、友達はみんなできない。野球なんかできる環境じゃない人もいるんだ。ねえ、お父さん。気仙沼にバッティングセンターを作ってよ。そしたら、僕の友達もみんなできるから」って。

(ピエール瀧)うん。

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「お父さん。気仙沼にバッティングセンターを作ってよ」

(カルロス矢吹)それでいちばん最初、軽い気持ちで「ああ、いいよ。作ろう、作ろう」って言ったらしいんですよ。ただ、イメージとしてはそんなちゃんとしたバッティングセンターじゃなくて、裏庭にピッチングマシン1台とちょっとしたネットみたいなので……。

(ピエール瀧)中古のマシンを買ってきて、ネットを張ってっていうね。

(カルロス矢吹)それで子供たちが代わりばんこに打つぐらいのイメージだったらしいんですよ。それで本当にやるつもりだったんですけど、やっぱり会社のこともあるので。忙しくて2ヶ月、3ヶ月、なにもせずにたっていたら、ある日瑛太くんが「お父さん、本当にバッティングセンター作るの? 本当にやる気、あるの?」って聞いてきたそうなんですね。その瑛太くんを見た時に、「この約束を守らなかったら、こいつは壊れてしまう」って思ったらしいんですよ。「家族が1人亡くなるだけでも、かなり大変なこと。それが一気に7人も亡くなってしまった。それで最後に1人残った親に約束を守ってもらえなかったら、こいつはどうにかなってしまう。それ以上に、自分自身も後悔してしまう。死ぬ瞬間に、『なんであの時にバッティングセンターを作らなかったんだろう?』って自分自身が後悔してしまう」って思って。「わかった、俺はバッティングセンターを作るよ!」と言って、もうすぐに動き出したんです。

(ピエール瀧)うん。

(カルロス矢吹)でも、まだ会社の牛乳配送所だって再建途中。そこで千葉さんは一石二鳥の手段を考えるんです。「希望ののむヨーグルト」っていうチャリティーのヨーグルト、オリジナルドリンクを作りまして。それを1本500円で販売しようと思ったんです。その500円の10%の50円はバッティングセンターの建設費用に回しますという文言をちゃんと書いてやったんですけど……でも、さっき言ったように最低でも1億はかかるんです。

(ピエール瀧)そうだよね。50円ずつじゃあ、途方もないよね。

(カルロス矢吹)200万食売らなきゃいけないっていうことになるじゃないですか。200万食って、アパホテルが出している「アパ社長カレー」っていうのがあるんですよ。これが6年かかってやっと200万食を売ったんです。

(ピエール瀧)なるほど。うん。

(カルロス矢吹)アパホテルなんて全国にある大きな会社じゃないですか。そこで200万食を売るのにそんな時間がかかっているわけなんで、それだけでやるのは大変なんですよ。なんで、全国の販売会みたいなのを回って(ヨーグルトを)売りながら、かついろんな地域のバッティングセンターを同時に見て回ったんですね。それで販売とバッティングセンターの研究の一石二鳥を兼ねてやったんですけど、それだけではとてもじゃないけど足りないから、たとえばネット。これを安く提供してくれるというところがあったら、自分でトラックを運転してどこでも取りに行くと。

気仙沼から(最も遠い場所で)埼玉ぐらいまで行ったらしいんですね。そうやって、なんとかいろいろとコストを下げていって、「これぐらいの値段でできるんだったら、じゃあ銀行も融資しましょう」ということでやっていったらしいんです。それでなんとか建設の目処を立てて……「(瑛太くんが)小学校を卒業するまでに建てる」という約束をしていたので、卒業式は終わってしまっていたんですが、瑛太くんが中学校に上がる直前の2014年3月30日にバッティングセンターがオープンすることになったんですね。

(ピエール瀧)間に合わせた!

(カルロス矢吹)無理やり間に合わせたんですよ。で、そのオープニングセレモニー。気仙沼市長をはじめ、200人ぐらい来たらしいんですね。千葉さんのスピーチの後、最後に長男・小学校6年生の瑛太くんが作文を読み上げたんですけども。外山さん、ちょっと読んでいただいていいですか?

(外山惠理)「3年前の3月11日、気仙沼を大震災が襲いました。その震災で僕は家族を亡くし、家を失い、何もかもがなくなってしまいました。でも、いま思えば何もなくなってしまったわけではないと思います。父が生きてくれていたから、楽しい生活ができているし、希望を持てたし。父が生きていたから、バッティングセンターを作ってもらうことができました。僕の一言で父は寝る間も惜しんで一生懸命働いてくれました。父もやりたいことがたくさんあったと思います。だけど、バッティングセンターの方を優先してくれて、とても感謝しています。バッティングセンター建設という夢があったから、たくさんの方に会うことができて僕は本当に幸せです。支えてくださったみなさん、ありがとうございました。僕は父と母の子で本当によかったです。お父さん、ありがとう。これからもよろしくお願いします。千葉瑛太」。

(ピエール瀧)しっかりした子だな……。

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7台のピッチングマシン

(カルロス矢吹)で、この作文の読み上げがあった後、始球式ならぬ始打式。第一打席に瑛太くんが立つんですけども……気仙沼フェニックスバッティングセンターはピッチングマシンが7台、用意してあるんです。この「7台」っていうのは、亡くなった家族と同じ数なんです。これは瑛太くんのリクエストで、「みんなが投げてくれる球を僕はホームランにしたい」という。

(ピエール瀧)うん! そうか……。

(外山惠理)これはね、グッと来ちゃいますね。7台。

(カルロス矢吹)で、気仙沼フェニックスバッティングセンターは200円で23球打てるんですけども、この「23球」というのは飲むヨーグルト、乳酸飲料で建てさせてもらったバッティングセンターだから、「にゅうさん=23」なんですよ。千葉さんはこういう風なダジャレとかユーモアを絶対に忘れない人で。こういう人だから、たぶんみんなが付いてきたんだと思うんですね。真面目一辺倒なんじゃなくて、苦しい中でもこういうユーモアとかちょっとしたダジャレとかを絶対に忘れなかった人なんで。それでみんな、付いてきたんだと思いますね。

(外山惠理)こういう話が読めるんですか?

(カルロス矢吹)そうですね。こういう話を毎回毎回、『野球的』という雑誌で。11月発売になったそうです。

(ピエール瀧)なるほど。矢吹くん、ちゃんとした仕事もやるね! いい話。もう目頭が熱くなった。俺、もう番組冒頭で熟成肉の文句言っていた自分が恥ずかしいよ……。

(矢吹・外山)(笑)

(ピエール瀧)「恥ずかしいぞ、俺」って思いながら(笑)。

(外山惠理)お父さんと、ねえ。

(ピエール瀧)ねえ。立派なお父さんだ。

<書き起こしおわり>

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