田中康夫さんがTBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』に出演。菊地成孔さんにかつて甲子園にヤッシーを連れて行った件で高野連から謝罪の手紙をもらった話をしていました。
(菊地成孔)もう、なんと言いましょうか、僥倖というね。私、1980年から33年の間、一度も欠かさず田中先生のことを『康夫ちゃん』以外の・・・(笑)。呼び名で呼んだことが一度もないんですが。
(田中康夫)いや、でも58になっても康夫ちゃんって呼んでくれる女性の方とかいらっしゃるから。それはありがたいですね。
(菊地成孔)康夫ちゃん以外考えらんないですけどね。ただ、今日は番組の進行上、康夫ちゃんと言ったら・・・(笑)。
(田中康夫)いや、康夫ちゃんですよ。
(菊地成孔)いえいえ、田中先生で。
(田中康夫)常に等身大ですから。あの、私、昔山国で知事っていうのを千々に乱れてやってた時に、カモシカヤッシーっていうね、元祖ゆるキャラ。安齋肇さんが、ソラミミストの。がデザインしてくれた。あのヤッシーの中に潜り込んでいたのが菊地さんの門下生なんですって。
(菊地成孔)はいはい。私の音楽の、リズムの授業を受けてました。松田くんね。
ヤッシーの着ぐるみを連れて甲子園へ
(田中康夫)そうそう。松田くん。それで、わずか11人の野球部員の学校がその時、甲子園に出て。甲子園に行って、彼が炎天下、一緒にかぶりものかぶって。私も1人で荷物いっぱい持って行って。で、そうしたらかぶりものが甲子園の中にいるのはいけません!って。その日、私たまたまそれで大阪から、伊丹から飛行機で帰ってきて。TBSの当時アクセスっていうラジオをやってましてね。
(菊地成孔)はいはいはい(笑)。伝説の番組ですよ。
(田中康夫)そしたら『なんかこんなのが通信社配電で入ってますよ』って。『かぶりものを連れてきた田中康夫知事に厳重注意を』って言うから、『えーっ?』って。僕、生放送で。だって、『その横に高野連の理事の人が2人座っていて「かわいいねー、なんかうちの孫に見せるから、一緒に写真撮っていい?」って言ってましたよ』ってオンエアーで。これ、言ったもの勝ちですからね。言ったら、初めて『当方も至らぬことがあり、以後、お互いに気をつけましょう』って。高野連に怒られた人、いっぱいいるけど。高野連から一応そういうお手紙いただいた人は珍しいっていう・・・
(菊地成孔)そうですね(笑)。
(田中康夫)その中に入っていたのが菊地成孔門下生ですよ。
(菊地成孔)そうですね。そのことを後から知ってびっくりするわけですけども。でも、元祖ゆるキャラの話ですよね。
(田中康夫)まあちょっと早すぎるんだね。やることがね。
(菊地成孔)そうですね。もう一言で言って。テーマ的には・・・
(田中康夫)言われましたよ。誰かに。だから放送とかも、なにかしゃべったのそんまま瞬間燻製みたいにしておいて、1年後とかにちょうどみんな・・・
(菊地成孔)解凍ね(笑)。
(田中康夫)いいんじゃないの?みたいな。
(菊地成孔)リーディングじゃなくて、ローディングしろって(笑)。
(田中康夫)その意味で言うと、33年前に書いた時には誰も注目してくれなかった合計特殊出生率と高齢化率をね、去年くらいになったら、だんだんだんだん。いや、あの本のいちばん最後の注は、これがあったんだ!とかって言われてきて。
(菊地成孔)あれがまあ、なんていうかいわゆるロバート・キャンベル氏命名の『元クリ』。『なんとなく、クリスタル』。
(田中康夫)で、今度のが、菊地さんにもう素敵な文章を書いていただいて。推薦文をいただいたのが『今クリ』っていって。まあ他にも、なかにし礼さんとかロバート・キャンベルさんとか、壇蜜さんとか。10人が並んでいて。帯がね、すごい。普通、帯のことを腰巻きって業界用語で言うんですけど。腰巻きどころか、もうバストアップの胸巻きになっていて。
(菊地成孔)そうですね(笑)。
(田中康夫)で、カラーでね。後ろにはロッタの写真まで載っけて。これ、河出書房新社から。千駄ヶ谷の出版社ですけども。矢来町のあたりにある新潮社とか紀尾井町にある文藝春秋の人は、『いまどきこんな帯にこれだけの10人、些少とはいえお金払って、総天然色の帯っていうのはよっぽど河出書房は税金対策してんのか、自暴自棄なのか?』って言われてますけどもね。
(菊地成孔)ぜひ手にとっていただきたいものですけども。
(田中康夫)25日くらいから書店に並んでまいりますけれども。
<書き起こしおわり>