プチ鹿島 元巨人助っ人外人 呂明賜の鮮烈デビューを語る

プチ鹿島 元巨人助っ人外人 呂明賜の鮮烈デビューを語る 東京ポッド許可局

(プチ鹿島)呂明賜のインパクトが本当すごかったのよ。だってそれでホームランを量産して、あの週刊ベースボール、2週連続で表紙取ったのは、当時。呂明賜が初めて。で、夜のヒットスタジオデラックス、あったじゃないですか。あれでとんねるずさんがこう、雨の西麻布かなんかで出て。七夕だったんで、ちょっとしたバラエティーコーナーで『さあ、今日の出演者のみなさん、短冊に願いを』って。で、とんねるずの石橋さんが『呂明賜みたいになりたい』って。

(マキタ・タツオ)おおー!

(プチ鹿島)すべての10代の意見を代弁してくれたんです。それぐらい、まあ、短かったですけど。結局バッティングフォームとかいじらちゃってね。ボブ・サップにちょっと似てるんですよね。もっと率を残すためにバッティングフォームをまともに変えたら、逆にもうおかしくなっちゃって。

(マキタスポーツ)そうか。パ・リーグとかの他の球団とか行ってりゃ、もっとすごいことになってたかもね。

(サンキュータツオ)南海とか行ってればよかったんだよ。

(プチ鹿島)ただ、あのインパクトがやっぱり当時巨人戦、20%だったからこそ、あれだけのことになったっていうのもあるんですけど。

(サンキュータツオ)たしかにそうだ。あれ、巨人だからだわ。

(マキタスポーツ)すごかったよ。とにかく未知の強豪感っていうかさ、たしかにPKの言う通りだったわ。鮮烈だったねー。

(プチ鹿島)だから俺、うれしかったよね。イースタン・リーグで初めて見に行った2日後に。だから当時高校生ぐらいでしたから。勉強しながらラジオですよ、だから。スカパーとかないですからね。

(サンキュータツオ)一昨日見た奴が。

(プチ鹿島)で、呂明賜。わくわくしながら。で、第一打席でホームラン打って。俺、慌てて2階からダダダダダッ!って。『お母さん、お母さん!呂明賜がホームラン打った!』って。

(サンキュータツオ)お母さんに言っちゃった(笑)。思わず。

『お母さん!呂明賜がホームラン打った!』

(プチ鹿島)そういう時、ないですか?もう高校生だからそんなに、親とは話したくないんですけど。もう勢い余って。『お母さん、呂明賜がホームラン打った!』っつって。

(サンキュータツオ)(笑)。鹿島さん、結構いい年だったんですね。お母さんに言っちゃったんだ(笑)。

(プチ鹿島)当時、だからtwitterないから。

(サンキュータツオ)(笑)。そっか。twitterあったら、そうだよね。お母さんに言わないもんね。そうだよね。

(マキタスポーツ)(笑)

(プチ鹿島)だから、ここお母さんっていうのがポイントですよ。初回ですから、まだ6時過ぎなんですよ。お父さんはまだ、帰ってきてない。

(サンキュータツオ)そうか!

(マキタスポーツ)たまらず、つぶやいちゃった。

(プチ鹿島)そう。たまらずつぶやいちゃった。。今でも思い出すもん。2階からドドドドドッ!って走って行って。『お母さん、呂明賜が!一昨日見た呂明賜が!』って。『うん』って言ったね、お母さん。

(サンキュータツオ)『うん』って言ったんだ(笑)。

(プチ鹿島)『よかったじゃん。いいの見たね』って。で、また2階に戻って。

(サンキュータツオ)お母さん、優しい。

(マキタスポーツ)言った後に自分で顔真っ赤になっちゃうみたいな。いいですね。

(プチ鹿島)そういう、言わざるを得ない時ってないですか?なんで俺、この人に話してるんだろう?みたいな。呂明賜、覚えてないですか?タツオ。

(サンキュータツオ)いや、覚えてるよ。呂明賜・ホーナーはすごい覚えているよ。

(プチ鹿島)80年代中盤です。呂明賜は88年か。

(マキタスポーツ)88年?そうか、俺まだギリギリ高校生だったかな?

(サンキュータツオ)88年。

(プチ鹿島)ソウルオリンピックの年です。呂明賜を一夏楽しんで、秋、ソウルオリンピックを楽しんだっていう。だから昭和最後の年。実質。昭和63年とかでしょ?

(サンキュータツオ)でも、わくわくしただろうね。

<書き起こしおわり>

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