町山智浩さんが2025年9月16日放送のTBSラジオ『こねくと』の中で韓国映画『最後のピクニック』について話していました。
※この記事は町山智浩さんの許可を得た上で、町山さんの発言のみを抜粋して構成、記事化しております。
(町山智浩)今日、紹介する映画は『ジュリーは沈黙したままで』という映画で。これはずっとジュリーという女の子は沈黙したままの映画です。しゃべるんですけど、大事なことを言わないんですよ。で、どういう話かというとこれ、主人公ジュリーはベルギーの15歳の高校生なんですね。で、、天才的なテニスプレーヤーで要するにベルギー代表にも選ばれるというような、そういうレベルのスーパースターになろうとしているテニス少女なんですけれど。彼女が所属しているテニスクラブのジェレミーという40歳ぐらいのコーチがいて、それが突然、指導停止処分になっちゃうんですよ。
「コーチをしてはいけない」という処分がクラブの方から下って。なんでだろうと思ったら、このジュリーちゃんのちょっと上の先輩の女の子が自殺をした。で、どうも不適切な関係がこの40代のジェレミーっていうコーチと、その18、9のテニスの選手との間にあったんじゃないかということで調査が始まるんですよ。そのテニスクラブの中で。
それで、コーチの一番のお気に入りだったのがこのジュリーさんなんで、「あなた、本当は何か、あったんじゃないの? ちょっと言ってくれないか?」と言われるんですが、決して彼女は何も言わないっていう映画なんですよ。これ、全然何も言わないです。ジュリーは。
まず、彼女はそのジェレミーっていうコーチが大好きなんですよ。ものすごくかわいがられているから。で、新しいバッキーっていうコーチが代わりに来るんですね。でも、「彼の教えなんか受けない! 私はジェレミーじゃなきゃ、嫌だ!」って言うんですよ。それぐらい、完全にもうジェレミーの一番大事にしている、いわゆる先生のお気に入りなんですね。で、答えないんですよ。最初はもう本当に黙秘権ですよ。彼にとって不利なことになると困るからっていうことで黙ってはいるんですけれども……この映画、彼女は何もしゃべらないわけですが、その代わりにしゃべるものがあるんですよ。
雄弁なカメラワーク
(町山智浩)それはね、カメラワークなんですよ。映画的なんです。セリフでいろいろ言うんじゃなくて。たとえば彼女、ジュリーがそのコーチと先輩の間に何かあったらしいことがわかった時、彼女以外のもののピントが全部、外れるんですよ。だから技術的な話だと絞りをすごく開いちゃって、彼女にしかピントがいかないようにしてるんですよ。で、すごい近くに座ってる友達とかお母さんとかもぼけて全く顔が見えないんですよ。
もう本当に他のものの情報とかを完全に拒否しちゃって、自分の殻に閉じこもってる状態なんですけどそれをセリフとかで示さないで、カメラの撮影の仕方で見せるんですよ。この映画は。これはね、監督のレオナルド・バン・デイルという人がインタビューでも言ってるんですけど。「この映画はすべてのシーンの撮り方に意味がある」って言ってるんですよ。だから何もそういうピントのぼけ方とかを考えないで見てると「何も起こらない話だな」っていう人が出てくると思うんですよ。
「話が進まないじゃないか」とか映画館に文句つける人も出そうなぐらい、セリフとかストーリー上は何も起こらないんですよ。カメラワークでわからせようとするんですよ。彼女も全く凍りついちゃっていて、表情を変えないですから。彼女の顔を見ても、何もそこには見えないんですよ。
ちなみにこの女優さんはテッサ・バン・デン・ブルックという人で、彼女は素人でなんですね。本当のテニス選手です。だから下手に無理にセリフを言わせたり、芝居をさせてないんですね。監督は。だから彼女の表情じゃなくて、その表情はもうほとんど凍りついて変わらないんだけど、その向こう側を観客が考えながら見るという。で、彼女の心の中ではものすごい葛藤が起こっているわけですよ。たとえばテニスって、行ったり来たりするじゃないですか。だからトレーニングってダッシュして行ったり来たりする練習するんですよね。パンッ!ってやって方向転換し続けるっていう。それをずっとやってるシーンっていうのがあるんですけど、それはまさに彼女の心の中の状態ですよね。
そこにいようか、いまいか。行ったり来たり。そういうことをずっとやってるんでボーッとしているとね、「なんだ、この映画。何もないぞ?」って思っちゃうんですけどね。で、この映画はなんとプロデュースがですね、大坂なおみさんです。彼女自身が天才少女でしたけどね。で、彼女は今、会社を持っていて。あらゆるクリエイティブなことをやる……ファッションとか映画とかいろんなイベントとかをやる会社なんですね。それがHana Kumaっていう名前の会社なんですよ。かわいい名前なんですけども。そこでこの映画をプロデュースしてるんです。
やっぱり彼女自身がテニス選手としていろいろあったことをこの映画の中に見出したから、お金を出したわけですけれども。じゃあずっと、このジュリーの周りはぼけたままで話が全然進まないのかっていうと、そうではなくて。ベルギーだから最初、冬の寒々しい風景から映画は始まるんですけど。だんだん春になって、暖かくなってくるんですね。そうすると合宿とかがあったりするんですけど。それでだんだんだんだん、周りにピントが合っているんですよ。
最初はもう殻に閉じこもっているだけだったのが、だんだんだんそれが解けていく感じで。最初ね、友達もすごい近くにいるのにその友達の顔が全く映っていないんですよ。これ、撮影はたぶんものすごく難しい、ギリギリのところでやってるんですけど。でも、それがだんだんだんだん友達の顔が判別ができるようにピントが合い始めていくんですよ。ゆっくりゆっくり。これは大変な撮影のプランに基づいて撮られた映画だと思います。はい。
ハリウッド映画だと同じような素材でもね、たとえばそういうコーチのセクハラの問題だったとしてもすごく分かりやすく、まずセリフで説明しちゃいますよね。あとすごく激しい演技とかね。たとえば1人になった時に何かを壊したりとか、「ああーっ!」って言ったりとかするっていう……まあ日本映画もよくありがちですが。でもそれは一切ないんですよ。それがね、全然ハリウッド映画や日本映画と決定的に違うんですけど。
ただ、やっぱり高校生だから試験を受けるじゃないですか。それでみんな、試験で回答を書いているんですけど、よく見ると彼女だけ止まっちゃってるんですよ。で、そのコーチとジュリーの間に何があったかは具体的にはほとんどわからないんです。そこを逆にほじくることは失礼だっていうのが監督の態度なんですね。これ、お父さんが出てきて。お父さんにもピントが合ってないんで、情けないんですけど。「もう、ほっといてあげよう」ってただ、それだけ言うんですよ。この気持ちで撮られてるんですね。
彼女は最初はまさにコーチに一種、恋愛感情を抱いてるんですよ。たぶん、そういう形で。「彼じゃないと嫌だ」って言ってるから。で、はっきり言うと彼に洗脳されている形ですよね。最初は、コーチに。だからそれが解けるまでにも時間がかかるわけですよ。大抵、被害者って洗脳されているからね。
コーチからの洗脳
(町山智浩)たとえば彼女が自分の子供の頃からのアルバムをパラパラめくるっていうシーンがあるんですけど。それはただ、それだけのシーンだなと思えば思えるんですけどよく見ると、すべての写真がちっちゃい頃から全部、テニスの格好をしてるんですよ。この子、テニス以外に何も人生がないんですよ。だから、もしこれで言っちゃうことによってそういう形で注目されたりして、今までやってたことが全部パーになっちゃうかもしれないってことも考え始めてるんですよ。スキャンダルになったりしてね。
それだったら黙っているべきなのかと。ところが練習をしていると彼女、うまいから新しいコーチのバッキーが「ちょっとみんな、手を止めて。彼女、ジュリーの動き見て。ジュリーのフットワーク、すごいいいから見てね」って言うと、全員がジュリーをじっと見るんですよ。後輩とかが。そうすると「ああ、私はみんなの手本なんだ。後輩たちがみんな、私に注目している。私は後輩たちをがっかりさせないようにしなきゃなんないんだ。それには戦うべきなのか? それとも耐えるべきなのか?」っていう選択を彼女はしなきゃならなくなるんですけど。ただ、そのシーンは単に「フットワーク、見てね」っていうだけのシーンなんですよ。
これは実際、本当にもっと時間かかるそうです。それこそ10年、20年かかるものじゃないですか。言えるようになるまでにね。でも周りは急いちゃうんですけども。その理由というのもまた別の理由が1つ、あって。彼女がその自殺した選手のビデオを見るんですよ。テレビか何かでインタビューされたものを。そうするとその彼女が「スポーツ選手に大事なのは自分の感情をコントロールすることですね」って言って、にっこり笑うんですよ。これでわかるのはまず、そのようにコーチに洗脳されていたんだということですね。「自分の気持ちを外に出すな」ってことですよね。で、もちろん、ジュリーもそのように洗脳されたんですよ。
で、「とにかくスポーツ選手は精神が強いんだ。メンタルが強いんだ」っていう伝説というか、神話のようなものがあるじゃないですか。大坂なおみさんというのはそれに対して、まあほとんど初めて逆らった人ですよね。でも彼女、その大変だったんですよ。2021年、全仏オープンをその途中で出場辞退した時……「メンタルが苦しいから」っていうことで出場を辞退をした時、彼女は全世界からものすごい叩かれたんですよ。
「甘ったれてる!」みたいな感じで。日本の人もひどかったよ。ネットとかで。ボロカスに言っていましたよ。「スポーツ選手なんだから、そのぐらい耐えなきゃダメだろう。根性だ!」みたいなことを言って。「お前がやれよ、バカ!」って思うんですけども。監督が「実はこれ、テニスの話じゃないんですよ」って言ってるんですよ。「テニスに興味ないから見ない」っていう人も多いと思うんですけど実はそういうことじゃなくて。これは女性たちはあらゆる場所で……学校から職場から家庭でも、あと男女関係でも「感情をコントロールしろ」と言われ続けるんですよ。
たとえば男性とお付き合いしていて「不機嫌になるなよ」って言われたこと、ありませんか? 女の人はなんか不機嫌になったり、感情を出しちゃいけない。いつもうっすらと笑って笑顔でいなければいけないっていうことがあるじゃないですか。前もそんな話をしましたけど。この監督は「そういうことなんだ」って言ってるんですよ。でね、僕はこの映画を見て思い出したのは『キャプテン・マーベル』っていうマーベルコミックスのヒーロー物なんですけど。それにコーチが出てくるんですよ。彼女を鍛えるためにジュード・ロウっていう俳優がコーチするんですよ。戦い方を。
で、その時にね、彼女がガーッ!ってやると「ダメだ。感情的になっている。女はすぐ感情的になるからな」って言うんですよ。だからこれは洗脳なんですよ。奴隷化するためのシステムをやってるわけで。だからすごく生々しかったんですよ。『キャプテン・マーベル』ってヒーロー物なのにそのシーンが。そういうことをやっていて。
あと、この監督がすごいのはこのジュリーっていう子は実際に15、6歳かのテニス選手なんですけれども。「映画を撮っている間、一度も彼女と2人きりにならないようにした」って言ってるんですよね。で、それは2人きりになるなろうとする監督っていっぱいいるらしいんですよ。実際に。「一緒にお酒を飲もう」とかね。でもそういうのは一切やらないという風に監督が言っていて。これもなかなかね、素晴らしいんですよ。
もう日本とかアメリカとか、みんなそうです。役を取ろうとするために逆に2人になろうとする女優さんもいますけど。「そういうものはもうやめようよ」ってこの監督は言ってるんですよ。「おかしいよ」って言っていて。日本でよく、そういうことが批判されますけど。ベルギーでも同じなんだなっていう風に思います。そういう感じでね、ずっと耐えてきて……っていう映画なんでまあ、どうなるかは言いませんが。ボーッと見ていると「なんだ、これ?」って映画ですが。本当にね、カメラが何よりも語っている映画なんでぜひその辺を注意して見ていただくといいと思います。