荻上チキさんがTBSラジオ『Session-22』の中でフジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした』で数十年ぶりに復活して非難を浴びているキャラクター・保毛尾田保毛男問題について話していました。
(荻上チキ)今週1週間はちょっと喉の調子がよくないので、毎回ゲストの方に……。
(南部広美)サポートをしてもらって。
(荻上チキ)サポーターシステムっていうのは、いろいろと助かりますね。
(南部広美)心強いですか。
(荻上チキ)はい。というわけで、今日もサポーターの方に手伝っていただくというか、助けていただこうと思うんですが……こうやって、ちょっと声が出づらいような状況でも、声を出さなくちゃいけないなと思っているニュースっていくつかあるわけですよ。選挙の話も、来週からまたしっかりと取り上げていこうと思うんですけども、今日、オープニングでしゃべりたいことがあって。メディアでしゃべるということは、それだけ意味のあることだと思うんですが。
(南部広美)ええ。
(荻上チキ)昨日、家でニュースサイトなんかを見ていたら、ちょっとギョッとするニュースがあったんですよ。それは、昨日の段階でね、「今夜の特別番組であの往年のキャラクターが復活!」みたいな形でバラエティー番組で数十年前に登場していたキャラクターがまた出てくる的な、そういうようなニュースの書かれ方をされていたんですね。で、そのキャラクターっていうのが、とんねるずというお笑いコンビの石橋貴明さんという方が昔、よくコントで演じていた保毛尾田保毛男という、ゲイの方を表象して笑いを取るというキャラクターが何十年ぶりに復活というニュースを見たわけですよ。
(南部広美)はい。
(荻上チキ)で、「マジか? 復活させるんだ」って思って。それには、いろいろな時代背景とか様々な社会的な自覚の変化とか、いろいろものが進んできて、あるいは行われているような状況の中でエクスキューズが一切なしで「復活。歓迎!」みたいな感じでニュースが書かれていることに驚きを感じて。夜は夜でこの番組をやっていたので、その番組は生では見なかったわけですけど、その後に番組にも触れ。で、やはり案の定、今日のTwitterとかネット上とかいろんなところの反応を見ると、賛否両論。当事者系の方々がそれに対して抗議の声を上げている一方で、「いや、あれはだってコントのキャラクターでしょ?」とか「30年前に許されていたのに、いま許されないってなんだか息苦しいね」とか、そういった反応がいろいろと出ているわけです。
(南部広美)うんうん。
保毛尾田保毛男に対する様々な反応
(荻上チキ)で、この問題については、やっぱりメディアが正面から取り上げなくてはいけないものだと思うんですね。そもそも、「笑いとは何か?」とか「差別とは何か?」とかっていうことを考える上ですごく大事な事案ということになってしまったと思うんですよ。(テレビで)放送をされたわけですからね。で、そういった特定のセクシャリティーを持つ人というものを、名前でいじり、見た目でいじり、あるいは行動でいじってキャラクターに変えて笑いにする。で、そのキャラクターの特徴の強さによって笑いを引き起こすというのはお笑いのひとつの典型的な手法ですよね。そのキャラクターをどういう風に面白く育てるか? 作るのか? で、そのキャラクターの面白さを育てるためには、社会的な偏見とかを動員するっていうこともままあったりします。
(南部広美)うん。
(荻上チキ)それはたとえば自虐ネタで太っている人、あるいは髪の毛が薄いとか、そうした人が自分たちの体を使って「自虐」として行うということはあったりするわけですね。そういうようなことがいいのか、悪いのかっていう話はまた後ほど触れますけど、そういう風に社会的な偏見によってキャラクターの強さを確保して。その確保されたキャラクターを笑うっていうのは自虐だったりあざ笑い(嘲笑)。誰かを蔑む笑いとか、「うわっ、気持ち悪い!」みたいな笑いを生むっていうもので。笑いのひとつではあるけども、ただその笑いの種類というものは何かを笑うっていうようなものと非常に結びつきやすい。で、実際にそのセクシャルマイノリティーの当事者っていうのはいじめの被害にあいやすく、また自傷行為や自殺の経験というものが一般のヘテロセクシャルと言われる、異性を好きになるというタイプの人に比べては高いという傾向もあったりする。
(南部広美)うん。
(荻上チキ)で、この番組でメディアとセクシャルマイノリティーというテーマで、たとえばパレードとかに参加している人とかセクシャルマイノリティーの方にアンケートを取ると、やっぱり嫌だった放送、嫌だったメディアの発信というものの中に、このとんねるずのキャラクターっていうのはよく名前が挙がるんですよ。で、そういう風になにかをあざ笑うということを率先してキャラクターを作って、テレビで発信をすることになれば、当然のことながら、「子供たちが学校で真似るじゃないか」っていうことだけではなくて、社会に「その対象はあざ笑っていいものなんだ」「こういう風にふれていい対象なんだ」っていう、そうした振る舞いを広げていくということになるわけですね。
「偏見を広げる」って言いますけど、それもあると思う。だけど、より僕が深刻だと思うのは「振る舞いを広める」ことなんですよ。「こういう人は笑っていい」とか。たとえば、学校の教室で先生が保毛尾田保毛男のキャラクターの真似をするとか。生徒をいじる時に「お前ら、仲いいな。結婚しろ」というようなことを同性に言って、みんながドッと笑うみたいな、「そういう風な笑いがOKなんだ」っていう態度を広げるということがメディアの機能としてすごく大きなものだなと思っているんですね。
(南部広美)はい。
(荻上チキ)それが、特に問われることなく発信された。この件についてフジテレビの会見で社長が「差別の意図はなかったけれども、傷ついた方がいれば申し訳ない」というような趣旨のことを言ったわけですね。でも、これはいつもそうなんです。要は、「差別の意図はなかった」っていう以前に、おそらく吟味されていないんですよ。そのあたりの効果というものが、時代を経てどういう風になるのか?っていうことを考えることが丹念に行われているとは思えない。むしろ、「かつてできたことが、いまはできなくて息苦しいけど、あえてやっちゃうもんね!」みたいなそのテレビ的なノスタルジーの文化っていうのもをバンと取り入れてやる。だからある種、とてもマンネリ化したようなバラエティーの文法というものがあって。それこそマンネリ化したキャラクターを再生産することで、「自分たちはかつてこんなことをやっていたんだ」ということを全面に出したりするわけですけども。
(南部広美)うんうん。
(荻上チキ)それは単に、「それが通用する時代ではないですよ」とか、そういったこと以前に、もう別の客層が見えているのに、その客層に向かっていま新しいキャラクターが生めないのであればそれは笑いとしてつまらないって思うわけですよ。純粋にね。だから、「社会が……」というだけじゃなくて、笑いの追求者として、いまの客を見ないんですか? かつての客を見て「懐かしい!」とか「復活!」みたいなことをアピールしている段階で、いまのテレビユーザーにどういった笑いを起こしたいのか、作りたいのかみたいなものが見えないわけですよね。だから、とてもつまらなかったし、その放送されたものを見てがっかりしたんですよ。
(南部広美)はい。
(荻上チキ)で、いろいろと……いまのは一視聴者としての感想。笑いが好きな人としてのただの素人の感想です。だけどここからは評論家っぽく、そういう放送がされることの意味とかについていろいろと言いたいと思うんですけど。いろんな当事者が、声を上げているの。当事者じゃない人も声を上げています。「この放送、どうなの? 笑えないよ。面白くないよ。ひどいよ」っていうような声を上げている。それに対して「めんどくさい人たちが騒いでいる」みたいな形で反応する人たちもいるわけです。まあ、そういうものは結構どんな場面でも声を上げるという時にはありますよね。
(南部広美)はい。
「めんどくさい人たちが騒いでいる」という反応
(荻上チキ)で、まあいいんです。「声を上げる」というのは人に「めんどくさい」と思われるために上げるので、「めんどくさいことをしているな」って言われても、それはそれをするためにやっている。対立をあえて見えるようにして、「なんだよ、それめんどくさいよ」「いや、『めんどくさい』と言うけども、こっちはしんどいんだよ!」っていう風に返していくことが重要だったりするんですけど。実際に、たとえば足を踏まれて「痛い! 踏むな!」って言った人に対して「言い方がよくない。『踏むな!』とは何か? めんどくさい言い方をするな!」っていう風に言っているようなものだったりして。その、声を上げている人たちに対して「めんどくさい」と言えるのが、ある意味で既に特権だったりするんですね。マジョリティー側の。
(南部広美)言っている方が。
(荻上チキ)そう。つまり、あくまでも客観的に振る舞う……他人の、第三者のポジションで評価をするというような、そうした立場からコメントをするっていう人たちがいて。それが「やれやれ、めんどくさいやつらだ。面白ければいいじゃん。キャラクターじゃん」って言うんですけど、でもさっき言ったように特定のキャラクターがあるイメージを作ることもあるけど、ある態度を人々に植え付けるということもあるので、ただのキャラクターだからといって許されることではない。たとえば、「ブラックマン」みたいなキャラクターを白人がいま演じて、「これが黒人らしい黒人だ」みたいなことをジョークとしてやる。しかもそれが蔑みの目線とかを含めて演じるということ。かつてはそういった時代、ありました。でもいま、それをやったら許されるか?っていうと、そうではないだろう。
じゃあ、日本でたとえば被差別部落。あるいは貧困でもいいですし、障害。それから、たとえばいまだったら「ムスリムくん」みたいなキャラクターを作って、それっぽく振る舞って周りを戸惑わせるみたいなコントをやったとして、それ、抗議を受けないと思いますか? 抗議を受ける・受けないの問題ではなくて、そういう対象を笑いにするということ自体が、いじってもいい対象、安全に攻撃できる対象だと思っていないか?っていうことが問われる。他の対象に対してできないんだったら、なぜ、ゲイということに関してはできるのか?っていうことは問わなくては行けないんですね。となった時に、もうひとつある反応。「今回のようにセクシャルマイノリティーのキャラクター描写みたいなものが問題だというのであれば、じゃあなんであれには文句言わないの?」ということで、たとえばレイザーラモンHGとか。あるいはセクシャリティーだけじゃなくて、薄毛とか太っているとかいろんなものでキャラクター作りしている芸人さんがいるじゃないか。なんで、それには言わないの?っていう風に言ってくるわけです。
(南部広美)はい。
(荻上チキ)これに対しては2つの返しがあって。当事者がいま(足を)踏まれていることに対して「痛い」と言った時に、「他の人も踏まれているんだから、他の人のために『痛い』と声は上げなかったの?」みたいなことを言っていて。「いや、いま自分が痛いんです。他のものも問題だとは思いますけど、踏むこと自体が問題だということを自分が声を上げることで学んでくれたらうれしいが、まずはいま、私を踏むことをやめてくれ!」って言うことは大事じゃないですか。それに対して、「いや、他のことも言わないの?」って言うのは、これは同じく第三者目線というか。他人事として語れる特権から論じているものですよね。
で、「あれはやらないの?」って挙げられているものって、Twitterでさっき言った薄毛ネタだとかいろいろありますけど、僕はだいたい問題だと思っていますよ。それをいじっていいという態度が完成して、それこそ飲み会の場とかで公然と人の身体性とかをいじったり、その人の属性とか、あと過去の生き方とか、そうしたことを公然といじって笑いに変えるってクソつまらないと思います。飲み会の雰囲気としても。それよりも、もっといろいろと楽しさってあるじゃないですか。その中で、なんでよりによってそれを選ぶんだ?っていうものがあって。というようなことは常々思っているので、反論にはなっていませんと思うわけですね。
(南部広美)はい。
(荻上チキ)だから、こういうところで言うと、「じゃあいちいち、足元を注意して歩けということか? もう歩けないよ!」みたいなことを言う人がいるんですけど……「じゃあ、歩くな」と。(歩くたびに)誰かの足を毎回踏むぐらいだったら、歩かない方がいいと思う。でも、そんなこともない。こういう風に言われた時だけ、まるで他に何も選択肢がないかのように踏んだ側は提示をするわけですよ。だけど、そんなことはない。気をつけて、もっと上手な歩き方で「見事だな」って思われるようなあり方を、むしろ態度で示すことがテレビとかのプロフェッショナルならやれるでしょう? 才能があるんだったら。だったら、それをぜひ示してほしいと思うわけですね。だからそこで、なんとなく世の中の風潮とかに「息苦しいよ」とか言うんじゃなくて、その中で「こう振る舞ったら生きやすい」っていうものを提示すればいいわけですよ。
(南部広美)踏まないところをね。
(荻上チキ)はい。あとは、当事者にももちろん複数いて、「自分は傷つかないよ」とか「自分は当時は笑っていたよ」っていう人もいるわけですよ。それは、いるんです。そういうようなものの受け取り方は様々なわけですから。ただ、そういった人がいるからといって、逆に「踏まれた」と感じる人とか「不快だ」という人たちが声を上げることを無効化できるかというとそうじゃない。感じない人は感じないで、それはいいかもしれない。でも、「私は感じないのに……(声を上げている人たちは)ナイーブなやつら」みたいな感じで声を上げる人を嘲笑すると、「いや、ある意味ナイーブなんです。繊細なんです。敏感なんです。だから、ストレスなんです。やめてください」っていう声を上げることを妨げることにもなるでしょう?
だから、「自分はノーです。自分は面白くないです」みたいな形で声を上げるっていうことをしている人たちがいま、いて。それに対して告発を無効化するというか、「そんな言い方はどうなの?」「そんなの、考えすぎだよ」みたいなことを言う向きがあるので。そういう風に言っていると、せっかくいま問われている声の上げ方。声が上げられている内容みたいなものが無駄に終わってしまうような状況があるわけですね。だから、そういった、まあフジテレビの放送も大概だと思いますけど、それに対しての擁護的な反応とかの中にも、「何周前だ?」みたいな議論が含まれていたりするんですよ。それはもう、いろんな議論の中で培ってきた、蓄積してきた言葉の蓄積がある。そういったことの中で、やっぱり繊細にどういう風な表現を模索していこうっていうような人たちの運動もあったりするわけですよ。それを踏まえて、放送側は考えなくちゃいけないし。視聴者も考えなきゃいけないと思うので。まあ、そういうことがあったということと、これからその放送に対してフジテレビがどう反応するのか? とか。
(南部広美)ええ。
(荻上チキ)あるいは、私たちがどういった放送を望むのか? とか。そうしたことを考えることをより広げていくことが必要だなと思いました。というわけで、ここまで15分喋りましたけども、ピンチヒッターにそろそろ入っていただきましょう(笑)。
(南部広美)今夜のメインセッションのテーマなんですけども、いよいよシーズン終盤戦。みんなで語ろう、プロ野球2017年9月号ということで、今夜のテーマはプロ野球です。みんなでわいわい語るおなじみの特集なんですけども、チキさんの声が本調子ではないということで、一足早くゲストをお迎えしまして、番組をサポートしていただきます。コラムニストのえのきどいちろうさんです。よろしくお願いします。
(荻上チキ)よろしくお願いします。
(えのきどいちろう)僕、でも本当に同じことを思ったことがあります。僕、転校生だったんですけど。転校生で、両親が東京で。それで標準語をしゃべっている生徒が転校してくるわけです。「キザ」とか言われるわけ。いまのキャラから言うと、すっごいキザとかから遠いんだけど、キザとか言われて。子供の頃にね。
(荻上チキ)どこに引っ越したんですか?
(えのきどいちろう)たとえば、福岡とか。和歌山とかいろんなところなんですけどね。で、俺がなっちゃうんですよ。自我が固まっていないし、みんなから「キザだ」って言われているうちに、頭にきてキザにしてみたり。
(南部広美)ああ、見られているから?
(えのきどいちろう)とかね。それでそういう感じで、どんどん自分のことが窮屈になって。子供ってやっぱり自意識みたいなものが狭いから、全体のことがわからないし。「この土地の人はみんなこうなのかな?」みたいな感じになったり。すごい心細かったし。だから、保毛尾田保毛男の話もそうですけど、そうやって学校とかの空間の中で孤立していくこの寂しさみたいなものって、転校していた時の感じとか、すごくいまチキさんの話を聞いていて思い出したな。
(荻上チキ)うん。転校って結構少数派を経験するその都度の体験みたいな感じですよね。
(えのきどいちろう)そうそう。だから日ハムファンになったんすよ。
(荻上チキ)ええっ?
(えのきどいちろう)少数派というかね。
(荻上チキ)あ、なるほど。いろいろな街を回りながら。
<書き起こしおわり>