オークラ ラーメンズ初単独ライブ前のバナナマン設楽のアドバイスを語る

オークラ バナナマンと東京03のネタ作りの違いを語る 佐久間宣行のオールナイトニッポン0

オークラさんが2020年11月25日放送のニッポン放送『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』に出演。君の席など自身の手がけてきたコントユニットや、ラーメンズ初単独ライブ前にバナナマン設楽さんが小林賢太郎さんに送ったアドバイスについて話していました。

(佐久間宣行)じゃあ、もう1個、聞いていいですか? 「コントユニット青春記」っていう。これ、すげえ興味あります。コントユニットの青春時代ってことでしょう? これはオークラさんが……。

(オークラ)僕ね、1997年、23歳の時。今から23年前から、2003年までのだから6年間ぐらい。6年間ぐらいより10組、10個のユニットをやって、14本ぐらいライブをやっているんですよ。6年間で。

(佐久間宣行)10組もやっていたんですか?

(オークラ)10組っていうか、10ユニットですね。それは同じようなメンバーを組み替えたりとかして。それでやってたんですけど、ちょうど僕が、そのユニットに何でこんなにこだわってやったかというと、もちろんめちゃくちゃ影響を受けたのがラジカル・ガジベリビンバ・システムなんですよ。

(佐久間宣行)竹中直人さんと……。

(オークラ)要するに、シティボーイズと竹中直人さん。で、僕らは田舎者だから、そんなユニットがあるって知らなかったんですけども。ちょうど1992年ぐらいにWOWOWでシティボーイズライブを放送するようになったんですよ。で、その時に僕は「シティボーイズってなに?」ぐらいの感じだったんですよ。「『お笑いスター誕生』に出ていた人たちでしょう?」っていう感じだったんですけど、それを見た瞬間にもう衝撃が走ったわけですよ。

(佐久間宣行)俺もですよ。俺も池袋の金物屋の息子のオタクの家に行った時に「佐久間、シティボーイズって見たことある?」って言われて。「ないよ」って言って。で、その2階の汚え部屋でVHSで『愚者の代弁者、西へ』を魅せられて。体中に電撃が走りましたからね。

(オークラ)『灰色の男』とか。あそこらへんの。あれを見た時にもう本当に「ヤバい!」って思ったんですよ。で、そのシティボーイズライブにいとうせいこうと中村ゆうじさんも出てくるんですけど。「なんだ、この組み合わせは?」って思って。それで調べたら、かつてそのユニットの中にさらに竹中直人がいて。ラジカル・ガジベリビンバ・システムというユニットが1980年代にあったっていう。

で、調べたら1983年から始まって、たぶん87年ぐらいで終わってるんです。たかだか4年間ぐらいですけど。当時、83年って言ったらまだお笑いを寄席でやってる時代だったんですよ。寄席で普通に。それをラフォーレ原宿でやるっていう。

(佐久間宣行)ああ、もうその笑いをちょっとおしゃれというか、アートに持っていったみたいなね。

(オークラ)で、さらにそのラジカルの1個目のライブのタイトルが『時速500円で走る』ってタイトルなんですけど。2個目が『スチャダラ』っていうタイトルなんですよ。つまり、当時スチャダラパーがそれを見に来て。高校生時代にラジカルを見に来て、その『スチャダラ』っていうタイトルから、「スチャダラパー」っていう名前を取ったっていう。

(佐久間宣行)ということは、もうその4年間の間にいろんなもののきっかけになってるっていうことね。

(オークラ)そうですよ。しかも、いとうせいこうさんがラジカルのライブで、はじめて日本でヒップホップを取り入れて。ラップをやっているんですよ。ちょうど1980年とかってそのぐらいの時代じゃないですか。で、それを全部知った時に……しかもですよ、ラジカルっていうものをそもそも作り始めていくその原動力となったのは桑原茂一さんなんですよ。

で、桑原茂一っていうのは『スネークマンショー』を作った人。ラジオコントを作った人なんですよ。で、その『スネークマンショー』は当時、1980年に『X∞MULTIPLIES』でYMOと関わっていて。で、YMOって僕、細野晴臣が大好きですから。これ、全部好きなものがつながっている!っていうんで、しびれたわけですよ。

好きなものが全部つながっていた

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(佐久間宣行)あと、日本にあるかっこいいものが全部つながっていて。で、それがその後のものの刺激になっているというのがもうオークラさんの中で、その年表というか家系図がつながったわけでしょう?

(オークラ)そうそうそう! 「ヤバい!」ってその20代前半の時に思って。

(佐久間宣行)それで、やっぱり「コントユニットを作りてえ!」って?(笑)。

(オークラ)そう。「これが俺の仕事だ!」って思って(笑)。

(佐久間宣行)だから、桑原茂一とは言わないけども、カルチャーをまとめて。お笑いでカルチャーを作るっていうのをやってみたいって?

(オークラ)そう思ったんですよ。だから、僕はそのユニットコントをやる時にやったのは、「こいつらが組んだ!」っていう……だからダセえのとは組まないっていう。

(佐久間宣行)オークラフィルターがかかるわけね。

(オークラ)「こいつらが組むことがすごいんだ!」っていう。

(佐久間宣行)そして、「その中に関わっている俺がすごいんだ!」っていう?(笑)。

(オークラ)もちろん、もちろん(笑)。

(佐久間宣行)フフフ、そうなりたいっていうね(笑)。

(オークラ)もちろん、その時には言わないですけど(笑)。

(佐久間宣行)で、そのオークラフィルターの中で真っ先に声をかけたのは?

(オークラ)やっぱりバナナマンですね(笑)。

(佐久間宣行)やっぱりそうだよね(笑)。

(オークラ)で、さらにパッケージ化して映像作品を残すっていう。それは、要するにラジカルっていうのは基本はソフトを発売してないんですけれども。人力舎にラジカルの公演のビデオテープが眠ってたんですよ。

(佐久間宣行)ああ、記録用のやつが?

(オークラ)で、それが1994、5年ぐらいの時に、ラフォーレ原宿でフィルムフェスティバルっていう時にそのVTRを流して。俺はそれを見たんですよ。リアルタイムでは見てないですけども、それを見に行って。それ、日村さんと見に行ったんですけど。

(佐久間宣行)ああ、日村さんと見に行ったんだ。えっ、日村さんがじゃあそのラジカルを見て、「すげえ!」ってなったっていうこと?

(オークラ)なっていました。で、それでそういう……「僕、こういうのをやりたいんですよ!」ってよく言ってたんですけどね。

(佐久間宣行)それを設楽さんとか日村さんとかにプレゼンしたっていうこと?

(オークラ)ただ1個だけですごいんですけど。人力舎がそれを管理してるんですけど、人力舎ってそのビデオ、紛失しているらしいですよ?(笑)。

(佐久間宣行)フハハハハハハハハッ! 歴史的遺産をがっつり紛失している(笑)。人力舎らしいなー!

(オークラ)もうラジカルの公演、見れないんですよ。YouTubeでも何個か、後半のやつは上がっているんですけど、初期のやつは見れないんですよ。

(佐久間宣行)それでオークラさんがコントユニットを組もう、こういうものを作ろうと思った時に、最初にバナナマンに声かけて。それで作ったものの1個目は何なんですか?

(オークラ)一番最初にやったのは、これは僕が作ったというよりバナナマンと長井秀和さん。あと、女優の人がいて。僕がそこに入って、『ピンクマニュアルズ』っていうすっごいちっちゃいところでやったライブがあるんですけども。そこで初めて僕、バナナマンと一緒に仕事をさせてもらいました。僕がバナナマンのところに「入れてください!」みたいな感じで。「僕、パソコンができるんです!」とか「チラシとかも全部作れます!」みたいに言って。

(佐久間宣行)フハハハハハハハハッ! もうそのお笑いの力量とはまた別の「役に立ちますよ!」って言って入ったのね?(笑)。

(オークラ)あと、よく言っていたのは「お笑いというライブはダサすぎる!」っていう。要するにラジカルとかはアートもブッキングしているじゃないですか。それで当時、『パルプ・フィクション』とか、そういう映画でもそうだし。面白くておしゃれなものが……。

(佐久間宣行)やっぱりベースにおしゃれがちゃんと入ってないと見向きもされない時代になりつつありましたもんね。

(オークラ)「だからそういうのをやらなきゃいけないんだ!」って言って僕は、買ったばかりのパワーマックっていうのを……まだHDDが1ギガもないようなやつ。それを買って「僕は何でもできます!」って言って。そのパソコンを使えば何でもできるんだけど、俺の技術ではできなかったんですけど(笑)。「何でもできる」って嘘をついて(笑)。

(佐久間宣行)まあ、入りたいからね(笑)。

(オークラ)で、そこで初めてバナナマンと仕事するようになって……っていうのがあるんですけどね。

(佐久間宣行)で、ユニットって言うと、やっぱり俺のイメージで一番あるのは「君の席」になるんだけど。

(オークラ)君の席をやったのが2001年からなんですけど。その前に、バナナマンとラーメンのジェニコっていうのをやっているんですよ。

(佐久間宣行)ラーメンズとバナナマンはもともと仲良かったんですか?

(オークラ)ええと、これは前も言ったかもしれないですけど、仲良くないです。僕がバナナマンと仲良くて。それで僕はラーメンズとも別口で仲が良かったんですよ。下北に住んでたんで。それで当時、僕がライブに出ている時に小林賢太郎の方から、俺が細雪っていうコンビをやっていたんですけども。「面白いね、細雪」って向こうから来て。それでそこから話していくうちに、僕らよりちょっとバナナマンの方が先輩だったんですよ。で、「バナナマン、すごい面白いよね」って言って。バナナマンライブに僕、当時入りたてだったんで。「見に来る?」って言って、小林賢太郎がそれで見に来て。で、そこから「俺、単独やる!」って言いだして。

(佐久間宣行)バナナマンを見て、「ラーメンズでも単独をやりたい」ってなったんだ。

(オークラ)それで、1回目の単独。今でも覚えてるんですけど。ネタを当時、単独ライブってだいたい10本ぐらいやるじゃないですか。「有りネタを10本ぐらいたまったら、単独ライブしよう」って小林賢太郎は思ってたんですけど。たまたま単独ライブする直前に僕と小林賢太郎が会うことになって。

その時にたまたま設楽さんがいたので「設楽さん、これ、ラーメンズっていうんですけど」「ああ」って。それで3人で話していて。「10本、ネタがたまったんで単独をやろうと思うです」って小林賢太郎が言ったら、設楽さんが「新ネタじゃなきゃダメだ」って言って。それで小林賢太郎が「わかりました。1から新ネタを作ります」っつって。それで新ネタを全部やった単独ライブが……そう。ラーメンズはそこから単独ライブが始まっているんですよ。

「新ネタじゃなきゃダメだ」(バナナマン設楽)

(佐久間宣行)へー! すげえ! それはもうすげえ、歴史だな! その頃の単独って「ネタがたまったからやりたい」っていう感じだったんだね。

(オークラ)そう。だから単独ライブの作り方っていうのをみんな、わかっていなかったから。

(佐久間宣行)「ゼロイチで単独ライブを作る」っていう考え方がまだなかったんだね。

(オークラ)はい。それを言ってやったっていうのはいまだに覚えていますよ。片桐の四畳半の家で(笑)。

(佐久間宣行)その話をしていたのが片桐の家なんだ(笑)。片桐、出てこなかったけど(笑)。

(オークラ)フフフ(笑)。

<書き起こしおわり>

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