松尾潔さんがNHK FM『松尾潔のメロウな夜』の中で1986年のR&Bチャートを振り返り。この年にヒットした曲を聞きながら、解説をしていきました。
(松尾潔)続いては、こちらのコーナーです。いまでも聞きたいナンバーワン。2010年3月31日に始まった『松尾潔のメロウな夜』。この番組は、メロウをキーワードにして、僕の大好きなR&Bを中心に大人のための音楽をお届けしています。ですが、リスナーのみなさんの中には『そもそもR&Bって何だろう?』という方も少なくないようです。そこでこのコーナーでは、アメリカのR&Bチャートのナンバーワンヒットを年度別にピックアップ。歴史的名曲の数々を聞きながら、僕がわかりやすくご説明します。
第26回目となる今回は、1986年のR&Bナンバーワンヒットをご紹介しましょう。1986年。そうです。ちょうど30年前ですね。変な言い方になりますけども、1986年から30年たったのか!と思わずにはいられない。そんな曲がリリースされました。まあ、この年、1986年といいますと、まだ昭和ですからね。昭和61年のことなんですけども。年間を通してR&Bチャートのトップに輝きました曲は全部で26曲ございます。まあ、こんなにたくさんありますから、全てをご紹介することは叶いませんけども。
もっともヒットした曲っていうのは、プリンス(Prince)の『Kiss』という風になっています。ただ、プリンスの『Kiss』っていうのは4週間、4月にナンバーワンを記録しているんですけども。同じく4週間ナンバーワンを記録した曲っていうのは他にもあと2曲、ございまして。それは何か?といいますと、5月から6月にかけて1位を独走しましたパティ・ラベル(Patti LaBelle)とマイケル・マクドナルド(Michael McDonald)のデュエット『On My Own』。
そして、やっぱり秋ですね。肌寒い11月から12月にかけて4週間ヒットしましたのが当時、まだフレッシュな存在でした。フレディ・ジャクソン(Freddie Jackson)で『Tasty Love』。そうですね。こういうところから、やっぱりプリンスの好調ぶりっていうのももちろん感じますけども。クワイエット・ストームですとかね、いろんなキーワードが思い浮かびますね。
パティ・ラベルとマイケル・マクドナルドっていうのはね、アフリカ系の女性と白人ロック畑の男性のちょっと異業種コラボみたいな。まあ、もちろんマイケル・マクドナルドっていうのはソウル・ミュージックがルーツだってことを明言している人ではあるんですけども。この時点ではまだ、そんなに一般的ではなかったですね。こういう組み合わせっていうのはね。まあ、それを証明するかのように、R&Bチャートだけではなくて、ポップチャートでも1位になった曲でもあるんですけどもね。
あとは、この年、コラボもので言いますとね、バート・バカラック(Burt Bacharach)がかつてロッド・スチュワート(Rod Stewart)に提供した、どちらかと言うと地味な曲。『That’s What Friends Are For』。ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)がスティービー・ワンダー(Stevie Wonder)、グラディス・ナイト(Gladys Knight)、エルトン・ジョン(Elton John)と、ディオンヌ&フレンズ(Dionne & Friends)という名義でリリースした、その曲がヒットしたことも記憶に残りますね。
あとは、元ジョーンズ・ガールズ(Jones Girls)のシャーリー・ジョーンズ(Shirley Jones)という人がね、『Do You Get Enough Love』という曲でフィラデルフィア・ソウル健在ぶりというか、もう本当に最後の一滴という感じで、懐かしいサウンドをチャートのトップに持ち込んだことも記憶に残りますけども。
やっぱり暮れあたりになりますとね、さきほどお話しましたフレディ・ジャクソン。フレディ・ジャクソンは『Tasty Love』が1位になったんですけど、その『Tasty Love』の前に1位だったのがメルバ・ムーア(Melba Moore)とフレディ・ジャクソンの『A Little Bit More』という曲ですからね。フレディ・ジャクソンはこれ、5週に渡ってナンバーワンだったわけで。そういった意味じゃあもう、彼こそが86年の主役だったという言い方もできます。
グレゴリー・アボット、グレゴリー・エイボット(Gregory Abbott)っていう言い方でも言ってましたけども。『Shake You Down』。こういった曲も86年のヒットでしたね。
そしてね、86年のいちばん最後に、12月27日付でこの年最後の1位を飾ったのがボビー・ブラウン(Bobby Brown)、『Girlfriend』という。ニュージャックスウィングの予兆もまだない86年の暮れなんですけど、ボビー・ブラウンはもうスターへの名乗りを、ソロとしてね、あげていたという、そんなタイミングでございました。
86年の話はもっと・・・何しろ僕は高校を卒業した春というのが86年でございますので。まあ、いろんな記憶というのがビビッドにあるんですけども。それはまた後ほど、ちょいとお話するとしまして、曲を聞いていただきましょう。これもある意味で80年代っぽいサウンドだったんでしょう。タイメックス・ソーシャル・クラブ(Timex Social Club)。後にクラブ・ヌーボー(Club Nouveau)と名前を変えますけども。タイメックス・ソーシャル・クラブの『Rumors』。低予算で作られたヒットの典型みたいに言われますね。『Rumors』。
そして、ファンクバンドが大所帯からどんどんどんどん、打ち込みに移って。メンバーを削減して。一時は2桁いたメンバーが3人になっているっていうことでも話題になりましたキャメオ(Cameo)の『Word Up』。これも86年のヒットです。では、2曲続けてお聞きいただきましょう。タイメックス・ソーシャル・クラブで『Rumors』。そしてキャメオで『Word Up』。
Timex Social Club『Rumors』
Cameo『Word Up』
いまでも聞きたいナンバーワン。1986年のR&Bナンバーワンヒットをご紹介しております。2曲続けてお楽しみいただきました。タイメックス・ソーシャル・クラブで『Rumors』。そしてキャメオで『Word Up』。いずれもファンクというカテゴリーに属する人たちですね。タイメックス・ソーシャル・クラブは後にクラブ・ヌーボーという名前で来日もいたしました。中心メンバーのジェイ・キング(Jay King)という人はなかなかの才人でしたね。インタビューしたことがございますけども。なかなかしぶとい活動をその後、見せてくれました。
キャメオの方はね、ラリー・ブラックモン(Larry Blackmon)という才人を中心として、チャーリー・シングルトン(Charlie Singleton)とかトミ・ジェンキンス(Tomi Jenkins)とかいろんなスピンオフ企画も記憶に残るグループでございますけども。大所帯の頃の作品がいまでは評価されることも多いのかなと。たとえば、『Sparkle』というバラードなんかもそうですけども。バンドサウンドっていうことで言うと初期のものになるんですけども。この頃の打ち込みサウンドのこのソリッドな感じ。たまりませんね。
あとはジャンポール・ゴルチエっていうね、デザイナーの衣装を着こなすラリー・ブラックモンっていうものが『ブラックミュージックのイメージを変えた』とまで言われてましたけども。そうですね。その後、ちょっと活動が先細りになりましたけども、いまでもこのキャメオのファンだっていう人がたくさんいることを私は知っております。そして僕もその1人なんですけども。
さあ、そんな1986年なんですけども。この年はね、ちょっと音楽以外のところに目を向けますと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ですとか、日本で言うと『あぶない刑事』ですとかね。最近、30年後の映画化とかっていうことで話題になっているようなものがこの年、公開されているんですよね。っていうかまあ、ヒットしております。アニメの世界でも、『ドラゴンボール』とか『めぞん一刻』とか、後にクラシックとして歴史に刻まれるような作品もこの年に世に出てきているんですけどもね。
僕は個人的にはね、うーん・・・岡田有希子さんが亡くなったことっていうのがね、歳も一緒だったんで。なんかこう、人生の、なんて言うんでしょうね?それまで見たことがないところを見たような気がいたしました。まあここでね、日本で初めての女性党首 土井たか子委員長が社会党で誕生したとか、そういうことを話せば僕も賢く思われたいなら、そういうことを言うんでしょうけどね。正直に言いますと、岡田有希子さんがショックでしたね。
で、音楽面で言いますと、1986というと僕は1986オメガトライブを思い出さずにはいられないし、ここで言わずにはいれませんね。それまで杉山清貴&オメガトライブとして人気を博していた彼らが、85年に、実際どういう事情があったかは知りませんけども。円満的に杉山さんがソロになるという話がありまして。出したアルバムタイトルが『FIRST FINALE』というじゃありませんか。
その頃、僕はいっぱしのスティービー・ワンダー博士のつもりだったから、『スティービーの70年代のアルバムのタイトルをいま出しちゃうわけ?』みたいなことを思いながらも、『うん。けど、いいタイトルだな』と思ったりして。これが大ヒットした後に、さあ、どうなるオメガトライブ?っていう時に、ブラジルで生まれ育ったという、考えもしないところから球がやって来たという感じで。これがびっくりするぐらいチャーミングなボーカルの主でありますカルロス・トシキさんが入ってきて。で、1986オメガトライブという名前で再出発したら、大成功したっていうね。
ただ、もう『1986』って言っちゃったもんだから、87年には旬がすぎちゃったのか、もうすぐに『カルロス・トシキ&オメガトライブ』って改名するのもまた早かったっていう。なんだ、このドタバタは!?とか思いながら・・・まあ、その時に自分が音楽業界に行くとは思ってなかったんですけど。いま、アーティストプロデュースをしたりする立場からすると、『うーん。大変だったろうけど、上手くやったな』みたいなね、そういうところがございますね(笑)。
あの、僕はEXILEっていうグループに長らく関わっているものですから。やっぱりボーカリストが変わるっていうことの大変さというものを側で見てもいるんですけども。あれもひとつのやり方だったよな!と、オメガトライブを思い出す。そんないま48才の音楽プロデューサーなんですね。はい(笑)。そんな僕なんですけども、そんな音楽業界的な話はこれぐらいにしておきまして、自分の音楽観に大きな影響を与えてくれた1曲というと、86年はこれかな?
それまで、好きではあったけどちょっと取っつきにくいなっていうところもありましたプリンス。プリンスって本当にいい曲を書くのね!と思ったのは、プリンス自身の歌声ではありませんで、プリンスの曲をカヴァーするこの女性シンガーによってでした。メリッサ・モーガン(Meli’sa Morgan)。1986年2月15日から3月1日まで、3週連続でナンバーワンを記録いたしました。同名のデビュー・アルバムからの1曲です。メリッサ・モーガン『Do Me, Baby』。
Meli’sa Morgan『Do Me Baby』
後にやはりソロデビューして成功を収めますアリソン・ウィリアムズ(Alyson Williams)という女性シンガーとかつてはハイ・ファッション(High Fashion)というユニットを組んでおりましたメリッサ・モーガンなんですけどもね。この86年の『Do Me Baby』というプリンスがかつて書いた、まあどちらかと言えば地味な曲ですよ。この曲を、もうお聞きのようにゴスペル仕立てで。目が覚めるようなボーカルアレンジで世に送り出して。もう最初からいきなりナンバーワンヒットを記録いたしました。
もう『Do Me Baby』と言えば、メリッサ・モーガンと言えるぐらいにヒットいたしました。プロデュースを手がけていたポール・ローレンス(Paul Laurence)。その仲間のカシーフ(Kashif)。こういった一派にも注目が集まった、そんな1986年でございました。
<書き起こしおわり>
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