オフィス北野の森昌行社長がTBSラジオ『たまむすび』に出演。映画監督 北野武が誕生したきっかけや初期北野映画について話をしていました。
(玉袋筋太郎)うん。いや、でも殿がバラエティーから映画にシフトしていくっていう。ちょっと話があれになっちゃうんですけども。そん時の話し合いっていうのは、飲んでいる時に話が出たりとか?
(森昌行)(笑)。これはね、あの、本当は、『その男、凶暴につき』という・・・
(玉袋筋太郎)デビュー作。
(森昌行)88年に公開された映画だと思うんですけども。1988年ですね。本来、深作欣二監督が監督をなさって。たけしさんはその主役として抜擢されて。そういう予定だったんですよ。ところが、私は当時、スケジュールも担当していたんですけど。深作欣二監督はですね、60日間ぶっ通しのスケジュールをくれと。要するに、2ヶ月間ですね。
(玉袋筋太郎)うわー・・・
(森昌行)でね、これはテレビの当時のたけしさん、まあ、いまもそうですけども。これをスケジュール調整するっていうのは不可能に近い。これを60日間、全部あけるためには、逆に言えば1年ぐらい前から撮りだめをするとか、各番組にご協力をいただきながらやらなきゃいけない話なんですけども。当然、無理なんで。まあ、テレビのレギュラーも活かしながらやるんだったら、隔週でね、2本撮りっていう手法がありますよね。
(玉袋筋太郎)うん。
(森昌行)これをだから、完全に施行すれば、要は1週おきにだったら可能かもしれないというご返事を差し上げたんです。そしたら、深作さんは『自分の映画はそんな体制じゃあ作れない。まとめて60日じゃないとダメだ』というんでね、結局監督を降板されちゃったんですよ。
(玉袋筋太郎)そうですよね。
(森昌行)それで、じゃあ誰が監督するんだ?って議論になったんですけども。まあ、いろんな監督さんの名前が挙がったんですけどね。たけしさんがその席に同席されていて。『いや、それはおかしいだろ?深作欣二監督だから自分は主演を引き受けたのに、深作さんが降りたら違う監督でって話だったら、それは白紙だよ』と。で、まあそういう中で話が、『そりゃそうだけど、じゃあどうしよう?』ってなった時に、本当に独り言だったと私は思うんですけど。『俺だったら同じスケジュールで1本くらい映画、撮れると思うんだけどな』ってつぶやいたんです。
(玉袋筋太郎)おおー!
(森昌行)それはだって、たけしさん映画撮った経験ゼロですけど。
(玉袋筋太郎)そうですよね。
(森昌行)だから映画を逆に知らないということもあるんですけども。
(玉袋筋太郎)怖いもの知らずっていうかね(笑)。知らないんだ。
(森昌行)ただ、それが、だから当時の配給会社とですね、ちょうどあの、異業種監督というのがひとつ、ブームであったんです。作家の先生とかが映画監督をやるとか。違う職業の人が映画監督を。たぶんね、そういう延長線上で発想されたと思うんですけど。イベントとしての映画監督だったら成立する。
(玉袋筋太郎)うん。
(森昌行)つまり、そこに助監督さんとか、優秀な方もつけてですね。完全にこう、ひとつ、スタッフで固めてしまえば・・・というような発想もあったと思うんですけど。なんて言うか、映画監督の北野武の実は誕生という、非常に思惑ありの、不安ありの。だからそんなに確信のあるものではない中でのスタートだったんですけども。
(玉袋筋太郎)うーん!だって、考えてみれば当時、本当に異業種監督ブームでさ。いっぱい撮ったよ。いろんな人が撮ったよ。うん。だけどその、以降、その人たちが監督やってるか?っつったら、少ないですもんね。
(森昌行)まあ、ほとんどいらっしゃらない。
(玉袋筋太郎)ほとんどいないですよ。うん。
(小林悠)その独り言が、監督業に結びついていったってことですけど。
(玉袋筋太郎)いや、でもね、テレビのバラエティーの王様だけど、映画の現場に来たらやっぱ殿だってさ、そりゃ新参者ですから。当時、やっぱ森さんと一緒に現場、いるじゃないですか。殿はその、映画界の制作側との、なんかあったんすか?こう、ちょっと協力してくれねーんだよな、みたいなのとか。
(森昌行)あのね、やっぱりたけしさんがおっしゃっていることを、イメージも含めてですけど、たけしさんって端折るじゃないですか。テレビの打ち合わせでも。あの、ほとんど指示代名詞で終わっちゃったりする。
(玉袋筋太郎)(笑)
(森昌行)だから、各局に『たけし番』って言われるような方たちがいらっしゃるんだけど。極端に言うと、『あれよお、こうだから、ああしといてくんないか?』みたいな。それで、『はい、わかりました』っていうような会話。
(小林悠)すごい!
(玉袋筋太郎)はいはいはい。
(森昌行)だから、そういう意味でいうと、そういう会話で・・・要するに私は一応、ついてはいるんですけど、通訳みたいに後から、『たけしさんの言った意味はこういう意味だと思いますよ』って、なんか通訳しながらで(笑)。
(玉袋筋太郎)(笑)
(森昌行)で、まあたけしさん自身も意思の疎通がはかれないことについては、苛立ちはありました。っていうのが、映画の専門用語もたけしさん、その当時使ってなくて。いまでこそね、クレーンアップだの、ドリーだのなんだのって、映像の技術用語を使いますけど。その当時は、『ほら、もうちょっと、こう・・・ほら、こう、こう』みたいな。
(玉袋筋太郎)(笑)
(小林悠)手でなんとなく、みたいな。
(森昌行)手で、ジェスチャーでやったり。要するにアップっていうだけのことなんだけれども。そういう言葉を使い分けるというような、学習をしているわけじゃありませんから。映画小僧でもなかったし。だからもちろん、テレビのコントをね、演出したりとか。それは自分の世界観で、漫才のネタを作るように、いろいろ番組を通して演出をすること自体は決して難しいことではなかったと思うんですけど。技術的なことではね、ずいぶん、最初はやっぱりコミュニケーションがなかなか取れなかったというのは、ありましたよね。
(玉袋筋太郎)どれぐらいの作品から、北野組っていう形ができてきたんですか?
(森昌行)いや、もうすでに2作目からじゃないですかね?
(玉袋筋太郎)おおー。
(森昌行)まず、自分で編集をすると言い出して。というのは、編集マンの方がやった編集っていうのが、やっぱり自分の間と違うとかですね。
(玉袋筋太郎)すごい。
(森昌行)それからカメラのサイズにしても、たけしさんっていまでもそうですけど、非常に不思議なサイズでこう、画面を切り取ったりする。それが、要するに未熟なのかセンスなのかっていうのは、スタッフは要するに新人監督として見てますから。未熟さによるものだと判断すると、修正しちゃうんですよね。
(玉袋筋太郎)うん。
(森昌行)だけど、たけしさんにとってみると、それを修正されちゃ困るんだ。これが狙いなんだっていう。そういうコミュニケーションを取るための・・・でも、2作目から、もう積極的にそれは主張を、たけしさんはし始めましたから。そっから逆に、今日ある北野組の母体が完全に出来上がったというか。ずーっと同じスタッフでやってますからね。
(玉袋筋太郎)ですよね。すごいですよ、これ。ええ。その2作目。『3-4×10月』っていう映画があるんですけども。それで、森社長もやっぱりビビッたと。すごいと。
(森昌行)うん。いや、『その男、凶暴につき』っていう作品も非常に評価を受けたんですけども。私の中では、ビートたけしさんを逆に自分も1ディレクターとしてっていうとね、なんか偉そうだけど。一応、一緒に番組を作ってきましたから。『その男、凶暴につき』ができた時は、映画界は非常に評価したようですけど、私自身はこれ、できて当たり前じゃないか?ぐらいの感じ。
(玉袋筋太郎)ええ、ええ。
(森昌行)たけしさんも特に、上手くいったなというより、不満がむしろ非常に残る作品だったと思うんですよね。だからそれもよくわかるし。ただ、2作目の『3-4×10月』っていうのは脚本も、さっき言った深作監督が降板された後、直した本ではなくて。全くオリジナルのもので。本当にオリジナルの形でスタートしましたから。だから、まあそれを見て、ラッシュでちょっと見た時に、やっぱりものすごい緊張感のある画の連続だったんですね。
(玉袋筋太郎)うん、うん、うん。
(森昌行)で、これはやっぱり、ひとつのスタイルがすでにあるんじゃないか?というような。なんか、そういうものを私は感じたんで。この人は映画監督、間違いなくできる・・・できるっていう言い方は変ですけど、自分のスタイルを持った1人の映像作家として、十分やっていけると確信しましたけどね。
(玉袋筋太郎)いやー・・・
<書き起こしおわり>