西寺郷太が語る 音楽評論家・湯川れい子のスゴさ

湯川れい子が西寺郷太に語る フリオ・イグレシアスの人間的魅力 西寺郷太TAMAGO RADIO

湯川れい子さんがTBSラジオ『西寺郷太TAMAGO RADIO』にゲスト出演。まずは西寺郷太さんが音楽評論家としての湯川れい子さんの素晴らしさについてお話していました。

(西寺郷太)いや、もうさっきも何回か説明したんですけども。いろんな時代の方が湯川さんのラジオを聞いていたり、ライナーを読んだり、文章を書かれたりっていうのを。あと、作詞もそうなんですけど。音楽を知っていったと思うんですけど。僕はちょうど80年代に、歌謡曲も好きでしたし、そういう洋楽の世界にも入ったということで。まあ、入り口はマイケルだったりするんですが。今日は本当にスタートラインといいますか。湯川さんのいろいろな面白いところを。いつもラジオになればいいなと思っていたところをお聞かせください。

(湯川れい子)それにしてもね、私はこの(特集)タイトルをもらってぶっ飛んじゃったんだけど。

(西寺郷太)『れい子のキュンキュンキュン』。

(湯川れい子)なに、この『キュンキュンキュン』って。これ、なんですか?

(西寺郷太)いやいや、僕はそういう湯川さんの本能的なと言いますか。もちろん音楽評論家の方っていろんな方がいらっしゃいましたけど。僕は湯川さんの勘、直感っていいますかね。

(湯川れい子)そうなのよ。要は本当に、『キュン』なのよね。

(西寺郷太)キュンキュンっていうのがすごい好きなんですよ。

(湯川れい子)ずーっと。もういくつになっても。なんかたぶん灰になるまでキュンキュンキュンなんだろうと(笑)。

(西寺郷太)僕、最近の話も聞いていてもね。僕も面白かったなと思うのは、他のラジオで湯川さんとご一緒になった時に、ベニー・シングスっていう好きなアーティストがいて。で、『僕はこんなアーティスト好きなんですよ』って言ったら、『かっこよくもかわいくもないじゃない』って言ったのが(笑)。すごい・・・そういう基準でやっぱり見続けるっていうのが、すごい僕は好きで。

(湯川れい子)いや、実はね、大事なのよ。

(西寺郷太)いや、めちゃ大事ですよ。本当、それこそエルビスから始まって。で、いまもワン・ダイレクションもよくね。

湯川れい子の勘の鋭さ

(湯川れい子)1Dもそうだし。それからやっぱり、ボブ・ディランの昔。出てきた頃のかっこよさとかね。やっぱりすごいのよね。ローリング・ストーンズもそうだったし。別にばっちくなかったのよ。本当になんか(笑)。

(西寺郷太)そりゃ、ばっちくないでしょ。でも、僕がいちばん、ここは僕しかそのこと言ってないと思うので言うのは、その勘の鋭さの、時に『ええっ!?』っていうのがありまして。その一番は、『スリラー』のライナーノーツですね。1982年の11月8日。湯川さんが書いてるんです。その数日前に、何回もやり直して完成して。世界同時に出るっていう、珍しいアルバムで。で、マイケルとクインシーがやりあって、やり直したりしてるので。たぶん、いまみたいにファイルで届くとか、ネットもない時代ですよね。だから航空便とかで慌てて。いちばん最初にスリラーを世界で聞いた1人が湯川さんだったと思うんです。

(湯川れい子)そうですね。

(西寺郷太)それで、11月の末に急いで書いたライナーのスリラーが出た。だから、出てもない時です。その時に、『ギネスブックの1位を、将来マイケル・ジャクソンが書き換えるかもしれない』って書かれていて。よく僕も話すんですけど、その頃はいわゆるMTVでもブラック・ミュージックの、黒人アーティストのビデオが流れないような時代で。そんな世界でギネスの記録をマイケルが塗りかえるって言っていた人は、湯川さんだけだったと思うんですよ。

(湯川れい子)でもそれはもちろん、それだけの理由があって。あのアルバムが持っていたものはすごかったから書けたんだと思うんだけど。あの時ね、でもスリラーで私が本気になって。それだけ取っ組み合うような思いでライナーを書いたのは、マイケルがあまりにも認めてもらえなかったから。

(西寺郷太)ああ、当時ね。

(湯川れい子)そう。日本の音楽雑誌があっても、マイケルっていうのは全く取り上げられなくて。『こんなもんはアイドルにもならない』みたいなね、世界。だからそうじゃないんだってことをね、本当に悔しくて。ここでしか書けない。それをやっぱり大きな川の流れとして。エルビス・プレスリーがいて、ビートルズがいて、マイケルなのよ!っていうものをマイケルは持っていたのよ。

(西寺郷太)なるほど。いや、本当あれはマイケル自身も、最初にクインシーがこのアルバム、スリラーを作る時。82年の4月にクインシーが言うんですよね。『私たちは音楽業界を救うために、ここにみんなに集まってもらった』って。まあかっこつけてクインシーが言って。その当時、カセットテープのダビングっていうのがすごい問題になって。レコードが売れなくなったのはダビングのせいだ!みたいな。日本でもレンタルレコードとか。

(湯川れい子)まあ実際、それありましたもんね。

(西寺郷太)だけど私たちが救うんだ!って言ったけど、クインシーは現実的な人でもあるから、途中からだんだん焦ってきて。『オフ・ザ・ウォールより売れないんじゃないか?』って思ったみたいで。マイケルがあまりにも期待感を持って仕事をしてるから、『これがオフ・ザ・ウォールよりも売れなくても、でもそれは時代のせいだから』って最後の方、言うんですよ。それにマイケルが激怒して。『これは世界一売るんだ!』って言っていたから。そう思うと、湯川さんとマイケルぐらいしか、そこを支持していなかったというか。

(湯川れい子)いや、それはもちろんファンがちゃんとそれに飛びついてくれたわけですよね。

(西寺郷太)でも、あれもヒットはだんだん遅れて。それこそムーンウォークとか。だからあのライナーは、僕の中でもすごい。それともう一つ、これだけは話したいんですけど。この前。本当に先日ですね、中村とうようさんがお亡くなりになった時に、湯川さんから僕に電話がかかってきて。『郷太さん、時間あります?』って言うから、『ああ、ぜんぜんありますよ』って僕が言ったら、『あの、とうようさんが[スリラー0点]ってつけたの、本当?』って(笑)。『いや、本当ですよ』とか言って。『でもあれ、0点って書くのも勇気がいると思うんで、僕すごいと思いますよ。75点とかじゃなくて、0点って書いてました。たしかに書いてました』って言ったら、『その資料、持ってらっしゃる?』って湯川さんが言ったから、『あ、僕持ってますよ』って。『それ、送ってくださる?』って言って。あの電話もすげーなって思って(笑)。

(湯川れい子)そうね。それ、とうようさんの追悼式で、その話をしたんですよ。それでとうようさんがあの時、0点っておっしゃったのを、ミュージックマガジンに書かれたのを私、覚えているの。明確に。それで、私は100点だったの。

(西寺郷太)それ、すごいですね(笑)。

(湯川れい子)それで、でも私がとうようさんにそのことを文句言ったら、『この魅力がわからないのかな?』って言ったら、『れい子ちゃん、教えてよ』っておっしゃったの。そこがとうようさんのすごいところでね。その話を追悼式の時にするのに、資料として、確認の電話で。

(西寺郷太)本当にでも、0点っていうのは、いわゆる音楽評論家として、結果的にそれが世界一売れたわけじゃないですか。だから本当にそれが僕、音楽評論な気がしていて。そこで自分を、割と試されるというか。でも、自分の好きな音楽じゃなかったっていうのは、ぜんぜんいいと思うんですよ。

(湯川れい子)違うの。好きだ、好きじゃないっていうより、とうようさんとしては、『これはブラック・ミュージックじゃねーだろ?』っていう思いが、すごく怒りのようにあったんだと思うの。

(西寺郷太)なるほど。『ビート・イット』とかも入っているし。

(湯川れい子)でもね、だから私もなんでこれだけディスコが世界を席巻した後に、本当使い古したようなダンスなんだ?っていうのは最初、あったのよ。なんでダンスなんだ?って。

(西寺郷太)スリラーとかを聞いた、最初の段階ですよね。

(湯川れい子)まあ、その前にオフ・ザ・ウォールがあるわけですけど。オフ・ザ・ウォールで、まずそれを考えたのね。で、クインシーと組んで。なんで?って思った時に、マイケルが原点。つまり音楽の原点。非常にフィジカルなところに。もう、ダンスしかないんだ!と。もう、リズムしかないんだ!と。フィジカルな、肉体しかないんだ!ということに彼が立ち戻ったことに凄みを感じたの。

(西寺郷太)なるほどー。

(湯川れい子)これ、理屈じゃないのよね。本当に、ゾクゾクゾクッていう。キュンキュンとまた違うけど(笑)。

(西寺郷太)本当、この話は最初、させてもらいたかったんです。

<書き起こしおわり>

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