松尾潔 レジー・ルーカスを追悼する

松尾潔 レジー・ルーカスを追悼する 松尾潔のメロウな夜

松尾潔さんがNHK FM『松尾潔のメロウな夜』の中でレジー・ルーカスを追悼。彼のプロデュース作品などを紹介していました。

(松尾潔)続けてご紹介したのはグッと時代を遡りまして……大方40年前ですね。1979年にヒットしました『You know how to love me』。歌っていましたのはフィリス・ハイマンです。

なぜ、ここでフィリス・ハイマンかと言いますと、そうです。先ほどお話しましたけども、レジー・ルーカスというこの曲のプロデューサーの1人が亡くなったんですね。

「プロデューサーの1人」という風に申し上げましたのは当時、レジー・ルーカスはジェイムズ・エムトゥーメイという人とコンビで……それこそジャム&ルイスが台頭してくるちょっと前のまあ、最強のプロデューサーコンビの一組だったことは間違いないですね。エムトゥーメイ&ルーカスコンビ。

そのルーカスことレジー・ルーカスが5月19日に亡くなりました。まだ65才だったということで私はね、そのことで結構……まあ、レジー・ルーカスの年齢について真剣に考えたことがなかった。「結構エムトゥーメイに比べると若いんだよな」ぐらいにしか思ってなかったんですけど、きちんと調べてみますとエムトゥーメイとは7つ違いだったんですね。

これはね、まあ例えばジェイムズ・エムトゥーメイとこのレジー・ルーカスとの関係を語る上で必ず出てくる名前で、70年代前半のマイルス・デイヴィスバンドのバンドメンバーだったということがあげられるんですけども。その時に、すでに20代後半だったエムトゥーメイとまだ19才ぐらいだったレジー・ルーカスって、それはね、同じバンドメンバーでもちょっと見てる景色が違ったのかなっていう気がしますね。分かりやすく言うと、ライブが終わった後にね、その地方なり海外なりへ行って、エムトゥーメイ兄さなんにくっついて夜の街を案内されたんじゃないかなっていう気がしますよね。

あと、その時のベーシストが実は先週ご紹介したマイケル・ヘンダーソンですよ。で、マイケル・ヘンダーソンはいくつぐらいだったかっていうと、そのちょうど間に位置します。51年生まれですからね。やっぱりそのバンドメンバーの中でエムトゥーメイが……「若手バンド」って言われてたんだけども、やっぱりそんな中でも隊長みたいな感じだったんだろうなっていう気がします。もっと言いますと、さっき聞いていただいたフィリス・ハイマンは1949年生まれです。そのフィリス・ハイマンのプロデューサーだったらレジー・ルーカスって、フィリスより四つも若かったんだってことを今回僕は初めて知りましたね。

だからまあ、エムトゥーメイとルーカスの間に位置するフィリス・ハイマン、結構仕事やりやすかったんじゃないかなと思います。ちょっと年上の男性と自分より四つぐらい下の男性となんか、いい意味でサークルっぽいっていうか、その雰囲気の中でこの『You know how to love me』という彼女にとっての代表曲が生まれたんだなっていうことをいまごろになって体感しております。で、レジー・ルーカスなんですが、いま僕はあくまでR&Bサイド、あとはジャズの流れで話しました。

だからまあ、ジャズの世界でマイルス・デイヴィスがね、日本でレコーディングした2枚のライブアルバム。『Agharta』と『Pangaea』。これはもう本当に重要な作品ですから、そこでギターを弾いていたレジー・ルーカスっていうそういう認知も強いかと思うんですが、僕なんかね、こういうメロウなR&Bの住人からすると、レジー・ルーカスっていうのはやっぱり70年代から80年代前半にかけてプロデューサーとして、またはエムトゥーメイという……まあ、ジェイムズ・エムトゥーメイ率いるエムトゥーメイというグループのギタリストとして活躍した人という鮮烈なイメージがありますね。

ただ、レジー・ルーカスをジェイムズ・エムトゥーメイというパートナーと別れた後の単独でのプロデュースの仕事で考えた場合、もう特筆すべきことといえば真っ先にマドンナのデビューアルバムをプロデュースしたということが挙げられます。これは面白い人生だと思います。マドンナのアルバムが出たのは83年ですね。シングルは82年ぐらいから出ていましたけども。僕はその頃、リアルタイムで中学生ですか。新譜が出るたびに、ほぼルックスに惹かれるような感じでマドンナの12インチを買ったりしてましたけどもね。まあ、買ったり後はレンタルレコードとかの世代だったのかな。いま考えてみるとね。マドンナ周辺のジェリービーンとか、あとはちょっとヒップホップ聞き始めみたいな時期でもあるんで。

そこに、大物プロデューサーっていう感じでレジー・ルーカスがいたんですよ。だけどいま考えてみると、レジー・ルーカスもその頃はまだ30代になるかならないかぐらいで。とにかくレジー・ルーカスって出が早いんで。ジャズミュージシャンとしてはもう子供の頃からやってるような人なんで。ジャズでも名のある人がR&Bを経てポップのプロデュースをしてるっていうことでマドンナのデビュー作を見ていましたけど。マドンナって今年還暦ですからね。58年生まれで。だから実はマドンナと5才ぐらいしか変わんなかったっていう。意外にフラットな会話もできていたようですね。

そこで大喧嘩もしながら作り上げたっていうのが『Borderline』でして。これでレジー・ルーカスはポッププロデューサーとして大変な人気になります。

かっての同僚だったジェイムズ・エムトゥーメイはその頃、レジー・ルーカス抜きのエムトゥーメイっていうグループで『Juicy Fruit』っていうね、これまたどデカいヒットを出すんですが。

それぞれの道で成功を収めながらも、レジー・ルーカスはどんどんポップの方に行くわけです。で、ポップフレーバーのR&Bを作るのが得意だったっていうのがね、レジー・ルーカスの商業的な成功のいちばんの理由かと思います。ステファニー・ミルズの『Never Knew Love Like This Before』なんていうのは、マドンナの『Borderline』のプロトタイプと呼んでも差し支えないような可愛らしい、本当にいい意味で夜だけじゃなくてお昼も聞けるようなR&Bでしたけれども。

これから聞いていただく曲というのは、同じステファニー・ミルズがどっぷり夜です。メロウですっていうような、テディ・ペンダーグラスとのデュエットを聞いてください。1981年にリリースされた『Stephanie』というアルバムに納められた決定的なデュエットです。ステファニー・ミルズ feat. テディ・ペンダーグラスで『Two Hearts』。

Stephanie Mills『Two Hearts Featuring Teddy Pendergrass』

MTUME『You Can’t Wait For Love』

先ごろ、心臓の病気で亡くなりましたね。レジー・ルーカス。享年65。彼の偉業を称えましてそのプロデュース作品であるとか彼が書いた曲。そういったものを集めてお届けしております。ステファニー・ミルズ feat. テディ・ペンダーグラスで『Two Hearts』。これは1981年の作品。そしてその前年、1980年にリリースされましたレジー・ルーカスがメンバーとして在籍していたファンクバンド、エムトゥーメイのアルバム『In Search of the Rainbow Seekers』の中から『You Can’t Wait For Love』。2曲続けてお聞きいただきました。

このエムトゥーメイから脱退するのが81、2年ぐらいの話です。まあ抜けちゃうんですけどね。ファンクバンドとしてのエムトゥーメイからは抜けちゃうんだけれども、プロデューサーとしてジェイムズ・エムトゥーメイとのコンビはまだしばらく続行します。そのあたりの際どい話について、僕は1988、9年ぐらいですかね。エムトゥーメイに一度インタビューをしてるんですが……あ、1990年の4月にジェイムズ・エムトゥーメイにインタビューをしたんです。その時のインタビュー。「松尾:レジー・ルーカスとのコンビネーションを解消した直接のきっかけは彼がサンファイアといての活動を始めたことでしょうか? あなたも曲作りや演奏に参加されてはいらっしゃったようですが……」。

それに対して、「ジェイムズ・エムトゥーメイ:うーん、あながちサンファイアだけが理由とは言えない。たしかに僕たちはプロダクションを設立してステファニー・ミルズ、フィリス・ハイマン、ルー・ロウルズ、スピナーズといった連中といい仕事をしていた。しかし、うーん……プロダクションとしての問題なんだな、この件は……」とね、お茶を濁したということがございました。1990年のインタビューですから、もうこの時点でレジー・ルーカスはマドンナのプロデューサーとして大成功を収めましたし、レジー・ルーカスが抜けた後のエムトゥーメイになってエムトゥーメイは『Juicy Fruit』という1983年のR&Bシーンの年間1位の曲を出してますからね。

これは2人の決別ってのはそれぞれにとってプラスだったように見えたのですが、まあどうだったんでしょうね。それからさらにいま、もう四半世紀ぐらいの時間が経ってますから。いま、僕は語ったインタビューはエムトゥーメイを抜けて自分がリーダーを務める三人組、サンファイアというバンドと言いますがユニットをね、作ったレジー・ルーカスが1枚だけ出した『Sunfire』っていうアルバムあるんです。82年に。

で、このアルバムが世界で初めてCDになったのが1992年。日本でCDになったんですけど、実はそのCD化にあたって「これをCDにしましょうよ」って働きかけたのが僕でありましてね。当時24才ですか。で、その時のライナーノーツをいま、久々にね、もう26年ぶりに読み上げてみたんですが……やっぱりこれだけの時間が経ってますからね。このライナーノーツの中で田中康夫さんがこのアルバムのこと大変好きだっていう話を書いていて。田中康夫さんはこのアルバムに関して当時「軽快なアルバムだ」みたいなことをお書きになっているんですよね。『たまらなく、アーベイン』っていう本の中で。「多少フュージョンがかかったソウルというか、ポップがかったフュージョンというか、って感じ」っていう風に書かれているんですけども(笑)。

いま聞くとね――その通りだったと思うんだけど――いま聞くとやっぱり、それ以上にファンクっていう感じがするんですよね。だからちょっと時間が経って炙り出されてきた事実とか音楽性っていうのはあるなと思いますし、もっと言いますとね、近すぎて見えなかったことっていうのは当時、ありますよ。マイルス・デイヴィスのバンドにそのままいたら、どうなっていたんだろうっていうことを想像しながらいま、この話を聞いている方もいらっしゃるかもしれないけど、マイルス・デイヴィスのバンドを辞めたくて辞めたわけじゃないですよ。レジー・ルーカスもエムトゥーメイも。もっと言うとマイケル・ヘンダーソンも。

だってあの頃、マイルス・デイヴィスはもう音楽できる状態じゃなかったんですよね。精神的にも肉体的にもね。で、復活までしばらく時間がかかるわけです。薬物の問題もあったということはもう、みんなが知っていますけども。それで「じゃあ別のことをやろう」って言ってロバータ・フラックの仕事をやったりだとかね、いろんなプロデュースをやっているうちにそっちの方で成功してきて。で、最後は自分のグループを作ったという。でも、それは長続きしなかったっていう。でも、その後も人生は続いていったというのがレジー・ルーカスの音楽と人の話なんですね。

それはだからここで「IF、もしも……」っていうのを話すのは詮ないことなんですが、まあそういうことを考えてしまいたくなるぐらい多岐にわたって才能を発揮した人でございました。元はと言うと『Me And Mrs Jones』で有名なビリー・ポールのギタリストだったそうですよ。

その時はまだ10代で、フィラデルフィアで。MFSBのレコーディングとかにたしかに参加してるんですよ。10代の時にね。そんな早熟の人がその後に自分の目の前に現れる問題にひとつひとつ誠実に取り組んでいったという風に僕には見えますけどね。どうしても贔屓目に語っちゃうけども。

じゃあ、その彼がリーダーとなってアルバム1枚だけリリースいたしましたサンファイア。1枚しか出してない……正確に言うとそれともう1枚、シングルがございましたね。いまバックで流れております『Never Too Late Your Lovin’』という、 この曲こそいちばんの名曲だって言う人が多い、そんなマニアの世界を私、知ってますが。

その片隅に僕もいますけれども、今日はイギリスでいちばんヒットしたこの曲を聞いていただきましょう。アメリカではね、『Shake Your Body』っていうシングルのカップリングだったんですけども、イギリスではね、本当にこの感じが受けたんだな。82年。そしていま、2018年の日本で聞くと、気持ちいいです。サンファイア『Young, Free And Single』。

Sunfire『Young, Free And Single』

メロウはいつも過去形です。サンファイア『Young, Free And Single』。1982年のアルバム『Sunfire』の中から2018年の気分で選びました。レジー・ルーカスのポップな感覚とこういう声の人……これはローランド・スミスって人ですけど。こういう声の人って合うんですよね。ちょっとエッジの効いた硬質なイメージの男性ボーカルと大変相性は良くて。これと同時期にサダーン……またの名をマーク・サダーンというシンガー。サンファイアとレーベルメイトだったんですけども。その人とも仕事をしているエムトゥーメイとルーカスなんですが。

その2枚のアルバム……今日は時間の関係でお届けできませんけども、そちらの方もぜひ聞いていただければと思いますね。まあ、余談ですけども、その時に在籍していたワーナーの新人として入ってきたから、それでプロデュースを手がけたのがマドンナという。一時期レーベルメイトだったというその関係も一応話ししておきましょう。

(中略)

さて、楽しい時間ほど早く過ぎてしまうもの。今週もそろそろお別れの時が迫ってきました。ということで、今週のザ・ナイトキャップ(寝酒ソング)ですが、もちろんレジー・ルーカス関係の曲を紹介したいと思います。1976年。まだ23才の時にアレンジャーとして参加したアクエリアン・ドリームというユニットのファーストアルバム『AQUARIAN DREAM』の中から『Let Me Be The One』。これはカーペンターズのカバーですね。

アクエリアン・ドリームっていうのはノーマン・コナーズというプロデューサー兼ドラマーのユニットなんですけども。そこで若きレジー・ルーカス、いい仕事をやっております。これからお休みになるあなた、どうかメロウな夢を見てくださいね。まだまだお仕事が続くという方、この番組が応援してるのはあなたです。次回、6月4日(月)夜11時にお会いしましょう。お相手は僕、松尾潔でした。それでは、おやすみなさい。

Aquarian Dream『Let Me Be The One』

<書き起こしおわり>

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