菊地成孔 パパ・ウェンバを追悼する

菊地成孔 パパ・ウェンバを追悼する 菊地成孔の粋な夜電波

菊地成孔さんがTBSラジオ『粋な夜電波』の中でパパ・ウェンバさんを追悼。東京スポーツの素晴らしい訃報記事を紹介しつつ、コメントともに曲を捧げていました。

(菊地成孔)私、月に1回、整体に通っておりまして。そん時、整体に通う月に1回が電車に乗る日だっていうのは、この番組のミドル級以上の方ならご存知だと思うんですけども。それで東スポを買うんですよね。ガキの頃は毎日買っていたんですけど、最近は月1になりまして。東スポを買って、それを読むと癒されるんですよね。この時代に東京スポーツっていうのはね。ほんで、東スポ買って……(笑)。笑いながら言っちゃいけないんですけど、読んでいたら……結構ね、「笑いながら言っちゃいけないんですけど」って言いながら、笑いながら言いたいんですけど。

そこから読みますね。驚くべきことです。これは、本当に。まさか!って思った。この番組、いま6年目に入りましたけど、東京スポーツを読み上げるのは初めてですけどね。これは本当に、東京スポーツをいまからそのまま読み上げます。「コンゴの国民的歌手が舞台上で急死。ルンバ・ロックの帝王 波瀾万丈の人生。ルンバ・ロックの帝王として知られるコンゴ(旧ザイール)の国民的歌手、パパ・ウェンバさんが4月24日……」。これはプリンスさんが亡くなった3日後ですね。

東京スポーツの訃報記事

[リンク]舞台上で急死したコンゴの国民的歌手の波瀾万丈人生(東京スポーツ)
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/535054/

(記事を読む)「……コートジボワール最大の都市アビジャンで行われた音楽祭の公演中に倒れ、その後病院で死去した。66才だった。死因は心臓発作。ステージ上で仰向けになって倒れこむ様子は現地テレビ局で生中継された……」。これは実際に動画サイトで見れますっていうとあまり、不謹慎ですけどね。私も拝見しました。(記事を読む)「……1949年、当時のベルギー領コンゴのカサイ・オリエンタル州の村ルベフで生まれた……」。これ、東京スポーツの記事ですよ。しつこいようですけど。

(記事を読む)「……ルベフで生まれた。69年から伝説のオルケストル(バンド)『ザイコ・ランガ=ランガ』……」。ザイコ・ランガ=ランガについて東京スポーツに書いてある! 東京スポーツに「ザイコ・ランガ=ランガ」っていう文字が書いてあるのを見るとはね、ガキの頃は思いもしなかったですけどね。(記事を読む)「……の、オリジナルメンバーとして活動を開始。77年には自身のオルケストル『ヴィヴァ・ラ・ムジカ』……」。まあ、ヴィヴァ・ラ・ムジカはパパ・ウェンバの代表的なバンドですからね。有名ですけど。

(記事を読む)「……を結成し、国民的スターとなった。ザイールの伝統音楽とロックを融合させた無骨でパンチのあるサウンドが特徴。『ルンバ・ロック』『ルンバ』と呼ばれ、日本にもファンが多く、旧ザイールの公用語だったリンガラ語から『リンガラ・ポップス』とも呼ばれた……」。これ、東京スポーツですよ。しつこいようですけど。(記事を読む)「……89年(※注 実際の東スポの記事では『86年』と記載されています)には「ヴィヴァ・ラ・ムジカ」として来日公演も行った」と。80年代末っていうのはそういう具合です。『We Are The World』が85年。まあ、西寺郷太さんが言うところの「80年代の呪い」「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」が85年にかかって。

西寺郷太『ウィー・アー・ザ・ワールドの呪い』を語る
NONA REEVES西寺郷太さんがTBSラジオ『Session22』に出演。名曲『We Are The World』の制作された時代背景や、その後の音楽業界の変化について話していました。 (南部広美)今夜はNONA REEVESの西寺郷太

80年代後半っていうのは混迷の時代になるんですけど。プリンスっていうのはその時代にガッと来た人ですよね。だってプリンスの日本公演って86年が最初でしょ。で、89年の『Lovesexyツアー』が初めての東京公演ですよ。だと思います。たしか。だから89年はプリンスが東京公演を初めてした年ですよ。その年に、パパ・ウェンバが来日しているわけね。

あと、ずっと読んでいるとキリがないんですけど。後ろもすごいですよ。結局読もうかな。(記事を読む)「……80年代後半、活動の拠点をキンシャサからパリに移したウェンバさんは、自らを中心とする国際的なグループを結成。白人ミュージシャンや女性歌手をメンバーに招き入れ、アフリカはもとより欧米でも高い評価を受けた。20年近くウェンバさんの写真を撮り続けていた写真家の酒井透氏は『ウェンバの功績の一つはキューバ音楽をベースにしながら、ザイールの伝統音楽とロックを融合させ、独自のポピュラー音楽を作り出したこと。もう一つは音楽の中にファッションを取り入れたこと。ヨウジヤマモトやジャン・ポール・ゴルチエなど、ブランドの洋服を着てマイクを握ったのです』と語る。ザイールのミュージシャンは普段着でステージに立っていたが……」。

つまりこれは、アフリカの民族衣装ってそれだけでキレイじゃないですか。すごく。華やかだし。日本で言うと、『演歌の花道』ですよね。全員和装でいらっしゃると、みなさん髪もちゃんと作られて和装ですごいキレイなんだけど、言っちゃあ全員民族衣装で、みんな同じ格好ですからね。その中に、パパ・ウェンバはゴルチエ着て行ったんですよ。ゴルチエっつったらもう、最近だったらレディ・ガガですからね。まあ、そういう派手な人だったわけですが、(記事を読む)「……ファッションは一大ムーブメントとなり、若者たちに広まった。それがコンゴを発祥の地とするサプールという文化……」。ここまで! これ、東スポですよ(笑)。

サプールっていうのはね、どの国にもありますけど。まだ開発途上の頃に、アメ車に乗って、ものすごい高級ブランド品で全身上から下までキメキメにして。で、ガムかなんか噛んじゃった。とっぽい子たちが、まだ開発中でアスファルトが舗装されていないところとかをアメ車でバーン!って走ったり。日本でも、戦後すぐはありましたよね。いろいろ。それをアフリカでは「サプール」って言うんだけど、このサプールっていうのはみんな、パパ・ウェンバに憧れて始めたの。

宇多丸推薦図書『SAPEURS THE GENTLEMEN OF BACONGO』
宇多丸さんがTBSラジオ『タマフル』秋の推薦図書特集の延長戦、放課後ポッドキャストので貧しい収入のほとんどをハイブランドの洋服に費やすコンゴのサプールたちの写真集、『SAPEURS THE GENTLEMEN OF BACONGO』を紹介し

そのことが書いてあるの。ここに。これ、大変なことですよ、これ。音楽誌でもここまで細かく書かないと思いますけどね。東京スポーツ、どうしちゃったんだ?っていう。(記事を読む)「……街を闊歩するおしゃれな若者の集団を指すまでになった」って書いてある。これ、すごいと思いますよ。

まあ、違うページに行ったらね……まあ、1日中東京スポーツ読んでいるわけにはいかないですけど。あの……(笑)。えー、(記事を読む)「今月のラストをしめるのは新宿ゴールデン街の某店のエロかわいいママです。ママはスケベで好奇心が旺盛で、いろんなエロ現場に突撃してますが、『少なくとも我が国で女向けの風俗っていうのはやはり無理ね』という結論に達したそうです」って、これは岩井志麻子さんの日めくりエッセイ『いろ艶筆』ですけどね(笑)。

まあ、いろ艶筆だけじゃないぞ!っていうね。いろ艶筆と競馬とプロレスのことだけじゃないんだ!っていう。「グレート小鹿 74才の死んだふり作戦」って(笑)。これだけじゃないっていう。ここにパパ・ウェンバの記事がこんなに細かくですよ。ネットや音楽誌だってここまで言えないんじゃないかな? なんか、いたんでしょうね。ファンがきっとね。東スポの編集者の中にパパ・ウェンバのファンがいたと思うと感動しますけどね。

パパ・ウェンバは66才ですが、まあ、そうですね。あんまり言っちゃ行けないんだけど、これ。私が六本木で番組やっていた頃のを不法な方法で聞くと、私がアフリカの音楽の民族音楽のゴリゴリじゃなくて、アフロ・ビーツとかアフロ・ポップって言われているもの、つまりアフリカの人がアメリカに渡るんじゃなくて、アフリカの都市で作り上げたロックやポップミュージックのことを後にワールドミュージックって呼ぶようになりますけど。それに最初に出会ったのがパパ・ウェンバだっていう話。

それと、アフリカはもともとグリオ……グリオっていうのは歌を歌うことが仕事になっているすごく貴族的な一族のこと。ユッスー・ンドゥールなんかはグリオの末裔なんですけど。遠くまで声を響かせたいじゃないですか。サバンナだから。だからいきおいね、ものすごく声が高いんですよ。で、私は民族音楽は聞いていたんですけど、生まれて初めてアフロ・ポップを聞いたのは80年代末にパパ・ウェンバで聞いたんですね。その後にのめり込んで、やたらとマニアになりましたけど。

イントロが、「ズンジャジャ、ンジャジャジャジャ、ズンジャジャ、ンジャジャジャジャ♪」っつって。パパ・ウェンバがマイク握ってね、ハナ肇さんみたいな感じの、サン・ラみたいな感じのルックスの。で、歌が始まったら「ハナモケ、ハナモケ、ハナモケ♪」ってものすっごい(声が)高いんですよ(笑)。こっちが想像している2オクターブぐらい上の高さで、「ハナモケ、ハナモケ♪」って歌い出したんで、「これ、ヤバいもん聞いたな!」っていう。その声の甲高さですよね。

で、これは後にアフリカのアフリカンポップスの人はほとんど声が甲高いということを知るわけですけども。という話を、昔六本木で番組をやっていた頃にしたことがありますけども。まあ、懐かしいです。パパ・ウェンバは文字通り、なんて言ったらいいんですかね? それが「パパ」ってことだと思いますけどね。大観衆の目の前で、歌っている最中に仰向けに、後ろ向きに倒れて亡くなりました。

パパ・ウェンバの曲を1曲、お聞きいただきたいと思います。まあ、活動期間が長い方ですから、いろんな時代のがあるんですけどね。初期の頃のが音楽的にドープだって言われているんですけど、今日はまあ、ラップなんか入れちゃって、パパ・ウェンバもちょっと疲れてきたなっていう頃の曲を聞いてみたいと思います。パパ・ウェンバ、逝去されました。追悼ということで、『O’ Koningana』という曲を聞いてください。

Papa Wemba『O’ Koningana』

パパ・ウェンバで『O’ Koningana』という曲でした。まあ、もうほとんど歌ってないですよね。ヒップホップみたいにチームを組んで、フックだけやってますけどね。まあ、あといちばんいいところだけ歌っていますけど。まあまあまあ、本当に「パパ」っちゅうぐらいで、ファミリー全員が見守る中で亡くなったと。やっぱりアフリカ人はこうでないとっていう感じですよね。プリンスが自宅のスタジオで発見されていたっていうことと本当に好一対だと思いますけどね。はい。

菊地成孔 プリンスを追悼する
菊地成孔さんがTBSラジオ『粋な夜電波』の中で急逝したプリンスさんを追悼。コメントともに曲を捧げていました。 (菊地成孔)1曲なんて絶対に選べやしない。100曲だって。だから、君が最後に愛した女性の曲で君を送るよ。あまり言われなかったことだ

まあ、あんまりそのね、誰でも……亡くなりますから。湿っぽくしたいわけじゃないんですけど。あまりに連続してね。パパ・ウェンバは私にとってプリンスと同じかそれ以上の愛着というか。相当聞いた……最初のアフリカンポップス体験の人だったんで。まあ、そんなことを言ったらプリンスって、あらゆる人にとっての、あらゆるいろんな初体験をもたらした人だったと思いますけどね。それがプリンスの本当に偉大なところだったと思うんですけど。

<書き起こしおわり>

タイトルとURLをコピーしました