千葉真一が語る 仁義なき戦い・戦国自衛隊・志穂美悦子・高倉健

千葉真一が語る 仁義なき戦い・戦国自衛隊・志穂美悦子・高倉健 たまむすび

TBSラジオ『たまむすび』に千葉真一さんが登場。千葉さんの大ファン、玉袋筋太郎さんといままでの作品やJAC、高倉健さんとの思い出などについて語っていました。

(玉袋筋太郎)いやー、もう嬉しくて。だって横にいるのが千葉真一さんですよ!

(千葉真一)いやいや、ありがとうございます。

(玉袋筋太郎)大友勝利ですよ!仁義なき戦い!見てきたらしいんですよ、うちの小林が。

(小林悠)仁義なき戦いの。拝見したんですけど。最初・・・

(千葉真一)いつごろご覧になったんですか?

(小林悠)私はこの会社に入ってから拝見したんですが。

(玉袋筋太郎)27才か?

(小林悠)いま、28才です。大人になってから見たんですが。私、千葉真一さんがどちらに出てらっしゃるか、最初わかんなくて。

(千葉真一)そうでしょう。

(小林悠)びっくりしました。

仁義なき戦い 大友勝利

(千葉真一)あのね、僕は東映の封切りの日に映画館に見に行ったんですよ。僕、お客さんがいっぱいいるからメガネして帽子かぶって。映画終わったら、『おいおい、千葉真一、どこに出てたんだよ?』って。ファンがそうやって言ってくださって。それはとっても、俳優にとってはうれしいことなんですよ。

(玉袋筋太郎)これ、やっぱり千葉さん、それまではアイドル路線っていう感じで行っていたから?

(千葉真一)アイドルってことはないですけども。

(玉袋筋太郎)でも、あんなすごい役っていうのはね。

(千葉真一)そうですね。僕も最初、びっくりしましたね。こりゃあ僕にはできないなと。そう思ったんですよ。でもね・・・。

(玉袋筋太郎)ボリッボリかいてましたよ。股間を。

(千葉真一)あの深作欣二という監督。一緒に僕、デビューしたんで。あの監督の第一回監督が僕の第一回主演なんですよ。そういうところが、『あの深作監督が絶対にこの役は俺に指名してきてるな』とこう思って。よっしゃ!挑戦してみよう!と思ってね。それからもう役になりきること1ヶ月。もう、大変でしたね。あらゆることにね。仕草、しゃべり方、歩き方、動き方、怒り方。全部大友になりきらないといけないという。だからいままでの千葉を全部捨てよう。しかも、いままでの千葉の魅力的なものを全部捨てたんですね。

(玉袋筋太郎)うーん・・・

(千葉真一)で、俺にないものの俺を出す。それが大友勝利だっていう。そういう話をしながら、どんどんどんどん組み立てていったのがあの大友勝利。

(玉袋筋太郎)仁義なき戦いですよ!

(小林悠)ものすごかったですね。

(玉袋筋太郎)小林さん28才。で、うちの倅が21才なんですよね。で、今年のお正月、WOWOWで仁義なき戦いを一挙放送やったんですよ。で、倅にまだそれ見せてなかったの。仁義なき戦い。全部持ってるんだけど。DVDは。いつか一緒に倅と、大人になったら一緒に見よう!って思って。で、初めて21才の息子が見たんですよ。仁義なき戦いを。

(千葉真一)21才で。

(玉袋筋太郎)21才で。そん時の倅の言った、大友勝利を見て、『こんなすげー人、いねーよ!』っていう。『なんだ、こりゃあ!?』っていう。『映画史に残るっていうか、全部ぶっ飛んだよ!パパ!』っつって。

(小林悠)いや、本当。大友さん、ぶっ飛びすぎてますよ。

(玉袋筋太郎)世代を越えてやっぱり。すごいですよね。

(千葉真一)そういう瞬間って、役者冥利ですよね。新しい役に挑戦する時っていうのはね。本当に役者冥利でね。難しいからこそ、深作欣二という男をね、『ありがとう、よくやってくれた』って言わせたくて(笑)。

(玉袋筋太郎)やー!やー!やー!(手を叩く)。いや、深作さんも亡くなっちゃってね。

(千葉真一)そうですね。日本の財産がね。

(玉袋筋太郎)トラック野郎の鈴木則文監督も亡くなってしまいまして。もちろん千葉さんもトラック野郎。ジョーズとして出演しているわけですよ。しびれますねー!あれもまたひとつ。鈴木監督って、どんな方だったんですか?

(千葉真一)あの方はね、ほとんど脚本を書いていることが多かったですね。脚本を6割。あと4割は監督みたいな。そんなところで。そういう方でしたね。ですから、いろんなお付き合いが深くありました。素晴らしい人でしたね。

(玉袋筋太郎)そこの中でまた、千葉さんが演ずるところのトラッカーがまた、素晴らしい社会風刺をしているわけですよ。原発を。この村の話で。

キイハンター

(千葉真一)いやいや。TBSさんには大変にお世話になっているのが、5年間、『キイハンター』をやらしてもらって。それはお世話になったですね。これも僕がね、このアクションをどうしたらいいんだ?って。スパイ大作戦っていうアメリカで有名な。これに向こうをはって、日本でいいのを作ろうじゃないかって始まったのがこれだった。

(小林悠)なるほど。日本版のってことなんですね。

(千葉真一)そうなんですよ。ですから、すごくこれもいろいろ考えて、めちゃくちゃやりましたね。

(玉袋筋太郎)だって、危うく死にかけるもそれが名シーンにっていうことなんですけど。

(千葉真一)そうなんですね。毎回ですね、ファンの方から1日に何千通ってくるわけですよ。全部見れないけど、みんなスタッフ一緒で見るんですけど。『今回はどんなことをやってくれるんですか?』とか、『今回はどんなのがこの映画の中に入ってるんですか?』って。で、やらざるを得なくなって・・・

(玉袋筋太郎)(笑)。千葉さん、大変だ。

(千葉真一)『今日はどうしようか?』『よし、これを考えよう』『えっ?手錠のまま脱獄やろうか?たとえば・・・』『よし、やろう』『その次、どうする?』『いや、汽車の上にトンネルから飛び移って』『この鎖をどうやって切る?』『じゃあ俺、線路の間に入るよ』って。

(小林悠)えっ、怖い・・・

(千葉真一)本当にやったんですよ。

(小林悠)スタント、なしですよね?

(千葉真一)もちろん。スタントはひとつもない。

(小林悠)ご本人がやる。すごいですから。千葉さん。

(千葉真一)それで、相手が黒人の方でしたから。大きいから、線路の間入れないんですよね。汽車が通るわけ。で、僕はその間に入って。それで電車の向こうに黒人が。で、バーン!って電車が走る。鎖を切っていく。

(玉袋筋太郎)あり得ない(笑)。CGでいま、やっちゃうけど。CGじゃないですもんね。千葉さん。

(千葉真一)運転手さんのところに行って、『僕は線路のところにいますけど、大丈夫ですから。きちんと高さも全部計算してやります。私は大丈夫ですから通ってください』って。

(小林悠)運転手の方もブレーキかけたかったでしょうね。怖くって。

(千葉真一)でね、いまだから言えること。枕木をね、削ったんですよ。少し(笑)。

(玉袋筋太郎)そうしねーと危ないと(笑)。

(小林悠)それを通って行くわけですからね。

(千葉真一)もう、めちゃくちゃやりましたね。

(玉袋筋太郎)めちゃくちゃですよ。いやー、僕は本当にね、この紹介の中で出てなかった戦国自衛隊っていうのが僕、大好きで!

戦国自衛隊

(千葉真一)僕も大好きです。

(玉袋筋太郎)もう、あんな傑作、ない!(机を叩く)。千葉さんとね、夏八木(勲)さんのね、海辺でね、ザブン!と波をかぶっているフンドシ姿のところ。

(千葉真一)裸の付き合いですね。

(玉袋筋太郎)裸の付き合い!あそこがもう、しびれるのよ!

(千葉真一)よかったですねー。あれはね、本当にもう一本。最後に僕が死ぬじゃないですか。

(玉袋筋太郎)伊庭さんが。

(千葉真一)今度はね、いま脚本がひとつできてる。伊庭の、弟が死んだから。お兄ちゃんがもう一度タイムスリップして、弟のところまで会いに行く。で、タイトルが『今度は負けない』という(笑)。負けてしまったからね。

(玉袋筋太郎)負けましたからね(笑)。景虎にやられちゃって。

(千葉真一)やっぱり時代には勝てなくて。で、そういうね、実は脚本はできてるんですよ。お兄ちゃんがもう1回、弟のところにタイムスリップしていくっていうね。

(玉袋筋太郎)そうすると、景虎は誰が演じればいいですかね?

(千葉真一)そうですね。景虎、困っちゃいましたね。悲しいかな・・・

(玉袋筋太郎)やっぱりあの戦国自衛隊、結構お金かかった作品で。アクションも全て、千葉さんやられたじゃないですか。大変だったんじゃないですか?あのスケールですもんね。

(千葉真一)いやー、あれは1年に1本だけしか。あれ、1年かかったんですよ。クランクインして、アップまで1年かかりましたね。その間、ロケハンからカット割りから。あれ、何千カットっていうカットを全部自分で。で、やっぱり新しい役者を考えだしたり、編み出したり。まあキイハンターの時にいやってほどやってましたから。そのへんはもう、どんどんどんどんいっぱい出して行って。監督、これどうしましょう?ああしましょう、こうしましょう・・・何千カットですよ。

(玉袋筋太郎)千葉さん、すごいもん。ヘリにぶら下がっちゃってるんだから。つられちゃってるんだから。それで銃、ガンガン撃つからね。もう最高!でね、そん中で出てくる真田広之さんの若き日のね、ヘリコプターから飛び降りる。あのアクションもやっぱり・・・ジャパン・アクション・クラブ(JAC)ですよ!

JACと志穂美悦子

(小林悠)その2の筋ですね。『世界に通用する俳優を育成。ジャパン・アクション・クラブの筋』。

(玉袋筋太郎)これはもう、俺の友達も。当時すごいブームだったから、俺の友達も受けたからね。俺の友達はうちの学校でいちばん運動神経がいいやつ。そいつが落ちちゃったもんね。『嘘!?おめーが落ちるの、JACって!?』っていう。

(小林悠)入団テストといいますか、どういった方が受かるんでしょう?

(千葉真一)いやいや、やっぱり俳優さんの。先生、僕だけじゃありませんし。深作監督も審査員として来てくださって。だいたい応募者が1万5千人くらいいるんですよ。1年に。で、50人しか取らないんですけども。ですから、ほとんど落ちちゃうんですね。『来年いらっしゃってください』って。だって、志穂美悦子も落ちたんですから。

(玉袋筋太郎)志穂美さん、落ちたんですか?

(千葉真一)落ちたんですよ。

(玉袋筋太郎)ええーっ!?うわー!

(千葉真一)ただ、先生が20人くらいいるんですけど。僕は志穂美くん、入れてたんですね。『並みの運動神経じゃないよ、この子は。これはすっごいよ!これ鍛えたら大変なことになるよ!』って。1回会議開いて、入れてもらったんですよ。

(小林悠)そういうのは可能なんですね。

(千葉真一)相談して。僕は『ぜったい良くなるから入れようよ!』って。『いや、千葉さんがそうおっしゃるんなら・・・』って。で、お母さんといらっしゃって。で、『合格です』って言ったらバッと来て。そのかわり、中学校3年生の時にいらっしゃったんですね。悦っちゃん。『すぐに東京に来て、東京の学校で勉強しながら毎日JACで3年間、お稽古してください』って。したら、『すぐやります!』って。ほいで来て、3年間。僕の知っている高校に入れて。学校が終わったら、毎日体育館で1日4時間くらい。毎日毎日毎日稽古して、デビューしたんですよ。

(玉袋筋太郎)くうぁー!

(千葉真一)だからあれだけの子になってしまって。まあ、やっぱり思った通り勘のいい子で。運動神経。まあ、あんな子、もう出ないですねー。

(玉袋筋太郎)そうなんですよ、千葉さん!やっぱり、いまやっぱりああいう動きができる女優さんって、もういないですよね!

(千葉真一)で、僕はいま、『志穂美悦っちゃんよ、再デビューしようよ!復活しなさいよ!』っていう話をしてるんですよ(笑)。

(玉袋筋太郎)ええーっ!?いいねいいねいいねー!

(千葉真一)で、実はね、丹波(哲郎)さんが、悲しいかな、お亡くなりになり。1年前に『おい、千葉よ。キイハンターをよ、映画化して映画を残そうよ』って言われてたんですよ。で、実は脚本を書いていた。それで半分ぐらい書いたところでお亡くなりになっちゃう。実はその脚本がある。で、いまTBSのある方と、やろう!と。

(玉袋筋太郎)なにっ!テーマ曲が聞こえてきたぞ!テーンレレーン、テレレレレレレ♪

(千葉真一)そうです。これをね、再現しようという。やっぱり丹波さんのご遺志もあったし。それ、いま計画しています。

(玉袋筋太郎)やりましょうよ!

(千葉真一)もちろんTBSさんがやってくれないと困るわけでね(笑)。

(小林悠)あと、いま丹波さんのお名前が出ましたけど。もう1人。高倉健さんの筋も入っているではないですか。高倉健さんには最も影響を受けた人っていうことですか?

恩人 高倉健との思い出

(千葉真一)もう人間的に素晴らしい人でしたから。なんかあるといつも救ってくれて。僕はまず、大学3年生の時に東映に入って。学生の時ですから、OK、合格って東映に入って、毎日俳優座に勉強に行くんですけど。それを1年終わって帰ってきて、すぐ東映で役をもらったんです。社会人になっても学校から来たばっかりだから、着るものがないんですよ。学生服着て行ってたんですよ。

(玉袋筋太郎)ええ(笑)。

(千葉真一)そしたら健さんに、『千葉、あのな、ここはな、社会人の集まっているところだから。学生服はもうやめろよ。着るもの、ねえのか?』『はい。まだその余裕もございませんし・・・』って言ったら、次の日にね、1回か2回しか通してない背広を2着。僕のところへポンッと。これがいちばん最初の高倉健さんからの、愛のプレゼントでした。

(玉袋筋太郎)うおー!たまらんっすねー!

(小林悠)かっこいい!

(千葉真一)それから、なんという人だろう。なんという、そういうのをわかっている、オヤジさんみたいでお兄ちゃんみたいで。すごい人がいるなー。これが天下の高倉健だ!と。そん時に再認識した。それが初めてでしたね。それから何度か、怒られたこともあったし、前に俺が大事件を起こした時も救ってくださったし。とにかく、あの人は人生の師ですね。

(玉袋筋太郎)いよっ!かっこいい男の世界!

(小林悠)みなさんが思い描く通りの高倉健さんですね。

(玉袋筋太郎)いや、もうみんなしびれてますよ。本当に!

(玉袋筋太郎)素晴らしいですね。ああいう人になりたいと、いまでも願望でございます(笑)。

(玉袋筋太郎)(笑)。千葉さんもすごいよ!

(千葉真一)とんでもないです。僕なんか、まだまだ。どうにもならない人生を歩んでますよ。

(小林悠)これからの目標といいますか。

(千葉真一)やはりいまの日本の映画界の状態を見ますと、みなさんもわかっていると思いますけど、やっぱりどっかで変えなきゃいけないところが、あるね。言うなれば、日本の映画界、革命を起こさなきゃいけないくらいの、いま気持ちでおります。そのためにどうしたらいいか?そのために、僕はアメリカに行ったんです。世界に日本の映画を行かすためには、どうしてもハリウッド。つまりアメリカの人たちと手を組まなければ。世界の配給権を持っているのはアメリカですから。

(玉袋筋太郎)そうですね。

(千葉真一)やっぱりハリウッドの人たちと。どう仲間に入って、日本の映画を世界に配給してもらわないといけない。そのためにはやっぱり、彼らとどう親密に、親しくなって、一緒に映画を。しかも日本映画をハリウッドで作れるような条件、状態を作っていかなきゃいけない。それをやり続けてます。いまでも。

(玉袋筋太郎)クェンティン(・タランティーノ)はそのバックアップ、してくださるんですか?

(千葉真一)いやいや。だから、じゃあどうしたらいいか?って。もう2つしかないんですね。日本の映画俳優がとてつもなく有名になって、もうひとつはいま中国がやっているように、とてつもない金をハリウッドに持ってくか。それしかないんですよ。お金の方は日本ではどうにもならない。だから、そしたら世界で通じる俳優を、ハリウッドで育てるしかないじゃないですか。

(玉袋筋太郎)はいはいはい。ですよね。

(千葉真一)だからいま、僕も。まあたまたま息子なんかも、映画俳優になろうって言い出したんで。

(小林悠)かっこいいですよね。息子さん。

(千葉真一)やるんなら、徹底しろと。もういま毎日、訓練訓練訓練訓練。ちょうどいま、日本に戻っていて。ブラッド・ピットの先生にいま、ついてるんですけど。この休みに『お前な、日本人だったら日本に行って、日本のちゃんとした文化を身につけて映画俳優として来い』って言われて。いま、朝から晩まで稽古してますよ。いろんな稽古を。発声から殺陣からお芝居から歌。踊りも、日本舞踊を。

(玉袋筋太郎)若いですから、吸い込みもいいですしね。

(小林悠)十代ですもんね。

(千葉真一)17です。

(小林悠)可能性の塊ですね!もう本当に息子さんの活躍も楽しみ。

(玉袋筋太郎)もっともっとお話、聞きたかった!

(小林悠)すいません。お時間の方が・・・

(千葉真一)ありがとうございました。よろしくお願いします。

(玉袋筋太郎)感動しております!ありがとうございました!

(小林悠)千葉真一さん、本当にありがとうございました。

(千葉真一)ありがとうございました。

<書き起こしおわり>

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