土岐麻子さんと渡辺シュンスケさんがTBSラジオ『西寺郷太TAMAGO RADIO』に出演。大学時代からの知り合いである西寺郷太さんが、当時の土岐麻子さんとの出会いや印象、キャリアについて語りました。
(西寺郷太)土岐さんはさっき教えてくれたけど、会ってから20年なんですね。丸。
(土岐麻子)そうなんです。あと1ヶ月で。はい(笑)。4月で。
(西寺郷太)しばらくはちゃんとしゃべってなかったですけどね。俺、照れてたから。
早稲田の学食でカツカレーを作っていた土岐麻子
(土岐麻子)はい。最初は学食で私がカツカレーを作っていて、郷太さんがいつもそのカツカレーをたのむっていう。
(西寺郷太)そうそうそう(笑)。文学部のキャンパス。早稲田の。
(渡辺シュンスケ)へー、いい話じゃない。
(土岐麻子)最初は店員さんとお客さんの関係だったんです。
(西寺郷太)店員さんとお客さんの関係であり、サークルの隣で。何人か新しい人が入ってくる中で、目立ってたんですよ。土岐さん。
(渡辺シュンスケ)なるほど、輝いてた?
(西寺郷太)輝いてました。あと、お父さんが。土岐英史さんが日本を代表するサックス奏者で。僕の周りとかやっぱり、山下達郎さんのファンとかすごく多かったので。だから土岐さんの娘さんが入ってきた!と言って、音楽好きの連中が騒いでいたんです。
(渡辺シュンスケ)なるほど。
(西寺郷太)だからそこで最初に僕は割と遠目で見て。僕が3年生の時の1年生だったんですね。
(土岐麻子)そうですね。はい。視線は感じていましたよ。
(西寺郷太)視線(笑)。
(土岐麻子)あの、郷太さんのいた『トラベリング・ライト』っていうサークルからもそうですけど、隣にまた『フュージョンマニア』ってサークルがあって。フュージョンマニアからの視線がすごかったです。
(西寺郷太)ああ、もう神の子だ。
(土岐麻子)『土岐英史の娘らしい』って。
(西寺郷太)たしかにそうですよね。好きな人が多かったですから。
(土岐麻子)フュージョンマニアたちが。
(西寺郷太)それで、土岐さんはでもね、ちょっとシュンちゃんに説明してもいいですか?まず、土岐さんのここに来られるまでのいまに至る流れ。僕が把握しているところなんですけど。そん時はね、ギターやってたんですよ。土岐さん。最初。
(土岐麻子)そうですね。
(渡辺シュンスケ)あ、ギターやっていたって話はね、うかがってたんですけど。
(西寺郷太)まあ、そんな上手じゃなかったですね。
(土岐麻子)(笑)
(西寺郷太)本当に、すごくなんて言うのかな?ピクニックしてるみたいな、楽しそうな。リハとかでもみんなで笑っているみたいな。楽しそうなバンドをやってたんです。ジャクソン5とか、やられてましたよね?
(土岐麻子)やってましたね。
(西寺郷太)カッティングしてね。
(渡辺シュンスケ)カッティング、してたんですね。
(西寺郷太)カッティングしてたんですよ。それで、しばらくしてだいぶ飛びますけど。ベーシストの沖井礼二さんと矢野博康さん。ドラマーと3人で、土岐さんがヴォーカルになってシンバルズというグループが結成されて。ビクターからデビューしたと。これ、まあすごく端折りましたけど。その時は比較的、それこそいま来日しているローリング・ストーンズじゃないですけど、割とハードなと言いますか。ギターポップ。イギリス人のちょっとハードなブリティッシュ・ロックというようなものの影響を受けたグループでしたよね?
(土岐麻子)そうでしたね。ライブもちょっとモッシュが起きたり。ダイブが起きたり。
(西寺郷太)いまから考えるとね、ちょっとあれですけど。
(土岐麻子)信じられない。
(渡辺シュンスケ)根はロックなんですね。やっぱり。
(土岐麻子)そうなんですね(笑)。
(西寺郷太)すかんち、大好きですもんね。そもそも。
(土岐麻子)もう大好きでしたね!
(西寺郷太)ローリー寺西さんとか、マルコシアス・バンプとか。
(土岐麻子)はい。バンドっていうものが好きだったんですね。
(西寺郷太)なるほど。なるほど。それでまあ、シンバルズがあり、さっきの、いちばん最初の話に戻るんですけど、それで2004年にお父さんのプロデュースによる『STANDARDS』でジャズのカヴァーをするってことで。その時は、どっちかっていうとハードなことを割と売りにして。途中からは、打ち込みとバンドの融合みたいなのをしていた、あのシンバルズの土岐麻子がジャズを歌ってるよ!カヴァーで。面白いなっていう切り口で最初は出ましたよね?意外なっていう。
(土岐麻子)そうですね。意外性をちょっと撒きたかったのと、あとは自分の声をすごい聞いてもらいたいって。結構シンバルズだと楽器の一部みたいな感じで。声のバランス自体を、すごい特殊な・・・
(西寺郷太)かっこいいですけどね。あれはあれで。
(土岐麻子)特殊な位置に持ってきたりってのが多かったので。なんかその声に否が応でも集中できるような、焦点が合うようなものをつくろうと思って。極端なことをしましたね。
(西寺郷太)で、こうカヴァーが何枚か出てる中で、それで2005年に『Debut』ってアルバムで日本語の、どちらかと言うとシティ・ポップをリバイバルさせるよっていうような運動。ムーブメントのパイオニアとして。
(土岐麻子)はい。そうですかね?
(西寺郷太)リバイバリストとして。まあ実際、お父さんの関係もありましたから、いろんなミュージシャンたちが土岐さんを子供の頃とかに家に遊びに来たりもしてたんですよね?交流があったというか。
(土岐麻子)そうですね。交流が。
(西寺郷太)ライブを見に行ったりとか。なので、そういう東京生まれ東京育ちというか。そういう土岐さんだからこそ、というのがずっと10年。コンスタントにリリースされながら。ユニクロのCMをやったり、いろんなことでCMソングはたくさん。すいませんね。聞き役になっていただいて。まず、一人ひとり行くんで。
(渡辺シュンスケ)大丈夫です。
(西寺郷太)で、いまに至るということですよね。
(土岐麻子)はい。ありがとうございます。私の10年以上の・・・
(西寺郷太)10年。20年。
(土岐麻子)20行ぐらいでまとめていただいて。
(西寺郷太)最初にカツカレーをついでくれてた時からの。
(土岐麻子)本当ですね。
(渡辺シュンスケ)その時は、NONA REEVESはもうあったんですか?
(西寺郷太)ええと、もうでも4年生の時にはあったんで。まあ、それぐらいから。
(土岐麻子)すごかったですよね。NONA、本当に。
(渡辺シュンスケ)すごかったですか?
(土岐麻子)はい。下北でブイブイいわせてましたけどね。
(西寺郷太)奥田さんと小松さん。下北でブイブイ(笑)。あの、出だしの初速はすごかったんですけど。そこからずっと。あんまり変わんないというね。すごいいい感じでやってますよ。
(土岐麻子)当時、カセットテープでしたもんね。
(西寺郷太)カセットテープ。でも、それこそシンバルズの、入ります、入りませんっていう、まだその仮で作ったぐらいの、『仮』って書いてあったシンバルズのカセットを、高田馬場の駅で土岐さんにもらったりとか。
(土岐麻子)そうだったですね。
(西寺郷太)『私、こういうの沖井さんたちと始めたんです』って。NONAよりちょっと遅かったんですよ。だから、『ああ、歌うんだ』って。で、沖井さんに『あの子、めっちゃくちゃ歌、いいじゃないですか!』みたいなことは言ってたんです。僕も。
(土岐麻子)いや、懐かしいなー。
(西寺郷太)僕が育てたっていうね。
(土岐・渡辺)(笑)
(西寺郷太)いやいや、そんなことはないですけど。まあまあ、という感じの関係の中で、いまに至ると。うちのメンバーね、奥田も小松も、僕もですけど。一緒にコラボレーションもしてますし。仲良いということで。
<書き起こしおわり>
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