NONA REEVESの西寺郷太さんがTBSラジオ『Music24/7 西寺郷太TAMAGO RADIO』で、ロスアンゼルスの、かつてマイケル・ジャクソンやジャクソン・ファミリーが暮らしたエンシノの家を訪れた際の話をしていました。
(西寺郷太)ロスアンゼルス、LAという呼び方もしますけども。着きまして。マイケル・ジャクソンのお兄さんのティト・ジャクソンさんという方がいまして。この方はギターを持っている、ジャクソン5の中でもいちばん太っていて、だいたい左端にいて、ギターを弾いている、すごく優しい次男のお兄さんなんですけど。日本によく来られるんです。彼はソロのアーティストとしてブルーノートというところだったり、いろいろライブされていまして。ファンもたくさんいます。で、日本に来られた時によく遊ぶんだっていう話はこのTAMAGOレディオでもしていたんですが。
[参考リンク]西寺郷太が語る ティト・ジャクソンが自宅に遊びに来た話
(西寺郷太)『LAに来たら、絶対連絡してくれ』って言ってくれてたんですね。で、『ホンマに僕、行きますけど』って話したら、『じゃあ確実に、どこの飛行機で着いて、どこの飛行機で帰るか、ホテルを教えてくれ』って言われたんで、メールしておいたんですよ。でも彼も忙しい人で。ロンドンでジャクソンズの公演があったり。ロンドンから電話がかかってきて、『ホンマに来るのか?』『はい、行きます』みたいなことも言うてたりもしたんですが。TAMAGOレディオが終わって、飛行機でロスアンゼルスに着いて。僕は、会えると思ってましたけど、別に綿密な計画を立てていたわけじゃなかったんで。
まあ、飛行機で着いて。ホテルに、デザイナーでカメラマンのキンクさんという方と2人で行ったんですけども。このキンクさんっていうのは本当に先輩なんですけど友達みたいな方で。NONA REEVESのジャケットも全部やったりとか。スモール・ボーイズという僕のやっているユニットだったり。安心のブランドというか、任せてるんですけど。その人に写真とデザインを撮ってもらうということで、一緒に行ってたんですが。飛行機が着いて、LAXっていうロスアンゼルスの空港で、荷物を取りに行く時に、カチッて携帯を入れたわけですよ。『これ、どこにつながるのかな?パケホーダイで超えて死んだら嫌やな』って思いながら。でも、電話つながるからつけとこって、その瞬間にティトからかかってきまして。
『着いた?』みたいな感じで。『着いたけど、まだ荷物もなんにも取ってへんから、10分後にかけるわ』みたいな感じで。そっからもうずっとですよ。パーフェクト・ホスピタリティー。ティトのマネージャーで、エドっていう人がいるんです。想像してもらうと、『ロッキー』でミッキーっていう、ロッキーに教えるトレーナーのおじいさんいるじゃないですか。ああいう人の黒人版というか。ブラックミュージックの、ティトについている爺やみたいな人だと思ってください。いるんですよ。ほんで、ティトさんも60才なんですけども。まさにミッキーみたいな感じ。ティトの世話を、すぐに先回りしてやってくれる人がいて。
『郷太はティトの友達やから・・・』みたいな感じでずっといろいろやってくれるんですけど。それでホテルまで迎えに来てくれたり。で、ある時、もう初日ですよ。『ティトの家に連れて行くわ』みたいな。ティトの家の2階にスタジオがあるって聞いてたんで、そこを見せてくれっていう話で。言うてたんですけど、『どこか行きたいところ、あるか?』みたいなことを言われながら、ハイウェイをピューッと乗っていて。そしたら、僕だいたいのロスアンゼルスの地図は頭になんとなく入ってたんで。『あれ?もしかして・・・』って思ったんですよ。ティトの家に行く間に『エンシノ』っていうマイケルとティトの実家ですよね。ムチャクチャ有名な、最後までラトーヤとかジャネットとかマイケルが住んでいた、マイケルと言えば出てくるエンシノの実家。ネバーランドはもうちょっと離れたサンタバーバラっていうところにあるんですけど。
そこをね、ちょうと通りかかる寸前ぐらいだったんですよ。なんで、車に乗っていて『どこか行きたいところ、ある?』って言われたから、ちょっと僕も賭けやなと思ったんですけど。『お前、また何や?急に強欲に・・・』って言われると思ったんですけど、『もし、いいんやったら、エンシノって書いてあるこの土地で、生まれた家に行ってもいい?』って聞いたんです。そしたら、『いいよ』って言って、クククッてハイウェイのインターチェンジをヒューッと下りていって。連れて行ってくれたんですよ。『行ってもいい?』って言った5分後ぐらいに。
いわゆる門がブワーッとありまして。守っているセキュリティーみたいな人がいて。ティトが下りていって。『ちょっと日本から友達連れてきたから』みたいなこと言いまして。で、僕は窓から見てたら門がバーッと開いて。3人ぐらいの人が住んではるんですよ。そこを守るために。家族の人はもう誰も住んでなくて。『うわっ!見たことあるとこや!』って感じで。門の中からビューッと車で入って行きまして。そしたら噴水があって、いわゆる王様が住んでいるような。マイケルがある時に回想したりしてたんですけども。ディズニーランドみたいな家になっているわけです。
で、もうバッと降りた瞬間に、『うわうわうわっ、こういう風になってたんや』って。バラバラに映像は見てたんですけど、広さとかそういうのはぜんぜんわかってなかったんで。なるほど!なんて思いながら。ロスアンゼルスはすっごい暖かくて、天気もめちゃめちゃ良くてですね。カラッとした感じで。いろいろマイケルが住んでいた部屋、壁じゅうにパネルで家族が自分たちの昔からの写真を貼ってあったりするような部屋に。『マイケルの部屋、入る?』なんて言われて、『あ、入ります』なんて言って入ったりして。『すごい、ここや!』って思ったりして。もう1個、『スタジオありますよね?この家』って言ったら、『じゃあスタジオにも連れて行ってあげるよ』って言って、連れて行ってくれて。『ここでいっぱい曲を作ったんだよ』なんて言うてくれたりもしたんです。こっからの話は、また後でしますけども。ともかく、そんな瞬間を体験した1週間ということです。
(中略)
(西寺郷太)改めましてこんばんは。西寺郷太です。この時間からは、郷太のLA滞在記。『西でLA郷太のLA滞在記』と題してお送りしていきたいと思います。先ほどもちょっと話したんですけども。着いて、先週のTAMAGOレディオが終わりまして、そのまま空港にいって着いたらティト・ジャクソン。マイケル・ジャクソンのお兄さんであり、ジャクソン5のギタリストが電話をかけてくれて。家に連れて行ってくれたんですけど。その途中に、エンシノという、感覚的には田園調布と所沢が合体したような感じですかね?ちょっと郊外なんですけども、大っきな家も建っている。そこにマイケル・ジャクソンおよびジャクソンズがね、最初はLAの原宿と言われたりもするメルローズストリートという、ファッション的な、お土産買ったりとか洋服買ったりとかするような目抜き通りみたいなところがあるんですけども。その近くに最初は住んでたらしいんですけど。
ロスアンゼルスに最初に住んだ家があって、その後引っ越した。割と大成功してから引っ越した家ですね。そのエンシノにティトが車で連れて行ってくれたと。で、まあ入りまして、『この家、何度も見たことあるな』と思っていたんですけども。本当に、いろんなところに、ディズニーランドみたいに標語が貼ってあるというか。割とファンタジーランドで文章が書いてあったりとか、あるじゃないですか。アメリカの古い、木目調の、木彫の言葉が貼ってあるみたいな。僕、ちょっとピーターパンとかに詳しくないんで、もしかしたらマイケルのことなので、そういう本からの引用かもしれないですが。『こういうの、誰がやったの?』って言ったら、『マイケルだ』ってティトはおっしゃってたんで。たぶんそうなんですけど。
僕がパン!って見た時は、敷地内の奥のほうにですね、『Follow your dreams wherever they may lead.』という言葉が書いてありまして。『君の夢を追いかければ、どこへでも連れて行ってくれるよ』っていうのが飾ってあったのを見て。僕は初めて買ったレコードがジャクソンズの『Victory』という、1984年の夏でしたけど、買ってから、本当に音楽そもそも好きだったんですが、ジャクソンズに憧れ、ジャクソン・ファミリーを好きになって、マイケルを好きになって。『君の夢を追いかければ、どこへでも連れて行ってくれる』っていうのが僕の目の前にポンって現れた時に、すごい感慨深いの極地みたいな気持ちになりましてですね。
本当にマイケルは、ものすごい人から囲まれたり、追いかけられたりする人生を過ごしてきましたから。そのエンシノの家っていうのが、本当に自分が安らげる、普段ずっと暮らしていた本当の拠点だったんですね。普通の人みたいにパッパッて映画見に行ったりとかすると大騒ぎになるって、途中からなってしまいましたから。子供の頃からそうだったんですけど。だから家の中自体を、割と夢のあるところにしておこうというのが、いまだにその残像が残ってまして。プールもあるんですけど、プールの横にペプシの自動販売機があったりとか。『あ、ペプシと契約してたな』なんて思ったりとか。いろいろ鯉が泳いでいたりとか。こんなところで彼、兄弟全員ですけど、曲作ってたんだなって思いながら、ウロチョロして。感慨にふけっておりました。
まず一曲目はですね、連れて行ってくれたティトとの思い出みたいなのもありますので、ティト・ジャクソンの数年前に出されたシングル曲『We Made It』という曲を聞いてください。ティト・ジャクソン、『We Made It』。
(西寺郷太)はい。ティト・ジャクソンさんはなかなか自分でリード・ボーカルとって歌うっていうのはなかったんですね。先ほどから言ってたんですけど、ギタリストなんですよ。マイケル・ジャクソンがリード・ボーカルのグループだったんですけど、ジャーメイン・ジャクソンという三男のスーパーボーカリストがもう1人、おりまして。この2人がせめぎ合うような形でジャクソン5というグループはいたんですけども。長男のジャッキー、それから四男のマーロンっていう2人がダンサーとして、コーラスという形でジャクソン5を盛り上げ。ジャーメインはベースを弾きながら歌うということで、5人でやってました。
ある時、モータウンというレーベルから『自分で曲を作りたい』ということでマイケル・ジャクソンおよびジャクソン家が自宅にスタジオを作るんですね。それはモータウン時代から作っていたと思うんですけど、そこに僕が行けたわけです。スティービー・ワンダーなんかも来た、本当に由緒正しい、自宅スタジオですけど、コンソールなんかもちゃんとあって。曲がずっと作れるような場所で。ティトに聞いたら、予約制で。みんな曲を作るんで、◯時から◯時まで俺な!みたいな感じで家族で使っていたらしいです。
そんな感じでやってたんですけど、モータウンは『自分で曲を作るのは許さん。俺たちのいい作家がいるんだから、その曲を歌え』ということで。『嫌だ!』ということで、エピックという新しいレーベルに移籍して。そん時に、ジャーメインはモータウンの社長の娘のヘイゼルっていう人と結婚してたんですよね。で、『俺は嫁の関係もあるから、残ってソロでやるわ』ってことで、ソロシンガーとしてモータウンに残りまして。そして、弟だったランディーという六男が入りまして、また5人組の新生ジャクソンズ。この時の話は、よくTBSでも話させてもらいましたけど。
『ジャクソン5という名前はモータウンが登録商標取っているから、使ったらアカン!』ということでね、ベリー・ゴーディ・ジュニアという社長が怒りまして。加勢大周さんの名前を新加勢大周さんと取り合ってケンカしたみたいな感じの。日本でもよくそういうの、ありましたけど。『こっちからまた新しいジャクソン5を売り出す!』なんて言い出しましてね。『止めて!』なんて言ったんですけど、『知らん!』ちゅうてね。しょうがないということで、ジャクソンズという名前にしたんですけど。結果的にそれがね、オールドスクールなモータウンの60年代・70年代のグループというイメージを払拭することに成功したということなんですが。
ティトさんはギタリストとして、ずっとグループに貢献してたということなんですよ。それでスタジオに入りまして。その後、いろいろマイケルの部屋なんかも見たり、素敵な体験をした後、ティトの家に行ったんですけど・・・
<書き起こしおわり>