天龍源一郎 鶴田・馬場・猪木を語る

天龍源一郎 鶴田・馬場・猪木を語る たまむすび

プロレスラーの天龍源一郎さんがTBSラジオ『たまむすび』に出演。ジャンボ鶴田さん、ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんやアメリカ修業、酒豪伝説などの話をしていました。

(玉袋筋太郎)いや、その1の筋のね、『心も体も大きかった、ジャンボ鶴田選手の筋』。普段言ってる時は鶴田さん、クソミソなんですけど。

(天龍源一郎)いや、僕はだいたい試合終わった後はジャンボ鶴田の悪口言って酒飲んでましたよ。

(玉袋・小林)(笑)

(天龍源一郎)それがいちばん美味しかったですね。

(玉袋筋太郎)やっぱね、入り方が違いますからね。鶴田さんはエリートっていう形で入ってきてるんですけども。天龍さんは1回、お相撲を経験して。

(小林悠)苦労をされて。

(天龍源一郎)でもね、僕が本当に相撲からプロレスに来た時ね、どういう仕組みかぜんぜんわからなくて。いちばん最初にバスで移動する時に、みんなバス移動だから座席が決っているんですよ。で、その時に馬場さんと鶴田選手のところだけが1人ずつだったんです。まあ、トップレスラーだからね。

(玉袋筋太郎)はいはいはい。

(天龍源一郎)したら、パッと入っていったら鶴田選手が『天龍選手、俺の隣に座りなよ』ってパッと席をあけてくれたんですよ。

(玉袋筋太郎)あらー!

(天龍源一郎)それで、『あっ、すごくいい人だな』と思っちゃったんですよ。単純でしょ?俺。

(玉袋筋太郎)いやいやいや。それがもし、(グレート)小鹿さんの横だったらどうだったんですかね?

(天龍源一郎)あ、たぶんね、もっと悪口言われてたと思いますよ。

大相撲からプロレス入り

(玉袋筋太郎)(爆笑)。いやいやいや!でもね、お相撲からプロレスに入る。でもそのプロレスに入る時も、やっぱり天龍さんは決め事っていうか。お相撲で逃げ出したと思われるっつーのが癪に障ったっていうのがあったんですよね?

(天龍源一郎)そうですね。馬場さんはね、『もう相撲から早く来いよ、早く来いよ』って言われたんですけど。僕は相撲がダメになったからプロレスに行ったと思われるのが嫌だから。『勝ち越してから行きますよ』って偉そうなことを言ったんだけど。その場所に限って、もう勝ったり負けたりのシーソーゲームで。

(玉袋筋太郎)ええ。

(天龍源一郎)なんかね。で、場所の途中に『いいから、天龍。もうどうにでもなるから、早く来いよ。決心しろよ』って馬場さんに言われたんですけど。『やっぱり勝ち越さないと格好つかないもんで・・・』っていう感じでがんばって。で、13日目で8勝5敗で勝ち越したんですよね。その時ね、本当になんかもう、心身ともに疲れきった。ホッとしましたよ。とりあえずね。

(玉袋筋太郎)ねえ。それで、でも馬場さんとの最初の印象っつーのがね、いいですよね。天龍さんね。

(天龍源一郎)いちばん最初の馬場さんに会った時に、いまのキャピタル東急で。で、馬場さんが僕の前にキャデラックで降りてきて。で、その後に僕がタクシーでバッと降りた時に馬場さんが先に降りて。僕の方を振り返って、ニコッと笑ったんですよね。その笑顔が、『ああ、この人は信頼に足りる人だな』って。そういう感じがしたんですよね。

(玉袋筋太郎)馬場さんの笑顔ですもんね。

(天龍源一郎)僕がだってね、13年間いろんな人と接してきてね。そのニコッと笑って、『ああ、この人、いい人だな』って思わせた馬場さんもすごかったよね。

(玉袋筋太郎)ああー。でも26才ですもんね。大学、普通だったら卒業して・・・ってことじゃないですか。で、お相撲さんで・・・

(天龍源一郎)えっ?それはなに、玉さん。まだ人間構成ができてないっていう?

(玉袋筋太郎)いや、そんなことないです!いやいやいや!(笑)。

(天龍源一郎)(笑)。『たった笑顔ひとつで騙されて』って言いたいんですか?いや、実際そうなんだけど(笑)。

(玉袋筋太郎)いや、だけどそれから長くね、ずーっと。その笑顔でずーっと始まっちゃったわけじゃないですか。いままで。

(天龍源一郎)40年間ですからね。プロレス。

(玉袋筋太郎)40年間ですよ。でも天龍さん、やっぱり最初、マゲをつけたまま。アメリカに行ったりとか。修業ですもんね。

アメリカ修行時代

(天龍源一郎)最初ね、僕らもまだチョンマゲつけたままアメリカに行った頃は、相撲自体がそんなに、南部の方でしたから、ポピュラーじゃなかったんです。

(小林悠)相撲自体、知らない人もいるんですか?

(天龍源一郎)いっぱいいましたよ。で、まだ、言葉は悪いですけど、僕が試合に行った時なんか『リメンバー・パールハーバー!』とかって言われて。そういう時代でしたからね。で、僕がマゲをつけて。要するにお尻を出して。まわしをつけてリングに行くと、やっぱりお客がクスクス笑っているんですよ。

(玉袋筋太郎)アメリカのね。

(天龍源一郎)で、僕はまだ相撲の意識が強かったから。笑っているお客に『なに言ってるんだ、この野郎!』っていう感じだったんですけど。マゲを切って、また次の時に『もう1回、同じスモウマッチをやってくれ』って言われた時に、その時はさすがにもうチョンマゲ切った後だから、『もういいですよ』って。さすがに恥ずかしかったです。それは。

(小林悠)(笑)

(玉袋筋太郎)やっぱりね、お尻出して競技するっていうものはね。

(天龍源一郎)そう。なんか向こうは悪いことをやるとね、お尻をすぐ見せてからかうっていう。なんかそういう、卑下したやり方がありますから。お尻を出すっていうこと自体がちょっとね、恥ずかしかったですよ。

(玉袋筋太郎)いや、でもね、当時のプロレスラーはアメリカっちゅーか、海外マットに修業に行くっていうシステムがありましたもんね。

(天龍源一郎)そうですね。僕の場合にはヘーシンクとか。その前にも、ジャンボ鶴田選手とか行ってたんですよね。だから、鶴田選手はすごかったんですけど。その後に行ったヘーシンク選手。柔道の世界チャンピオンですよね。

(玉袋筋太郎)アントン・ヘーシンク。

(天龍源一郎)これはまあまあ、僕と同じように、『プロレスなんかどうってことねえよ』ってナメた感じだったんですよね。ところが、意外と上手くいかないんですよ(笑)。

(小林悠)難しいというか、違う。

(天龍源一郎)玉ちゃんが昔、言っていたように『漫才なんて簡単なもんだ』と思ってなかなか上手くいかなかった話と一緒ですよ。

(玉袋筋太郎)(笑)

(小林悠)そんな話があったんですか?

(玉袋筋太郎)いやいや(笑)。でも天龍さんね、アメリカ生活、1人じゃないですか。そん時ってやっぱ馴染むのって大変だったんですよね。やっぱ。

(天龍源一郎)やっぱりあの、全て自分でやってかなくちゃいけないっていうのとね。なんて言うんですかね?僕、いちばん最初に、いまでも覚えてますけどね。練習した後に、相撲取りはいつも裸に白衣のパンツはいてるでしょ?あのスタイルで町中もウロウロして、部屋の中で、1人でそれで生活してたんですよね。

(玉袋筋太郎)ええ、ええ。

(天龍源一郎)で、稽古終わった後、プロレスの練習が終わった後、『シャワー浴びてこよう』って言われて。シャワー浴びて、ドリーの奥さんと馬場さんの奥さんと、あと誰かもう1人いたと思うんですけど。シャワーをバーッと浴び終わった後、相撲の・・・

(玉袋筋太郎)ステテコみたいなね。

(天龍源一郎)パンツをはいて、パッと出て行ったら馬場さんが『おいおい、天龍!それは困るよ』って言われて。『えっ?どうしたんですか?』『パンツ一丁はないだろう?女性の前で』って言われて。すごく違和感があったんですよね。

(玉袋筋太郎)(笑)

(天龍源一郎)『だって俺、いつもこれですよ。日本では』って。『お前、女の人の前でパンツ一丁はないだろう?』って。そっからカルチャーショックが始まって。なんかすごく、本当に違う異文化を体感させられた感じでしたよ。

(玉袋筋太郎)まあでも、向こうでね、それで活躍している日本人レスラーの方もいたわけですもんね。先輩の、カブキさんとか。

(天龍源一郎)それはカブキさん、後ですけど。なかなか、文化に馴染めない。だって僕の師匠だったドリーっているんですけど。あの頃はNWAチャンピオンとかやった人だったんですね。それで、僕が試合終わって帰ってきたら、その僕と同じ歳の人がシャワー浴びている時に、僕の師匠だったドリー・ファンクとタッグチームだったんです。それで、僕に言わせれば横綱みたいな人に石鹸渡して、『ドリー、背中流してくれる?』って言うのを見て、ドリーが『OK』って言って背中を流しているのを見て、『ええっ、嘘!?』って。

(玉袋筋太郎)(笑)

(天龍源一郎)なんか、そんな感じでした。で、それからまた、その人もドリーの背中を流してやって・・・っていうようなことだったんですけど。僕らのいる相撲社会では、『ちょっと背中流してくれる?』なんて先輩には絶対にあり得ないですから。

(玉袋筋太郎)絶対にないですよ。

(小林悠)あ、ないんですか?

(天龍源一郎)あり得ないですよ。

(小林悠)逆になんか、お願いされたりしないんですか?『おい、流してくれよ』って。

(玉袋筋太郎)横綱は『流せ!』だよ。そりゃあ。

(天龍源一郎)だから関取は『流せ!』っていうことはあるけど。『流してくれ』って言われることは絶対にないんですよ。だから、まあそういうこととかもすごく、全てがね、リセットされて。切り替えていかなきゃいけないんで、大変でしたよ。

(玉袋筋太郎)うん!

(小林悠)全部それ、合わせていったんですか?アメリカ流に。

(天龍源一郎)そうですね。だからね、僕、よく性格で表現するんですけど、正方形みたいな性格だったのが、アメリカに行って丸い楕円形にさせられたっていうのが正直なところです。一般常識を学ばされたっていうのが、本当でしたね。

(玉袋筋太郎)ほらー。ねえ。

(天龍源一郎)いちばん最初にパッとね、エレベーターに乗ったりすると、馬場さんが『おいおい、女性が最初だよ』って。

(玉袋筋太郎)馬場さん、ジェントルマンですね!

(天龍源一郎)そんなことを教えられたりとかっていうのが。なんかそんな感じでしたよ。

(小林悠)全てを学んだんですね。

(玉袋筋太郎)アメリカっていうのはそういう学ぶべきものがあるわけですよ。メインイベンターになっていくとかね。

(天龍源一郎)勉強になりましたよ。

(玉袋筋太郎)フロリダってそんな楽しかったですか?

(天龍源一郎)フロリダは・・・まあ、姉ちゃんたちもいっぱいいましたし(笑)。

(玉袋筋太郎)これなんだよ!いやいや・・・

(天龍源一郎)あのね、フロリダってね、プロレスが盛んな土地なんですよね。で、いちばん身近に来るスターっていうのがプロレスラーなんですよ。で、テレビで見ている人たちって、要するに僕がね、アマリロに行って、いちばん最初に行った時に、たまたまその前の年に『エルビス・オン・ステージ』っていう映画がやっていて。

(玉袋筋太郎)プレスリーですね。

(天龍源一郎)エルビス・プレスリーの影響を受けて。だからアマリロの田舎にエルビスが来る!っていって。で、僕は試合を前の方に終わらせてもらって、ドリーに言ってチケットを取ってもらって。試合終わったらすぐに見に行ったんですよね。で、その時に鶴田選手が、彼はフォークミュージックが好きな方だったから。

(玉袋筋太郎)『ローリング・ドリーマー』ですよ。

(天龍源一郎)そうそう。

(小林悠)自分で演奏されるんですか?

(玉袋筋太郎)そうだよ。

(天龍源一郎)だから彼もね、自分でコンサートやったりするくらいフォークが好きだったんだよ。で、『源ちゃん、エルビスってすごいの?』とかって言うから、『いやいや、大変なんだよ』とかって言って。『とりあえずじゃあ、俺も』って言って、ジャンボ鶴田選手と一緒に見に行って。

(小林悠)ええっ?

(天龍源一郎)で、超満員の感じで。僕もその生のエルビスを見た時には感動しましたね。その半年後に、彼は亡くなったんですよね。

(玉袋筋太郎)おおっ、すごい!ねえ。エルビス・プレスリー対鶴龍コンビがですね、ここで、ハンディキャップマッチをしたわけですよ!当時。

(小林悠)(笑)

(天龍源一郎)鶴田選手が『エルビス・プレスリーって・・・』って。なんか隔世の感じがあったのを覚えてますよ。

(玉袋筋太郎)うーん。いや、だからね、俺ちょっと好きな話がね、東洋の神秘、グレート・カブキさんっていう人がね、やっぱりアメリカでメインイベンターになっていって。で、天龍さんといろいろ、天龍さんもプロレスとしてちょっと悩んでいるところがあった時に、カブキさんの一言で、天龍さんがちょっと変わったっていう。

グレート・カブキからの一言

(天龍源一郎)ああ、そうですね。あの時、車に乗っていてね。まあ、全日本プロレス。馬場さんから送られてきた割には、なにもぜんぜんコンタクトも何もなくて。ある時、車に乗っていて『カブキさん、俺、このままアメリカに居ついて。こっちでプロレスラーとしてやっていこうと思うんですよ』って言ったら・・・

(小林悠)えっ?

(天龍源一郎)カブキさんが・・・当然、仲がいいから『そうしなよ』って言ってくれるかと思ったら、『なに言ってるんだよ!』って言われて。『えっ?』『誰も天龍源一郎なんてアメリカ人は知らないよ』って言われて。『えっ?』って聞いたら『日本に行ったら、どっかに行って「天龍源一郎だ」って言ったら10人か20人に1人は「ああ、お相撲やっていた天龍だ」って知っている人がいるけど、アメリカで天龍なんて誰も知らないよ。だからあんたは日本に帰ってがんばんなよ』って言われて。その時はね、『冷たいな、カブキさん』って。何を言ってるか、理解できなかったんですね。

(小林悠)ああー。

(天龍源一郎)で、日本に帰ってきて、ちょっとがんばった時に、『ああ、相撲からプロレスに転向した天龍だ』ってみなさんが存じ上げていてくれて。で、がんばっていけばいくほどみなさんが『がんばれよ!がんばれよ!相撲から来た天龍、がんばれってくれよ!』ってプッシュしてくれるのを見て、『ああ、このことを言ってくれていたんだな』っていうのは、ちょっと気がつくのは遅かったんですけど。

(玉袋筋太郎)いやいや。プロフェッショナルですよね。本当に。

(小林悠)でも本当に天龍さんのことを考えてくれたから、そう言ってくれたんですよね。

(天龍源一郎)いつも馬場さんの悪口と俺の愚痴ばっかり聞いてくれるんだよ。

(玉袋・小林)(笑)

(玉袋筋太郎)馬場さんの悪口。これがネタになっているから面白いよ(笑)。

(天龍源一郎)飲みに行くとね、夜中の2時ぐらいに馬場さんのいるところに電話して。で、カブキさんが馬場さんの得意な民謡っていうのがあるんですよ。で、それは日プロ。昔の日本プロレスにいたから知っていることだって。カブキさん、電話を持って『♪♪♪♪』って歌って、電話をガチャッと切るんですよ。

(玉袋筋太郎)(笑)

(天龍源一郎)で、馬場さんそれで次ね、はばっくれてムーッとして。

(玉袋筋太郎)(笑)

(天龍源一郎)怒りはしなかったんですけど、この野郎!ってたぶん思っていたと思いますよ。そんなことばっかりやって、ウサを晴らしていたっていうのが正直なところですよ。

(玉袋筋太郎)まあ、しかしその後、天龍革命などありですよ、すごいことになっていって。で、馬場さんをフォールした。これ!馬場、猪木をフォールしてる。これですよ!

(小林悠)馬場さんとの対戦っていうのは、何回あったんですか?

馬場・猪木からフォール勝ち

(天龍源一郎)何回かありましたけど。まあ、いちばん、ある時、前田日明っていう人がね、いままでと違う型のプロレスっていうのを標榜して。UWFっていうのを。で、一大ブームになってね。もうチケット販売したら、即完売。本当、数分間で完売するというような状況だったのと同じ日に僕らが札幌でやった時に、僕とスタン・ハンセンでもって馬場さんとラッシャー木村選手と組んでやった時に、たぶん馬場さんの経営者的な考えで、何か作戦が、頭の中の勘ピューターが動いたんだと思いますよ。

(小林悠)おおっ、勘ピューター。なるほど。

(玉袋筋太郎)そうだよ!それで、要するにUWFがやってるけど、その時に馬場さんがピンフォール負けなんだよ。

(天龍源一郎)僕がだから、勝った初めての日本人ということで紙面を割いて記事が載っかったんですよ。『天龍、馬場をフォール』っていう。だから馬場さんがあの時に、まあたしかにね、あんまり重たくて、真っ逆さまに頭からガーン!って落ちたんですよね。グッと支えきれなくて、ドーン!と落としたら、グチャッて頭から・・・

(玉袋筋太郎)(笑)

(天龍源一郎)で、その後に抑えたんですけど。でももうあの時は、馬場さんに勝ったっていうんで。その時はただうれしいだけでね、朝までバカみたいに酒飲んだんですけど。後になって振り返ると、果たして返せなかったのかな?って思う気持ちがやっぱりありますよ。

(玉袋筋太郎)うーん。まあその馬場さんとも肌を合わせているし、猪木さんともね。

(天龍源一郎)そうですね。猪木さんともやりましたね。

(玉袋筋太郎)どうなんですか?馬場プロレス、猪木プロレス。

(天龍源一郎)馬場さんはね、やっぱりプロレスっていうのはどんなことがあっても、バーン!と。トップレスラーでもバーン!って受け身をとってっていうところからプロレスはスタートする。猪木さんはね、隙があってチャンスがあったら、もう抑えて勝っちゃえばいいっていう教えなんですよね。そこには、観客不在ってこともあるんですけど。

(玉袋筋太郎)ええ。

(天龍源一郎)その通りでね、僕も猪木さんの身体を見た時に、もう晩年って言ったら言葉はおかしいですけど。下り始めた時で。猪木さんの身体を見て、あれして。でね、試合やる途中でスリーパーホールドって、首を絞めるやつがあるんですよ。それやった時に・・・その前に猪木さんの身体を見た時に『細え腕してんな』って。本当に思ったんですよ。で、その時にスリーパーが来て。『こんな細い腕で』って思って黙って食ったら、グッと絞められた時に、僕が気がついた時に長州選手が『天龍!』って張り手かましたので目が覚めたんですよ。

(玉袋筋太郎)落ちちゃった?

(天龍源一郎)本当に落ちちゃったんですね。

(玉袋筋太郎)魔性のスリーパーっすよ!

(天龍源一郎)で、僕ね、いまでも聞きたいんだけどね。長州選手に。猪木さんが挑戦して。全日本プロレスの天龍源一郎とやっているんですよ?猪木さん、黙ってそのまま・・・『天龍!』って起こさなきゃ猪木さんの勝ちで終わったのに、なんで『天龍!』って起こしたのか?これもよくわかんないんですよ。

(玉袋筋太郎)かあーっ!

(天龍源一郎)ほっとけば猪木さんの勝ちで終わったのに。で、その後、まあ僕もこっちの指かな?脱臼してるんですけど。猪木さん、ガッとロープつかんだ時に、グッと折り曲げられて。

(小林悠)指をですか?

(天龍源一郎)ガッと脱臼させられたんですよ。したんじゃなくて、させられたんです。グッと押されて。しかも、ロープをつかんでいるから、離させようとしてグッと折り曲げらた。っていうのが、僕は曲がった指を見て、『あっ!』ってグッと戻しちゃったんです。やっぱりびっくりしてるんですよ。『あっ!』と思ってグッと戻したら、戻ったんですけど。まあそんなことがある試合でしたよ。猪木さんは。

(玉袋筋太郎)大会場でも、そういう細かいことをやってくるわけですからね。

(小林悠)猪木さんってすごいですね。

(天龍源一郎)いや、でもやっぱりなんかすさまじい人ですよ。だっていままで、全日本を支えているのは天龍源一郎とか。新日本プロレスはぜんぜん、昔から誹謗・・・『なんだよ、あんなノロいプロレス』とかって言っていた。

(玉袋筋太郎)犬猿の仲ですから。

(天龍源一郎)普通は『一騎打ちなんて俺はやらないよ』って言えば済むことなのに、やっぱり東京ドームでメインに迎えてくれたっていう。なんか、すごい人ですよ。あの人は。

(玉袋筋太郎)うーん!天龍さんが待っているリングで。先にリングインしてね。それで猪木さんが入ってくるのを待ち受ける気持ちっていうのは?

(天龍源一郎)あの時はね、自分で自分に酔いましたね。『かっこいい、天龍!』って思いましたよ。

(玉袋筋太郎)(笑)。最高だよね!

(天龍源一郎)だってガウン着て、ビシッとね、猪木さんが歩いて来るわけですよね。それを待っている・・・なんかね、本当にすごい高揚感って、いまでも思い出しますよね。

(小林悠)そういう試合を自分で見返したりするんですか?後々。

(天龍源一郎)いや、見ることはしないです。もう僕は見返しちゃうと、粗が目立ったりするのが嫌だから、あまり見ないんですけども。気持ちの中で、こういいところばかりで終わるっていうのが好きなんですよ。

(玉袋筋太郎)で、終わったら美味い酒を飲むと。これが!これがもう!

(小林悠)大酒豪なんですって。すごいんですってね。

天龍源一郎 酒豪伝説

(玉袋筋太郎)これ、あれなんですよね。ちょっと伝説ですけど。元横綱の北尾さんがね、プロレスに来た時に、飲み会があって。天龍さんたちと。もう、いくら飲んでも酔わねえからって、潰したんですよね?

(天龍源一郎)いや、あの人が『横綱だから。お酒飲んでも酔ったことがないよ』って言うもんだから、みんながガンガン飲ましてワーッとやったら、これがね、自分で救急車を呼んだんですよ。で、救急車を呼んで。で、あまりにも大きいから。

(玉袋筋太郎)2メートルだから(笑)。

(天龍源一郎)で、救急隊の人がバーッと入れて。そしたら、ドアを閉めようとしたら、足がこれぐらい出るんですよね。

(小林悠)30センチぐらい、足が(笑)。救急隊に入らない。

(天龍源一郎)足が担架から収まりきらなくて。ほんで、救急隊のドアが閉まらないから、救急隊の人が『ダメだな、これ。ドア閉まらないよ』って言ったら、酔っ払って『死ぬ!』って言っていた北尾が『はい!』って足を曲げたんですよ。

(玉袋・小林)(笑)

(天龍源一郎)『お前、シラフじゃねーか、この野郎!』って突っ込んだのを覚えてますよ。『シラフじゃん、お前!』って。

(玉袋筋太郎)でも倒れたのは実はアイスペールにヘアトニック入れて飲ませたっていう話があるんですけど。

(天龍源一郎)いやいや・・・まあ、いろんなものを入れた・・・

(玉袋筋太郎)いろんなものを(笑)。

(小林悠)いま、なにか言いかけましたけど(笑)。

(天龍源一郎)あの頃はね、目薬を入れたり。

(玉袋筋太郎)昭和プロレスですねー!

(小林悠)昔の話ですから。

(天龍源一郎)時効ですよ。それで北尾選手が行った。したら、『どうしたの?』って言ったら、『いや、天龍が・・・』『そういえば去年、川田が運ばれてきたよ。また来たのか、お前ら!』とかって言われて。同じ病院だったんですよ。

(玉袋筋太郎)(笑)。いい時代ですね!いやいや、もうね、やっぱり3時間特番だったな。

(小林悠)いや、そうなんです。まだ私はお聞きしたいことがありますけども。まず、引退のお話ですよね。

オカダカズチカとの引退試合

(玉袋筋太郎)そうなんですよね。天龍さん。前回ね、天龍さんと対談させてもらった時に、いい感じの対談だったんすけど。最後、僕らが『引退試合、オカダカズチカさんと。どうですかね?』って言ったら、その時、天龍さん真顔担って。『しゃらくせえ!』って。すごい怒られていた。

(天龍源一郎)『しゃらくせえ!』。いいねえ。

(玉袋筋太郎)いまだに『しゃらくせえ!』ですか?オカダは。

(天龍源一郎)俺はそう思ってますよ。

(小林悠)おおっ!これ、記事になるぞ!

(玉袋筋太郎)昭和と平成。これが戦って、最後はね、天龍さんの引退試合ですもんね!

(天龍源一郎)いや、でもね、玉ちゃんも知っていたと思うけど。いろんな人たちの芸事を真似ながら、自分たちが切磋琢磨しながら伸びていくっていうのがあるじゃないですか。先輩がいるから伸びることであって。それを否定するような言い方をしたから頭に来たんです。この野郎!と思って。本当にね、その話を聞いた時にね、電話で『いますぐこっちに来い!』って言ったんですよね。まあ、来なくてよかったんですけど。

(玉袋筋太郎)(笑)。それはやっぱね。どうですか。でも天龍さん、両国で引退するっていう、またこう・・・

(天龍源一郎)これはね、僕は『引退試合はどこでもいい』ってうちの代表とも話をしたんですけど。『ケジメがつけられればいいから。もうどんなちっちゃな会場でも気にしないから』って言った時に、うちの代表が『まあ、天龍源一郎だし。お相撲をやっていたから、国技館をあたってみましょうよ』ってあたった時に、『そんなの、空いてるわけないだろう?』ってポーンと言われたんですよね。

(玉袋筋太郎)うん。

(天龍源一郎)で、その話をお相撲仲間の人たちが聞いてくれて。手をつくしてくれたのかわからないけど、ある時、『11月15日が空いてますよ』って。それも、日曜日のいい日に。って言われて、『えっ、マジですか!?』ってうちの代表が飛び上がって喜んだのをいまでも覚えてますよ。

(玉袋筋太郎)ああー、代表。娘さんですよ(笑)。いやー。

(小林悠)あの輪島さんがメロンを持ってきてくれたことから、『メロンおじさん』と呼んでいるという(笑)。

(玉袋筋太郎)その話とかさ。ブロディ・ハンセンの話も聞きてえしさ。阿修羅さんの話も聞きてえんだ。俺は、もう。

(小林悠)引退されたら、その後の予定っていうのはいろいろ決まってらっしゃるんですか?

(天龍源一郎)なにも決まってないですよ。とりあえずはいままで、ほったらかしにした奥さんを大事に、ちょっとサポートしてあげたいなとは、本当に思っています。

(小林悠)奥さまのためっていうのも、大きいんですもんね。

(天龍源一郎)そうですね。ちょっとね、辞めるちょっと前にバタバタッと大きな病気をね。で、『その要因はなんですか?』って聞いたら・・・俺しかいないじゃないって(笑)。本当に、もうそれが正直なところですよ。僕が本当にもう、試合をやるため。プロレスのためにちょっとでも・・・極端な話、セキの仕方ひとつ悪いと、ムッとヘソを曲げるような。態度に出ちゃうんですよね。それで、それを悟らせないように気遣った分もありますからね。まあ、僕もたぶん大きな要因だと思いますよ。俺がね。

(玉袋筋太郎)ねえ。

(小林悠)でも奥さまのそばにということもね、おっしゃってましたけども。ぜひ、11月以降、たまむすびはいつでも私たちは。ぜひ。

(玉袋筋太郎)ぜひとも、地方会場。地方・地方に女がいた話とかですね。そういった話をですね、してほしいなと。いつものお酒を飲みながらの話のように(笑)。

(小林悠)(笑)

(天龍源一郎)ありがとうございます。

(小林悠)待っております。改めて、11月15日の日曜日。東京の両国国技館で『天龍源一郎引退 革命終焉 Revolution FINAL』。オカダカズチカ選手とともに繰り広げられます。どうなるんでしょうか?詳しい情報は天龍源一郎さんの引退スペシャルサイト、ぜひご覧になってください。最後に玉さん、一言。天龍選手に聞きたいことがぜひあれば。

(玉袋筋太郎)一言。やっぱ、プロレスとは?ですね。

(天龍源一郎)プロレスとは?ですか。僕ね、こんなに相撲以上長くハマると思ってなかったし。こんなに一生懸命やれると思わなかったんですけど。これはまあ、力道山関が作った最高のエンターテイメントだと思っております。

(玉袋筋太郎)おおーっ!そうだ。そこでもまた、相撲だ。うん!

(天龍源一郎)アメリカから入ってきたんですけど、これを日本風にうまくアレンジして残ってきたのがプロレスだと思ってますね。最高のエンターテイメントだと思っています。

(玉袋筋太郎)やったー!ファンで良かったよ!

(小林悠)ちょっといま、目頭が熱くなっております。天龍源一郎選手、これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。

(玉袋筋太郎)ありがとうございました。やったー!

(天龍源一郎)ありがとうございました。

<書き起こしおわり>

吉田豪 天龍源一郎を語る
吉田豪さんがTBSラジオ『小島慶子キラ☆キラ』で2011年12月にしたトークの書き起こし。ピエール瀧さん、小島慶子さんの代打、水野真裕美さんにプロレスラー天龍源一郎について話しています。 明日発売の週刊プロレスの表紙は先日今年の11月で引退...
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