みなもと太郎 さいとう・たかをの偉大な功績を語る

みなもと太郎 さいとう・たかをの偉大な功績を語る 宇多丸のウィークエンド・シャッフル

『風雲児たち』などでお馴染みの漫画家みなもと太郎先生がTBSラジオ『タマフル』に出演。漫画家さいとう・たかを先生が日本の漫画界に起こした革命と、あまり知られていないその偉大な功績について話していました。

(宇多丸)ここからが、本日の本編でございます。漫画家さいとう・たかをさんがいかに日本の漫画界に革命を起こしたのか? 革命ですよ、みなさん。解説していただきます。レジェンドが、伝説的存在が伝説的存在を語る特集となっております。それでは、さいとう・たかをさん。プロフィールを簡単にですがご紹介させてください。「さいとう・たかを」、名前をご存知ない方はいないと思いますけども。

(みなもと太郎)いちばん有名なぐらいじゃないですか? コンビニでいちばん売れているのがさいとう・たかをですからね(笑)。

(宇多丸)『ゴルゴ13』だけじゃなくて、『鬼平(犯科帳)』とかもそうですしね。しかもずーっとずーっと人気あるままですもんね。それもすごい。

(みなもと太郎)ビック(コミック)に40……50年にあと3年すればなるのか。

(宇多丸)この現役そのまま感っていうのも比類なき感がありますが。そんなさいとう・たかをさん。1936年生まれ、現在79才。これが79才が上なのか、下なのかももうピンと来ないっていう。

(みなもと太郎)もう80と言っていいお歳なんだけど、それで連載をきちんと書き続けている漫画家はいないんじゃないかしら? 申し訳ないけど、藤子不二雄A先生とか、名前はあれだけど……

(宇多丸)この間、ちばてつや先生にもインタビューなんかしましたけど。この分量では、まだね。

(みなもと太郎)うん。ないですね。

(宇多丸)たまに書かれたりはするようですが。

(みなもと太郎)要するに、看板としてずっと書き続けているという意味では、さいとう先生1人かもしれませんね。

(宇多丸)すさまじいものがある。いまから61年前、1955年に『空気男爵』で単行本デビュー。これは貸本出版社の日の丸文庫から出版されたストーリー漫画という。こちら、用意していただいております。今日はですね……

(みなもと太郎)持ってきたんですよ。全然見せられないのに(笑)。

(宇多丸)いやいや、でも今どきはですね、先生。写真に撮ってリアルタイムでTwitterだのなんだのというのに上げて。みんな聞きながらネットなんかも見れますんで。ぜひ、ちょっと参考資料もみなさんね、見ていただきたいんですが。そして今から56年前の1960年にさいとう・プロダクションを設立。コミック界に初めて脚本部門を置き、分業体制を敷いて数々の長期連載を実現。劇画という分野を確立し、1960年代から劇画の第一人者として活躍。代表作は40年以上もの長期連載となる、言わずと知れた『ゴルゴ13』。1993年から始まった池波正太郎の歴史小説を原作とした『鬼平犯科帳』などがある。あっ、『鬼平』は93年。比較的新しい方なんですね。

(みなもと太郎)そうですね。『コミック乱』が創刊されてからのことですもんね。

(宇多丸)ああ、そうかそうか。この番組の番組アドバイザー妹尾匡夫という男が、ついこの間まで病床に臥せっていたのですが。その時に、「とにかく『鬼平』を買ってこい、『鬼平』を買ってこい」というね。漫画の方ですよ。それぐらいの、病人が復活するきっかけにもなったというね(笑)。余計なのは置いていてですね。ということで、本日のみなもと先生の主張を一言で先に要約されていただきます。こういうことですね。「さいとう・たかをは、みんなが思っているよりもっとすごい人なのだ!」。

(みなもと太郎)その通りです(笑)。もうそれで、「では、さようなら!」というような(笑)。

(宇多丸)もちろんね、いま話してきた『ゴルゴ13』であるとか……

(みなもと太郎)そう。だから『ゴルゴ13』、『ゴルゴ13』と、そればっかりになってしまって。このままだったら「『ゴルゴ13』を長年書き続けたおっさんね」で終わっちゃうのが、それはとんでもない話だぞ!というのがこちらの思いでね。こっちは、それ以前の貸本時代からずっと知っていたわけで。だから『ゴルゴ』っていうのは……全部そうなんだけれども。わかりやすく、実は書いているんです。

(宇多丸)ああ、大衆向けにというか。

(みなもと太郎)そうです、そうです。だから、政治家でも食いつけるという。そういうレベルの作品なんです。

(宇多丸)「『ゴルゴ』で勉強した」なんていう方もいらっしゃいましたけどもね。つまり、要はさいとう・たかをの本気っていうのはあるんだぞと。

大衆向けにわかりやすい漫画を書く

(みなもと太郎)あるんだけれども、それはウケないと本人が諦めちゃっていますね。お気の毒に。今度『娼婦ナオミ夜話』というのが出たのかな? 小学館から。そういう、さいとう先生自身が飛田の近くにお住まいで。当時の遊郭の女の子たちのかわいそうな姿とかを見ていて。それをちゃんと劇画にしているんですね。

(宇多丸)それは何年ぐらいの作品なんですか?

(みなもと太郎)ええとね、あれは何に連載されていたのか……『週刊ポスト』かな?

(宇多丸)貸本ではなくて、連載をされていた?

(みなもと太郎)そうです。週刊誌とか、そういういままで漫画が載っていなかった雑誌に載った最初の作品っていうのは、さいとう・たかを作品なんです。『週刊ポスト』で最初に始まった『影狩り』。これがいわゆる漫画雑誌ではない普通の大人向けの週刊誌に長編漫画……劇画ですね。「劇画」という言葉もさいとうさんたちが。

(宇多丸)作った言葉なんですね。

(みなもと太郎)辰巳ヨシヒロ、松本正彦。この3人で劇画工房を発足するんですけども。これはもう、あっという間に空中分解します。あまりにも意見が合わなすぎて。とにかく、合作で出せばいいじゃないかという発想そのものがなかったわけですね。なかったんではないんですよ。手塚治虫さんが、アシスタントを使われていました。っていうか、当時は「アシスタント」という言葉もなかった。あまりにも原稿が上がるのが遅いから、たまりかねて編集の人がベタなんかを入れて。それを「ベタマン」と呼んだ。ベタマンという名前をつけたのは、これも放送業界でいちばん古い、もう亡くなられた方です。飯沢匡という方がいらっしゃいます。その人がそういう話を聞いて、「手伝わせているんだ。面白いな!」ということで、『ベタマン』という短編小説を書いたらしいんですよ。

(宇多丸)へー!

(みなもと太郎)これは現実に私も読んでいないんでわからないんだけれど。ただ、それが当時においては、手塚治虫がデビューしてきた時も、これはそれ以前の東京の人たちの、それも大人漫画を書いていた人たちからは「とんでもない野郎が来やがった」という時代ですね。昭和20年代。

(宇多丸)「とんでもねえ」というのは、どの部分でとんでもないんですか? 俗悪?

(みなもと太郎)俗悪。要するに、高尚なものではない。子供の漫画そのものが、だいたい子供に漫画を読ませること自体が悪だ、ぐらいの観念があったのが戦後の時代ですから。赤本漫画というのは、書店にも置かれない、それこそ駄菓子屋さんで売るか、夜店で売られていたような時代だという。そういう赤本時代というのがあるんですが。それで、『新宝島』が出たり、『来るべき世界』とか、今でこそ……

(宇多丸)今でこそ、名作中の名作と言われるようなものが。

(みなもと太郎)でも、それが出た時代には、PTAや先生たちが怒って取り上げて。戦後に置いて焚書。校庭に積んで焼いたというようなものは、戦後民主主義の時代になって、なおかつそれが行われたのは漫画だけですし、それは手塚治虫がいちばん矢面に立ったわけですね。それぐらい、漫画というのは俗悪なものであると。子供に読ませてはいけない。ましてや、大人漫画だったら2ページで終わるわけです。

(宇多丸)もっとこう、ストーリーじゃないわけですね。風刺というか。

(みなもと太郎)まあ、「風刺だ」と言うんだけど。戦後民主主義の時代になってからの風刺漫画なんて、俺はそんなに認めているものはないんだけれども。それでも、2ページ漫画でも『おトラさん(?)』とか『オヤカマ氏(?)』であるとか『ベビーギャング』であるとか、どんどん映画化されているんですよ。

(宇多丸)ああー、そこからベースに。

(みなもと太郎)はい。だから『サザエさん』だって、新聞4コマが江利チエミでまず映画化されて。それでまあ、現代も続いているというようなものになるわけですけども。要するに、漫画は4コマか、長くて2ページあればいいわけですね。

(宇多丸)というのが、常識だった。

(みなもと太郎)ところが、子供漫画は長いでしょ?

(宇多丸)そうですね。まだお話があるから。

(みなもと太郎)そうすると、それを一生懸命読みふけっているから、勉強しないんだというこの理屈が出てきちゃうわけで。だから子供から漫画を取り上げろ! と、こういう話になるわけですよ。

(宇多丸)で、手塚治虫もそういう流れで……

(みなもと太郎)そうです。まして、手塚治虫が初めてキスシーンを書いたり。悪のマダムの太ももが色っぽいっていうだけで、発禁同然になったこともある。それはもう本当に最近まで、復刻されなかった作品。『複眼魔神』なんていうのがあるんですが。話がどこに行っちゃったかな?

(宇多丸)はいはい(笑)。まあ、手塚もそういう立場で。とは言え、売れっ子の中で、いまで言うアシスタントを使ってベタマンというのがあって。

(みなもと太郎)あ、そう、アシスタント。ベタマンを書いた。で、それを快く思っていない業界の先輩漫画家たちは「おい、手塚は人に手伝わせているぜ」と。

(宇多丸)これは要は書き手として、人に手伝わせてるっていうのは不純であると。

(みなもと太郎)「こんなものはもう、漫画家じゃねえ。守銭奴のやることだ」と。

(宇多丸)ああ、「量産したいから。いっぱい書きたいから、儲けたいからだろ?」って。まあ、そりゃそうなんだけど。ふんふん。

(みなもと太郎)が、ために手塚は人に手伝わせているということで、『ジャングル大帝』であれ、『0マン』であれ、『鉄腕アトム』であれ、漫画賞を逃しているわけですね。

(宇多丸)ああ、当時はリアルタイムで評価されていない。

(みなもと太郎)はい。だから、それから後において、手塚先生が大物になった時に、「ぜひ審査員になってください」って言われた時に手塚先生は、「いや、私はもらう側に回りたい」と言って、やっと『ブラック・ジャック』だの、『三つ目がとおる』だのでたくさんもらうことができたわけで。それぐらい、邪道だったわけですね。人に手伝わせるというのは。人にちょっと手伝わせただけで、それだけのえげつない反応があった時代に、最初から、絵を書くやつと……みんなで量産すればいっぱい書けるし。

(宇多丸)クオリティーも上がるじゃないかと。

(みなもと太郎)そう。絵もストーリーも全部考えなきゃならないとなったら、本当に天才しか残らないと。絵の腕がこんなにあるのにもったいない。ストーリーを作る腕がこんなにあるのにもったいない。それはみんな、まとまればいいじゃないかというのは、仲間に理解されると思いますか?

(宇多丸)まあ、だから今となっては、でしょう?

(みなもと太郎)今となっては常識です。

(宇多丸)今となっては、原作がついてるだの何だの、普通のことですけど。

(みなもと太郎)でも、当時において、いよいよ我々は手塚治虫の『新宝島』を見た時に、「あっ、これは大変だ!」ということで、トキワ荘の人たちは一生懸命それを真似て漫画家になろうとした。大阪の人たちは、これでストーリー漫画を作ろうとした。要するに、芸術的野心に燃えている仲間たちに向かって、「みんなで分け分けして話を作ろうぜ」と言って、誰も賛同してくれるわけがない。

(宇多丸)うーん。やっぱり商売っ気みたいなものが卑しいとされる?

(みなもと太郎)ですね。だけども、「一生の仕事にする以上は職業だ」という発想そのものが、仲間にはなかったとさいとう先生はおっしゃるわけですが。

(宇多丸)要は、本気でやるんだったら商売のことも考える方が本気でしょ?っていうのがさいとう先生の立場だったんですね。

(みなもと太郎)で、この業界はおそらく将来において大ブレイクするであろうという。そうじゃないと、それだけのスタッフを抱えるという発想もわきませんからね。四畳半でコツコツ、自分が食えるか食えないかで書き続けるのが、それまでの作家であり、漫画家もみなそうだったわけだから。それを、ひとつの企業体としてスタートさせようという発想自体が、それはもう手塚先生以上に邪道扱いされるのは当たり前なわけですよね。

(宇多丸)さいとう・プロダクションですからね。

(みなもと太郎)そうそうそう。

(宇多丸)いまだに、それこそまことしやかに。たぶんその伝説が行きすぎて、「さいとう・たかをは目しか書いていない」っていう。

(みなもと太郎)「目玉しか書いていない」っていう。それは、この間のNHKの『漫勉』なんかで、そんなことはないというのが。それは、今にしてみれば、かえって本当の売れっ子の作家の方が、たくさん使っているんじゃないですか? スタッフを。

(宇多丸)ああー、はいはいはい。

(みなもと太郎)今はさいとう・プロの方が、かえっておとなしいかもしれない。ただ、脚本”部門”とかね。そういう部門分けをキチッとしたっていうのは、さいとう先生が最初ですよ。

(宇多丸)どのあたりから、そのさいとうイズムが普通になってきたんですかね。これ。

(みなもと太郎)本人が貸本で儲けて、さいとう・プロのビルを自前で建てられて。その頃に、貸本文化……貸本文化の話が、これがまた伝わりにくいんだわね!

貸本文化

(宇多丸)ぜひちょっとね。もちろん、貸本漫画というものがあって。そういうところからみんなが出てきて……みたいなのは、我々、知識としてはなんとなくわかるんですが。今日、僕はじめて貸本の現物を見ましたよ。

(みなもと太郎)やっとこさ持ってきたんだけど。

(宇多丸)僕は昭和44年生まれですが。

(みなもと太郎)ご存知ないんだよね。こういうものが、この時代になるともう1冊1泊25円です。

(宇多丸)1泊なんですね。基本がね。

(みなもと太郎)はい。そうです。で、超過料金っていうのが、もう1泊してしまうと15円ぐらい追加されるというようなことで。それを1日かけて読んで、明くる日に返すわけです。

(宇多丸)こういう貸本漫画。これは要するに犯罪的な話だったりとか……

(みなもと太郎)そんなことになっていくのは、劇画の人たちがそういう具合にしていったので。それ以前は、まあ少年剣士の……

(宇多丸)明朗快活な主人公が。

(みなもと太郎)そうですね。ヒヒ退治みたいなお話が多かったかな。あとは、生活漫画みたいなもの。少女漫画は最初から生活漫画ですけども。

(宇多丸)その頃、雑誌の漫画っていうのはどのぐらいの?

(みなもと太郎)ええとね、『赤胴鈴之助』『イガグリくん』『まぼろし探偵』『月光仮面』あたりを言えば、だいたい分かるかな?

(宇多丸)ああ、まあ僕らがいま考える漫画よりは、やっぱり前のものですね。

(みなもと太郎)前です。まだ『伊賀の影丸』も出てこないです。そういう時代だから、月刊誌がいくら5誌か6誌出ていても、子供だったら本当に3、4日で全部読めちゃうんですよ。そうすると、あと何か読みたいっていう時に貸本屋さんに行けば、貸本にしか卸していない漫画という別のルートがあったわけですね。

(宇多丸)しかも内容もこういう、ちょっと大人っぽいというか。

(みなもと太郎)だから大人っぽくなるのは、もうちょい後になるんです。

(宇多丸)そうかそうか。貸本というまず、場があってからの。

(みなもと太郎)まず場があって。そこで、このさいとうさんや何かが大人っぽいものにしようとしていたわけですよね。だから、さいとう・たかをさんは『新宝島』を初めて見た時に、「ああ、紙で映画が作れるんだ」と思って、それを実践していったと。

(宇多丸)いわゆる子供向け「まんが」的な感じではなくて。本当にストーリーがあって。いまで言う漫画ですよね。

(みなもと太郎)そうです。それで、石ノ森章太郎である、水野英子である、赤塚不二夫である、藤子不二雄であるという人たちも……

(宇多丸)いわゆるトキワ荘的な人たち。

(みなもと太郎)人たちも、『新宝島』を見て。要するに、あの当時の少年たちはみんな『新宝島』にショックを受けたわけですが。で、手塚治虫のような作品を書きたいということで。ただ、いま『新宝島』を我々が見て、それほどの衝撃を受けようというのは無理な話で。だけども、今、『新宝島』が世間にどういう評価をされているか、一言で言えますでしょ? 手塚治虫は何をしたのか?って。

(宇多丸)ええと、映画的な表現を漫画に持ち込んだ。

(みなもと太郎)はい、その言葉です。だとすれば、手塚治虫のいちばんやりたかったことを実現させえたのはさいとう・たかをじゃないのか? と。

(宇多丸)ああっ、つまり……

(みなもと太郎)で、そこで「ああ、つまり……」と言わないでほしい。「えっ、そんなはずはない」でしょう? 手塚治虫がやろうとしたことは、さいとう・たかを劇画に発展させたかったのか?

(宇多丸)ああ、もちろん手塚治虫は、こういう漫画像を理想としては、ビジョンとしては描いていないですよね。

(みなもと太郎)だけども、今の世間の評価は「手塚治虫は映画的表現を開発した」と言う。もし、それを言うのであれば、さいとう・たかをがそのトップバッターじゃないのか? でも、それは変だと思うでしょ? あなたも私も。俺も、そう思う。

(宇多丸)その「手塚の血統だ」と言われると、大変違和感がある。

(みなもと太郎)違和感があるでしょう? だから、手塚治虫を見て、『ドラえもん』もできた。『星のたてごと』もできた。『忍者武芸帳』もできた。『ねじ式』だってやっぱり手塚治虫を……

(宇多丸)ああ、そうですか。つげ義春でさえ。

(みなもと太郎)つげ義春でさえ、手塚漫画に衝撃を受けて漫画家になっていって。そういう百花繚乱な中。だから、まずその手塚治虫の『新宝島』の評価というものを、まだ世間は捉えていない。手塚治虫もまた理解されていないと俺は言いたい!

(宇多丸)なるほど。つまり、「映画的表現を持ち込んだ」っていうこの割り切り方がちょっとおかしいですかね。

(みなもと太郎)そう。おかしいでしょう。今、これを言うと。「映画的表現」って言うなら、じゃあ『ゴルゴ13』が手塚治虫の正当の跡継ぎになるんじゃないか?って。でも、それは俺自身でも変だと思う(笑)。

(宇多丸)はいはい。たぶんトキワ荘中心史観みたいなものを、特に僕みたいな門外漢とか、後から来た世代は、そこの歴史だけはよく知っていて。

(みなもと太郎)だから歴史というのは、そういうもんなんですよ。

(宇多丸)まさに『風雲児たち』!(笑)。

トキワ荘中心史観以外の日本漫画の歴史

(みなもと太郎)だからね、これは教育界の間違いなんだけど、『風雲児たち』を書いていても、「どれが正しいんですか?」みたいなことを質問がしょっちゅう来る。「どれが正しい」って、見方を変えりゃ、どんな見方だってあるんだと。それは全部並行して正しいし、自分の中から答えを見つけていくしかないにもかかわらず、学校教育は「マルかペケか、合っているか間違っているか」でしかやっていないから。この『風雲児たち』を読んだって、歴史を読んだって、「どれが正しいんですか?」って。

(宇多丸)という質問が。「何を読んどるんだ!?」と(笑)。

(みなもと太郎)その質問自体がおかしいんで。現在世の中で起きているニュースが、朝日、毎日、読売、全部違うことを言っていて。それを毎日わかっているくせに、いざこういう作品を書くと、「どれが本当なんでしょうか?」って。なにを聞いとるんだと(笑)。

(宇多丸)「歴史というひと続きのお話がある」というのがもう、フィクションですもんね。誰かが並べたものですもんね。というのが、ついついでも、ついついトキワ荘史観見たいなので分かった気になっちゃう。

(みなもと太郎)そうです。で、また話が飛んじゃったぞ。さて……

(宇多丸)さて、手塚も理解はされていないが……

(みなもと太郎)いないが、それはともかく置いておいて……

(宇多丸)これ、すごい『風雲児たち』っぽい! この語り口(笑)。置いておいて。

(みなもと太郎)置いておいて、この『劇画1964』というのをさいとう先生が今回、画業60周年記念で当時、いちばん最初に、これからの漫画は2ページ漫画じゃダメだ! 4ページ漫画じゃダメだ! 映画1本ぐらいの長さの――つまり150ページとか200ページとか。そういう漫画がまだないんですよ。世の中にそんなものは――そういう作品が求められる時代が来るから、それを書かせろ。ページを割け! と出版社にねじ込んだのがさいとう・たかをなわけですね。

(宇多丸)ここが大事ですよね。

(みなもと太郎)これがいちばん大事です。

(宇多丸)要は、実際は20何ページだったかな? 最初は。24ページとかかな?

(みなもと太郎)これがね、この『劇画1964』という本には実は載っていない、本当のデビュー作というのを今日……「デビュー作」っていうのは週刊誌のですよ。これが、『どぶの流れ』というんですが。これが、やっぱり漫画研究家の方から提供してもらって。私がこの時に、さいとう先生にインタビューした時には、まだ発見されてなかったんです。さいとう先生自身が覚えてないんです。もう、無理です。

(宇多丸)その豪快さがね、そのチマチマしたことを覚えていないところが。

(みなもと太郎)覚えていない(笑)。

(宇多丸)これ、でも64年10月6日号と書いてあります。別冊週刊漫画……

(みなもと太郎)それが、最初のものなんです。

(宇多丸)「異色大長編」って。これは何ページものなんですか?

(みなもと太郎)「異色大長編」ですよ。長編だけじゃない。「大」がついて。

(宇多丸)『劇画ダークサスペンス どぶの流れ』。

(みなもと太郎)(ページ数を数える)21ページ! あっ、大長編だ。

(宇多丸)これ、やっぱり当時、4ページだの……

(みなもと太郎)どんなに長くても8ページ以上は割けないという時代に、この21ページをもぎ取ったわけですね。

(宇多丸)しかも、これいまのさいとうさんの絵からすると、限りなくその頃の大人漫画的な線の……

(みなもと太郎)そう。この大人漫画的な線というものは、これはこれで別の流れがあるんです。戦前から松下井知夫であるとか、長編志向の人は昔からもちろんいるんです。で、そういう人たちが実にずーっと苦しんでいるんです。で、戦後においては横井福次郎という方がやっぱり長編漫画を1ページ連載でもいいから長編漫画を続けたんです。

(宇多丸)ああ、少しずつ、少しずつ。

(みなもと太郎)そういう時代があるんです。だから、手塚先生も大長編を赤本では1冊の単行本として出せるけども……

(宇多丸)「赤本』というのは? 改めて、すいません。

(みなもと太郎)ああ、すいません。これがね、まだ貸本ができる前ですね。

(宇多丸)貸本のシステムができる前に。

(みなもと太郎)本当に子供だましとしか言いようがない。

(宇多丸)本当に駄菓子屋で売っているような。

(みなもと太郎)そう。駄菓子屋と夜店でしか売っていないような本で革命を起こしたわけで。

(宇多丸)でも、逆に言えばそういうところでしか、場がなかったと。

(みなもと太郎)場がなかった。でも、単行本1冊だから100ページぐらい書けたわけで、手塚先生は長編を書けたけれども。手塚先生がいざ、日の当たるところに出た時に、その場はないわけです。だから、4コマ漫画で『メトロポリス』を書こうとしたこともある。毎日毎日、4コマずつ連載してですよ、大長編『メトロポリス』を書こうとしたこともある。

(宇多丸)読んでいる側、訳がわからなくなりそうですけどね。

(みなもと太郎)訳がわからない。だから、『ジャングル大帝』だって2ページ連載、4ページ連載、6ページ連載。たまに別冊がつくけども、とにかく5年あまりかかって、やっとこさ大長編が出るわけで。

(宇多丸)これ、編集側がね、あくまでいまの感覚から言うとですよ、「この話だったら、これもうちょっと続きで読みたいからさ。こっちの方が読みやすいからさ」ってならなかったんですかね?

(みなもと太郎)ところが、そういう時代じゃない。「時代じゃない」っていうのは本当に恐ろしいもので。だから、戦前からもそうなんですが、『のらくろ』なんかでも雑誌に載っている『のらくろ』と単行本の『のらくろ』は中身が違うんです。つまり、同じものの原稿を2度使うという発想がないんです。

(宇多丸)ああーっ!

(みなもと太郎)で、もし単行本に載った時に、「これは前に雑誌に載ったものだぜ」ということがバレては……

(宇多丸)そうすると怒られちゃう時代なんだ。

(みなもと太郎)そうです。そういう時代が戦前からあるんです。だから、漫画ブームが1960年代からダーッと始まって、単行本が出た時に、いまみんなが残念がっているのは、各回の毎週毎週の扉絵がない。あれは一気書き下ろしのふりをしなければいけないというイメージが理由もわからずに残っていたせいなんです。

(宇多丸)やっぱりさっきの分業化じゃないですけど、いろんな……「そういうのは手抜きじゃないのか?」とか。そういう思い込みが……

(みなもと太郎)だから『巨人の星』でも『あしたのジョー』でも、毎週毎週のかっこいい扉絵は全部抜いて、1本の読める漫画。長編書き下ろしのように見えるものにしなければ許してもらえなかった時代が60年代、70年代にはあったわけです。

(宇多丸)また扉絵なんていうのは、さいとう・たかをさんの当時のなんかかっこいいんですよね。これがね。

(みなもと太郎)今回の『劇画版007』が40年ぶりに復刊されましたが、それの毎月毎月の扉絵のかっこよさ。ラジオのみなさん、ご覧ください。

(宇多丸)でもいまね、手に入りますからね。ついに手に入るように……

(みなもと太郎)入らない!

(宇多丸)あっ、これは入ってないのか!

(みなもと太郎)これが入っていないの。毎月毎月ね、こんなかっこいいのが!

(宇多丸)これはちょっと後ほど、あれだったらブツの雰囲気を。

(みなもと太郎)毎月毎月、これだけのね、かっこいいカラー扉絵を。

(宇多丸)「かっこいい」という概念の導入が……

(みなもと太郎)導入が、さいとう・たかをのいろんな功績のひとつですね。

(宇多丸)これがなかなかね、言葉だけじゃ説明しづらいところではありますが。

(みなもと太郎)このさいとうさんが持ち込んだ時っていうのはどういう時かっていうと、いよいよ貸本文化がダメになる時です。

(宇多丸)要は、みんなもう雑誌をちゃんと買うようになったと。

(みなもと太郎)買うようになった。貸本屋に行かない。貸本屋もどんどん潰れて行く。それまで全国に3万軒あったというものが、3千軒を割るようおになった。そうすると、いままでは貸本向けに卸していた本が2万部でも3万部でも刷れていたものが、2千部刷っても返本が来るという時代になって、「もういらないよ」と言われて。毎日毎日、食うに困ったのが、水木しげるのドラマを見ていただければ……

(宇多丸)『ゲゲゲの女房』を。

(みなもと太郎)そうそう。あの時代が、貸本が全部ダメになって、ストーリー漫画を作る腕はあるのに、発表する場所がなくなった。その時に、ぴったりさいとう先生が雑誌を口説いて。「大人も漫画を読む時代が来るんだ」ということを言った。

(宇多丸)言って、24ページ割かせて。本当は100ページとかで行きたいけど、まずは20何ページ割いた。

(みなもと太郎)それがバカ当たりしたことによって、割いているだけでは間に合わないから、次々とストーリー漫画雑誌をどこも出すようになった。最初に出したのが芳文社『コミック magazine』。次が、少年画報の『ヤングコミック』がいつだったかな?

(宇多丸)先生、大丈夫です! 細かいデータは我々で調べます!

劇画雑誌が次々創刊される

(みなもと太郎)『プレイコミック』とか、そういうのが出て。そうすると、さいとう・たかを1人では賄えなくなった時に、その貸本で実力をつけていた人たちがドッと食えるようになって、水木御殿も建つようになるわけですよ。

(宇多丸)ドッと入ってきて、つまり劇画ブームっていうのが本当に形になった。

(みなもと太郎)それで初めて、ストーリー漫画の面白さにみんなが目覚めて。我も我もと書きたくなった世代が、やっと俺らが入るわけだ。

(宇多丸)なるほど。要するに、そこでいままで貸本というある種アンダーグラウンド文化だったものが、完全にオーバーグラウンドに乗って。そのレールの先が、いまの日本の漫画文化であると。

(みなもと太郎)だから、いきなり『巨人の星』が出るわけはないんです。あの人は、さいとう・たかをのいちばん最初の弟子です。

(宇多丸)川崎のぼるさん。はい。で、ずっとあの絵柄っていうのを浸透させていったという。絵柄とか、ホモソーシャル感とか(笑)。その話はちょっと、するとまた長いからあれですけど。

(みなもと太郎)そうですね。ちょっと今日はできないだろうな(笑)。また呼んでくれ。

(宇多丸)そうですね。また第二弾。ちょっとじゃあ、大事なことを、最後に締めでお聞きしたいんですけど。

(みなもと太郎)そういうことで、とにかくあらゆる今、漫画で食えている人間は、手塚治虫だけだったら本当に、いまでも2ページ、8ページでなんとか食わなきゃならなかったものを、いまは何十ページでも書けるような時代になったのは、これは全部さいとう・たかをの功績だと。これをとにかく忘れないでくれというのがひとつです。それが、私の話。

(宇多丸)はい(笑)。まあ、量産できてね、プロとしてやっていけるっていうのはそういうことですよね。ただですね、最後にこれだけちょっと、急ぎ足になってしまいますがうかがいたいのは……

(みなもと太郎)あと何分なの?

(宇多丸)あとね、5分ぐらい……

(みなもと太郎)そりゃ大変だ。

(宇多丸)そんなすごい人なのに、なぜそれが、さいとう・たかをの偉大さがきっちり歴史的に評価されてこなかったのか?

なぜ、さいとう・たかをの偉大さが評価されなかったのか?

(みなもと太郎)それは、「読者にわかるものしか書くつもりはない」という。これですよ。『ねじ式』は絶対に書かない。さいとう・たかをは。

(宇多丸)わかりやすいエンターテイメント。あくまでお客様第一の作品だけを作り続けてきた。

(みなもと太郎)そうです。だから評論家から見れば、「こんなクソみたいな、面白いだけの作品をいくら量産したって評価なんかしてやらねえよ」というのが、これまでの評論家の世界ですね。

(宇多丸)どのジャンルでも、ありますよね。エクストリームな、ちょっと尖った表現は当然ね、評価されるけど。

(みなもと太郎)そうなんです。だから手塚治虫の場合は、中身にいろんなヒューマニズムであるとか何とか言って……

(宇多丸)偉い感じのテーマがあるから。

(みなもと太郎)そう。いくらでも研究本が出せるけど。それに比べて、横山光輝は出なかった。なぜか? それは、やはりエンターテイメント志向だったから、思想的なものを盛り込む必要はない。

(宇多丸)絵もね、無色透明って言っちゃあ失礼ですけど。本当に。

(みなもと太郎)それと同じ意味です。さいとう・たかをはかっこいいだけでいいんです!

(宇多丸)かっこいい! いいムードだ!

(みなもと太郎)(笑)

(宇多丸)本を読んでいて、笑っちゃいましたけど。「いいムードだ」って。

(みなもと太郎)「いいムードだ」という言葉を発明した時にさいとう・たかをは化けたんだけど。そんな話をし出すとまた……(笑)。

(宇多丸)ねえ。ちょっとこの「いいムード」の話は長くなるからやめましょう(笑)。

(みなもと太郎)いくらでも出るんだけど(笑)。

(宇多丸)そうか。でも、どのジャンルでも、すごく……

(みなもと太郎)問題提起っていうのがないんです。だから本当に、ハリウッドの娯楽大作を見ているからそれでいいのであって。それを、俺らの世代で言うとアート・シアター・ギルドか。ウジウジした暗いお話。「生きるのか、死ぬのか。死んじゃおうか」というような話。そんなのは、書かない。

(宇多丸)うんうん。だから本当はエンターテイメントに踏みとどまり続けて。「面白いだけ」っていうけど、面白いだけっていちばん難しいと思うんですけど。

(みなもと太郎)そうそうそう。「かっこいい」ということを、たしかにいくら読んでも、かっこいいしかないんです。それでいいんです! まずはね。

(宇多丸)しかも、それが現に読者というか、大衆には常に支持されている。ただ、みなもと先生はあれでしょう? 「あんた、本気を出せばみんながビビるようなのを本当はできるのに……」って。

(みなもと太郎)それについては非常に難しい話があって。あと2分やそこらで話せるかどうか……

(宇多丸)あと2分で。これは第二弾ということで!

(みなもと太郎)あるんだけど。『烙印の道(?)』というものすごいゴルゴの原点になっている作品がここにある『ゴリラマガジン12』ですね。これに『烙印の道(?)』というのがあるんですが。

(宇多丸)ゴルゴの原型なわけですね。眉毛も太い。

(みなもと太郎)ものすごいハードボイルドなお話で。「これが素晴らしい」とさいとう先生に言ったら、「これがワシ、いちばん嫌なんや」と。

(宇多丸)本人は自分と評価が違う。なんで嫌なんですか?

(みなもと太郎)「書けるから嫌だ」っていう風に。それが俺もびっくりしたの。「考えないで書けるから」って。

(宇多丸)ああ、「こんなのは楽だよ」と。

(みなもと太郎)そう。だから「自分で書いている気がしないぐらい、こんなのは書ける」って。「ええっ? そんなことってあるのか?」って。で、こっから話をね、どんどん進めていくと、ヤクザ映画の最後の傑作『竜二』の話に入って……

(宇多丸)ああー、『竜二』の話まで行くんですか。これはちょっと待ってくださいよ。やっぱり『風雲児たち』ですね。ダメだ、そうすると……

(みなもと太郎)ねえ。私にやらせると、絶対に……(笑)。

(宇多丸)絶対にそういうことに(笑)。でも、その過去に対しても。もっとさいとう先生の真意も知りたいですし。

(みなもと太郎)そうだよ。まだ『踊りバッタ(?)』の話もしてないぜ。

(宇多丸)『踊りバッタ(?)』。そうですね!

(みなもと太郎)これまでの少年剣士。美少年しか主役を張ってない時代に。あの時代、まだシュワルツネッガーが生まれていない時代に……

(宇多丸)まあ、ガチムチ系と言いますかね。

(みなもと太郎)そう。いきなりそれが主人公としてドーン!って出てきたのが『踊りバッタ(?)』です。

(宇多丸)『踊りバッタ(?)』って初めてこれ、見たんだけど。これ、主人公って……今の目で見ても、ちょっとギョッとしますけどね。

(みなもと太郎)そうです。そうです。あれをいきなり出したんだから。そこのところで発想が違うんですよ。で、とにかくヤクザものっていうか、こんなアクションものは、もう考えないで書ける腕を持っているが故に、本人は苦しんだところがある。そこらへんからさいとう・たかをという作家の本質に入らなければならないのに……

(宇多丸)ならないのは、次回!(笑)。ではですね、ぜひ第二回をお願いするとして、今回、お知らせ事。まずいましておくことがあれば、お願いします。

(みなもと太郎)そうですね。とにかく熊本が大変なことになっていて。熊本出身の漫画家、いっぱいいるんですよ。私が今回、手塚賞の審査をやって押した高浜寛っていう先生。『蝶のみちゆき』、連載中の『ニュクスの角灯』、それからフランス語版でまず出た『SAD GiRL』とかいうのを書かれている、すごい実力派なんですけども。

(宇多丸)はい。

(みなもと太郎)まあ、こういう人たちだって、さいとう・たかをが切り開いてくれたから!

(宇多丸)それはもちろんです! それはもちろんです!

(みなもと太郎)とにかく、熊本地震で家が倒れちゃって。だけど、高浜寛さんだけじゃないです。園田健一もそうだし、とり・みきもそうだし。いっぱいいるんです。大変なことになっているのは。で、がんばっていただきたいと。熊本地震で被災されて。ところがその高浜さんはですね、編集部が「助けること、なにかありますか?」って言ったら、「漫画の画材を送ってくれ」と。そんな……俺はとても言えないな。

(宇多丸)まあ、じゃあ熊本支援をと。

(みなもと太郎)そうですね。執筆がんばってられますので。とにかく、そういう高浜さんだけじゃなくて、いっぱいおられますので。支援、お願いしますと。俺もそういうことを言うしかできないので、困っているんだけど。

(宇多丸)みなもと先生ね、とにかくやっぱりみなもと先生にこの時間で任せたのが間違いでした、ということで。8ページの連載でした。これは。

(みなもと太郎)そうでしたね(笑)。

(宇多丸)だから、これから100ページ用意してお待ちしております。ぜひ、第二弾。お呼びしたいと思いますので。よろしくお願いします。本日は『みなもと太郎が語る さいとう・たかを特集 第一話』でした! ありがとうございました。

(みなもと太郎)どうも、ありがとうございました。すいません。

<書き起こしおわり>


↑このトークの続編です!

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