安住紳一郎が語る 八丈島と宇喜多秀家

安住紳一郎が語る 八丈島と宇喜多秀家 安住紳一郎の日曜天国

安住紳一郎さんがTBSラジオ『日曜天国』で2014年11月に話したトークの書き起こし。八丈島の公開放送を翌週に控え、安住さんが八丈島の名物や歴史、そこに流された戦国大名、宇喜多秀家について話していました。

(安住紳一郎)さて、来週11月30日、八丈町からの公開放送が迫ってまいりました。来週、日曜天国。年に一度の公開放送を今年はフランチャイズタウンの東京都八丈町。八丈島にありますが。八丈町の多目的ホール、『おじゃれ』からお送りすることになっています。

(中澤有美子)はい。

(安住紳一郎)リスナー調査で最も人口に対する割合のお便りが多かった町をフランチャイズタウンと私たちは呼んで、そこにお世話になるということを決め、1回目は群馬県神流町。2回目が東京都檜原村。そして3回目が千葉県館山市。そして4回目。2014年。今年は東京都八丈町。八丈町の多目的ホールおじゃれから公開放送を来週、11月30日に行います。

(中澤有美子)はい。

(安住紳一郎)ぜひ、お時間のある方はこぞっておでかけえください(笑)。

(中澤有美子)そうですねー。そうですねー。はい。

(安住紳一郎)簡単には、出かけられませんね。八丈島ですからね。

(中澤有美子)はい。

(安住紳一郎)去年、2013年に八丈町は役場が新しくなりましたが。それと時を近くして、多目的ホールもお作りになったようで。おじゃれという新しくて、非常に大きな建物ができました。非常に立派な建物で公開放送をすることができるようです。楽しみにしています。

(中澤有美子)はい。

(安住紳一郎)八丈島はみなさんは行かれたことがありますでしょうか?どういうイメージでしょうかね?東京都なんですよ。島の中では品川ナンバーの車が走っているということなんですが。

(中澤有美子)ええ。

(安住紳一郎)ハワイは常夏と言われますけども、常夏ほどではありませんが、常春の島。常に春。常春の島と呼ばれているそうで。コートが必要な日は、年に1日か2日かと言われておりまして。本当に、ずーっと1年中、春が続いているような感じということで。少し湿度もありまして、キノコや苔類が非常に元気に育つ島としても有名です。

(中澤有美子)へー。

(安住紳一郎)海外旅行が解禁になる前は、新婚旅行で八丈島という方も多かったようですが。最近はダイビング、それから黒潮が間近に流れておりますので、釣りに出かける方。あるいは、温泉好きの方はよく出かける島として有名で。東京から南に250キロ。伊豆七島の南端、青ヶ島と南端を形成しておりますが。船ですと、フェリーで10時間。飛行機ですと50分という。なかなか、簡単には出かけられませんが。ぜひ、一度はお出かけ担ってみるのもいいのではないでしょうか?

(中澤有美子)そうですよねー。ええ。こう、近くて遠い。けど、遠いと思っているけど、近いみたいな感じなんでしょうね。

(安住紳一郎)そうですね。織物の黄八丈が有名ですが。絹織物を黄色や黒で染め上げたものですけども。黄色の色は、昔、抗菌ですか。衛生的な色だということで。黄八丈は江戸時代の医者やインテリ層によく愛されたということで、大変いまもいい値段がしますけども。人気の織物ということで。八丈島の黄八丈。

(中澤有美子)絹織物。

(安住紳一郎)そうですね。八丈島で織られているから、黄八丈ではないんですよ。黄八丈がある島なので、八丈島なんですよ。

(中澤有美子)黄八丈が先?

(安住紳一郎)黄八丈が先なんですね。こう聞きますと、黄八丈に対する見方が変わりますね。ええ。

(中澤有美子)それほどのものだと。

(安住紳一郎)そうですね。東京ばな奈があるから東京、みたいな。

(中澤有美子)(笑)

(安住紳一郎)それぐらいのインパクトですか?ええ。

(中澤有美子)(笑)。はい。ねえ。

(安住紳一郎)黄八丈が織れれている島なので、八丈島なのです。うん。

(中澤有美子)ええー。

(安住紳一郎)そうですね。そうすると、黄八丈に対する興味が急にわいてきますよね。島の名前を決めるほどの織物なのか!という。

(中澤有美子)はあ。

(安住紳一郎)それから、ダイビング、釣りも有名ですが、あと、八丈島といいますと、やはり流人の島というような印象が強い方も多いかもしれませんね。

(中澤有美子)はー。ねえ。島流しですね。

流人の島 八丈島

(安住紳一郎)島に流されるというかね。島流しということですけども。なんとなく、この言葉の持つ意味はなんとなくね、普段身近に経験していない人間は、発音するたびにドキッとしますけども。

(中澤有美子)(笑)。はい。

(安住紳一郎)意外にですね、島の人たちはこの歴史に関しましては、誇りを持っているところがありまして。八丈島に行きますと、最近観光地ではご当地キューピーなるものがよくおみやげ屋でキーホルダーで売られておりますが。八丈島のご当地キューピーちゃんは、流人キューピーです!

(中澤有美子)(爆笑)

(安住紳一郎)黒いTシャツを着ておりますよ。『流人』と書いた黒いTシャツを着たキューピーちゃんがおみやげ屋で飛ぶように売れている!

(中澤有美子)(笑)。かわいいお顔はそのままに。流人のTシャツを。

(安住紳一郎)そうですね。もともとは、歴史が詳しい方はお分かりかもしれませんけども。宇喜多秀家という大名が八丈島に行ってますね。これがもともと、いちばん最初のスタートだったようですが。公式の見解では。

(中澤有美子)ええ。

(安住紳一郎)宇喜多秀家という大名は、みなさん知ってらっしゃいますでしょうか?名前はなんとなく聞いたことがあるなという感じかもしれませんけども。岡山の大大名ですが。57万石ぐらいあった、大大名ですけども。宇喜多秀家が八丈島に流されたというのが八丈島の歴史を大きく決定したと言ってもいいのではないか?と思いますが。

(中澤有美子)はい。

(安住紳一郎)ちょっと長くなりますけども、歴史好きの私から、宇喜多秀家の案内をひとつ。

(中澤有美子)はい。

(安住紳一郎)関ヶ原の戦いはみなさん、ご存知でしょうか?1600年に起こりましたけども。東と西。東軍と西軍にわかれまして、雌雄を決した一大決戦とも言われておりますが。その関ヶ原の戦いに勝ちましたのが東軍で、徳川家康を中心にいたしまして、東軍に属した大名。あるいは、人間たちがその後子孫を反映させ、現在の日本の大きな流れにつながっているということは言い過ぎかもしれませんけども、大きな筋は間違えていないと思います。一方西軍に属した人間たちが没落したというような、だいたいの感覚でいいと思いますが。

(中澤有美子)うん。

(安住紳一郎)では、東の代表と言えば、誰でしょうか?当然、徳川家康という名前が出てくると思います。他にも、東側に属した大名の名前は、続々と出てきます。それは、後年に渡り繁栄したから、いまもみな、知っているのです。そして、勝った人たちの話しか後世に伝えられないという事情もありまして、東側の話ばかりがいまの平成の世の中にもあふれているというところがあるかもしれません。一方、負けた西側でありますが、西側の代表と言えば、誰でしょうか?やはり、石田三成の名前が出てくるかと思います。しかし、西軍の石田三成の他に、誰がいましたか?と言われると、名前があまり出てこないというのが、みなさんではないでしょうか?いかがでしょうか?

(中澤有美子)うん・・・

(安住紳一郎)うーん。まあ、出てくるんですけどね。まあ、なんとなく、イメージとして。

(中澤有美子)ええ。

(安住紳一郎)そうですね。そして、東側の主力は誰だったか?というと、当然これも徳川ですね。徳川家康。では、西側の主力は誰だったのでしょうか?うん。これは、実は石田三成でも、大谷吉継でもないんですね。西側の主力は、びっくりしますよ。宇喜多秀家なんです。

(中澤有美子)ええっ!?

(安住紳一郎)ダントツ、西側の主力は宇喜多秀家です。

(中澤有美子)そうなんですか。

(安住紳一郎)宇喜多秀家が1万7千という兵隊を出しています。これは西側ダントツ。ということは、東の徳川家康と、まあ石田三成は官僚的なポジションだったので、6千ぐらいの兵を出しているんですけども。東の徳川家康に対して、西側の言わば実働部隊と言いますか、戦ったメインは宇喜多秀家なんですね。ええ。

(中澤有美子)へー!

(安住紳一郎)西側の主力は宇喜多秀家。そして、宇喜多秀家。豊臣秀吉にたいへん可愛がられまして。ほとんど養子同然のような扱いを受けていまして。宇喜多秀家の『秀』は豊臣秀吉の『秀』からもらっていますし。後年、豊臣の姓ももらったということで、宇喜多秀家は豊臣秀家と名乗ることもあったということですね。

(中澤有美子)へー。

(安住紳一郎)豊臣秀家と聞きますと、もう豊臣秀吉の後継の1人と考えてもいいわけで。徳川の世にならなければ、宇喜多秀家が日本のリーダーになっていた可能性は十分にあるわけですね。

(中澤有美子)はー。

(安住紳一郎)しかも、宇喜多秀家は前田利家の娘で、秀吉の養女、豪姫という女の人がいますが。豪姫を奥様にもらってますからね。前田利家と言いますと、徳川家康に次ぐ、ナンバー2のポジションですからね。秀吉の寵愛を受けていて、ナンバー2の前田利家の娘を嫁にもらっているという、もう、本流中の本流ですよね。

(中澤有美子)盤石ですね。

(安住紳一郎)盤石ですね。その、宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで負けて、八丈島に流されて。ということで、もしかすると関ヶ原の戦いが勝敗逆になっていたら、みんなが知っているとっても有名な、もしかすると徳川家康ぐらいの人が八丈島に行っていたかもしれない。と、考えると、当時の八丈島のインパクト、恐るべし大ですね。

(中澤有美子)本当ですね!本当ですね。はー。

(安住紳一郎)まあ、めちゃめちゃキーパーソンが八丈島にやって来たというようなことになりますよね。

(中澤有美子)そうですよね。すごい重要人物が、ああー。上陸したんだ。

(安住紳一郎)宇喜多秀家一行13人が関ヶ原の戦いの後ですけども、八丈島に来るということなんですね。そして、八丈島の気候がたいへん良かったので、宇喜多秀家は84才まで長生きをいたしまして。関ヶ原の戦いに参加した大名の中で、いちばん遅くまで生きていたのは宇喜多秀家という。

(中澤有美子)そうなんですね!

(安住紳一郎)驚いちゃうという。

(中澤有美子)へー!

(安住紳一郎)ちょっと歴史の裏側を見てみると、面白いことがたくさんありますね。という感じですね。

(中澤有美子)はい。本当に。

(安住紳一郎)そして、金沢の前田家は残りましたので。そして、その後、百万石をいただくような大きな家になりました。で、宇喜多秀家は豪姫と結婚していましたので、しばらくは八丈島に加賀の前田家から、お米を少し送っていたという。これもまたちょっとね、徳川幕府は知っていたんだろうけど、前田家もちょっと宇喜多家に関しては無視できないぞという感じで、援助をしているという。

(中澤有美子)へー。

(安住紳一郎)ですね。そして、宇喜多秀家一行は、『宇喜多』という名前を名乗ることができなくなりましたので、今度は『浮田(うきた)』と名前を変えまして、八丈島でしばらくずっと生活をするようですけども。そして3百年たちまして、徳川幕府がなくなりましたので。徳川幕府にとって厄介だった浮田さんたちは、ほぼ罪のない状態になりますね。

(中澤有美子)ええ、ええ。

(安住紳一郎)まあ、もともと罪はないんですけどもね。負けちゃっただけっていうことです。ええ。なので、明治になりますと、御赦免ということで。もう罪はないということで、本州の方に戻って来ても結構ですということになって、浮田一族が、その頃はもう75人ぐらい八丈島にいたらしいですけども、そのまま、板橋にある前田家の下屋敷にみんなで移住してくるということで、板橋の方には『浮田』とか『八丈』という地名が昔はあったらしいですけども。

(中澤有美子)ああ、そうなんですね。

(安住紳一郎)なので、板橋と八丈島はちょっと仲がいいと。ええ。

(中澤有美子)へー。

(安住紳一郎)そういうような傾向がありますね。そして、八丈島の人たちは、いまも島から出て行く公務員たちを『彼はこの春、御赦免になりました』という、若干のジョークをもって送り出していくそうです(笑)。

(中澤有美子)(笑)。本当ですか?(笑)。

(安住紳一郎)面白いですね。

(中澤有美子)面白いです(笑)。『行ってらっしゃい』を『御赦免』で(笑)。

(安住紳一郎)ここまで話をしますと、宇喜多秀家が八丈島に流されたという一文を無視するわけにはいきませんね。

(中澤有美子)そうですね!

(安住紳一郎)へー!という感じになると思いますね。そして、その後板橋での移住に慣れなかった人がまた八丈島に戻りまして。いまも浮田という名前の人たちが八丈島にはたくさんいらっしゃるということのようですけどもね。ちょっとなんとなく、関ヶ原で勝ったチームの話ばっかりが聞こえてきますので、負けたチームの話を聞きますと、またそこにも、大河ドラマ並のドラマが出てきますね。

(中澤有美子)本当に。そうですねー。

(安住紳一郎)そんな八丈島に、みなさん、行ってみませんか?

(中澤有美子)(笑)。本当に本当に本当に。はい。ええ。

(安住紳一郎)そして、宇喜多秀家が八丈島に流されて、しばらく住んでいた跡地は、いまはスーパーになっています。

(中澤有美子)ああ、そうなんだ。へー。町の中心部ですか?

(安住紳一郎)そうですね。八丈島。ぜひ、まあトップシーズンに行かれるのがいちばんいいかもしれませんけども。少し季節外れですが。八丈島。公開放送、来週やりますので。ぜひ、お近くの方は・・・『お近くの方』ってあんまりいないですけどもね。

(中澤有美子)(笑)

(安住紳一郎)青ヶ島の方とかね、御蔵島とかになっちゃう。お近くの方はこぞってお出かけください。

(中澤有美子)本当に、はい。

<書き起こしおわり>

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